第1話 患者は一名
「……ここ、診療所の入口ですよね?」
レナートは、足元を塞ぐ大きな尻尾を見下ろした。
灰青色の鱗に覆われたそれは、太い木の幹ほどもある。持ち主は裏庭の日なたに寝そべり、こちらに背を向けていた。
建物の壁には、確かに『竜はこちら』と書かれた木札が掛かっている。
矢印どおりに進んでみたら、この有様だった。
「すみません。通してもらえませんか」
返事はない。
「少しだけでいいんですが」
尻尾の先がゆっくり動いた。
レナートが期待したのも束の間、尻尾は元の場所へ戻った。通れるようになったわけではない。
川向こうから鐘の音が聞こえてきた。
赴任初日から、竜に道を譲ってもらえず遅刻する。
王都の同僚たちに知られたら、しばらく笑いものになるだろう。
「アルト。またそんなところで寝てるの?」
背後から女性の声がした。
振り返ると、三十代半ばほどの女性が、布の包みを抱えて立っていた。栗色の髪を後ろでまとめ、胸元には小さな鍵束を下げている。
彼女はレナートと、その足元にある尻尾を見比べた。
「あら。新しい先生?」
「今日からこちらでお世話になる、レナートです」
「受付のマリエッタです。よろしくお願いします」
にこやかに挨拶した彼女は、次の瞬間、声を張り上げた。
「アルト! 先生が通れないでしょう!」
老竜はようやく首を持ち上げた。
大きな角は片方の先が欠け、灰青色の鱗には、ところどころ銀色の光沢が混じっている。翼の縁は長い年月を経て擦り減り、日を浴びた背中には幾筋もの古傷が見えた。
アルトは二人を眺めたあと、何事もなかったように顎を前脚へ戻した。
「……聞こえてますよね?」
「ええ。聞こえています」
「じゃあ、どうして」
「どきたくないんでしょうね」
マリエッタはあっさり答えた。
「先生、正面の扉からどうぞ。ここは竜が出入りする通路なので」
「竜医者でも?」
「残念ながら、人間は人間です」
返す言葉もなく、レナートは旅行鞄を持ち直した。
マリエッタは楽しそうに笑うと、先に建物の角を曲がっていった。
裏庭では、アルトが満足げに目を閉じている。
レナートはその姿をもう一度眺めてから、正面の入口へ向かった。
◇
診療所は、古い石橋のたもとに建っていた。
白い石造りの一階には受付と診察室があり、奥には竜が通れる広い扉が設けられている。裏庭は水路に面していて、低い石垣の向こうでは、朝の荷舟がゆっくり行き交っていた。
開け放たれた窓からは、パンを焼く匂いが流れ込んでくる。
王都の病院なら、この時間には廊下が患者でいっぱいだ。ここでは川を渡る荷舟の声まで聞こえる。
「何か足りないものがあります?」
机の向こうからマリエッタに尋ねられた。
「いえ。思っていたより静かだなと」
「今日はまだ一人ですから」
彼女は受付簿を開いた。
そこには、整った文字でこう記されている。
『本日の患者 一名』
「……一名?」
「はい」
「竜なら、一頭じゃないんですか」
マリエッタはペンを置いた。
「王都ではそう数えるんです?」
「カルテでは、普通は」
「こちらでは昔から一名です。竜だって患者ですから」
「なるほど」
「それとも先生、そこから直します?」
「いや、結構です」
「よかった。初日から帳簿を全部書き直すところでした」
マリエッタは笑いながらも、次の頁を開く前に、窓際の水桶へ目をやった。水が半分ほど減っている。
「先生、診察の前に一つお願いしてもいいですか」
「何でしょう」
「ノエが入るとき、あの桶を戸口から離してください。昨日、尻尾で引っかけたんです」
初日の医師にする頼みとしては、ずいぶん細かい。けれど彼女は、帳簿に書かれていない診察室の不便まで把握していた。レナートが桶を動かすと、マリエッタは空いた通路を確かめてから、ようやく患者を呼びに行った。
レナートは受付簿へ目を戻した。患者はノエという若い竜だ。
「症状は、右の翼を閉じたがらない、ですか」
「ええ。先週からです。治療用の保護帯を新しくしたんですが、その頃から妙に嫌がるようになって」
「治癒息を使う仕事には?」
「まだ経験は浅いですけど、正式に協力できる年齢ですよ。健康診断も受けています。ただ、アルトの後ばかりついて歩くので、みんな少し困っています」
レナートは裏庭を思い出した。
「あの大きな竜ですか」
「そうです。アルトはもう治療の仕事から離れていますけどね。ノエのほうは、まだ離れる気がないみたいで」
「親子なんですか?」
「いいえ。血のつながりはありません。でも、ずいぶん懐いています」
マリエッタは受付簿を閉じた。
「では、先生。最初の患者さんをお呼びしましょうか」
◇
ノエは、淡い金色の鱗を持つ竜だった。
翼の先にはわずかに青みがあり、長い首を動かすたび、細かな鱗が朝日を受けて光る。まだ身体つきに若々しさは残っているものの、背丈はレナートを優に超えていた。
そのノエが、診察室の入口で頑として動かない。
「……なるほど」
レナートは診察台とノエを交互に見た。
大型の竜でも身体を預けられるよう、診察台は低く幅広く作られている。台の上には滑り止めの厚い布が敷かれ、足元には緩やかな踏み台まで用意されていた。
それでもノエは、敷居の手前から動かなかった。
「昨日まではここへ入れたんですか?」
「入れますよ。診察そのものが嫌いなわけでもありません。ただ、台へ乗ろうとするとこうなるんです」
マリエッタがノエの前へ回った。
「ほら。先生に診てもらいましょう」
ノエは鼻先を彼女の肩へ寄せたあと、診察台から遠ざかるように首を引いた。
「ずいぶん嫌われてますね」
「私がですか?」
「診察台が」
「よかった。私のことかと思いました」
レナートは笑い、少し離れた場所にしゃがんだ。
ノエの右の翼は、身体の横で中途半端に開いたままだった。
左の翼は自然にたたんでいる。歩き方に異常はなく、尾の動きにも左右差はない。
「少し動かしてもらえるか?」
レナートは自分の腕を広げてみせた。
ノエはその動きを眺めていたが、左の翼だけを広げた。
右側には動かす気配がない。
「痛むのかもしれないな」
関節か、保護帯か。無理に翼を持ち上げず、まず留め具を確かめた。
「この保護帯、いつ新しくしたんです?」
「六日前です。身体が少し大きくなったので、寸法を直してもらいました」
「直したあと、動き方は確認しましたか」
「立ったまま翼を広げてもらいました。そのときは問題なかったんです」
「なるほど」
レナートは留め具の位置を見た。
右の翼の付け根を通る革帯だけが、ほんの少し内側へ寄っている。
ノエが翼を閉じようとすると、その部分が鱗の縁に食い込むようだった。
「ちょっと外すぞ」
ノエの様子を見ながら、革帯を緩める。
すると、押さえられていた鱗の下に、薄く赤くなった部分が見えた。
レナートはそこへ指先を近づけた。ノエが身じろぎしたので、無理には触れず、周囲の状態を目で確かめる。
「傷は浅そうですね。でも、翼を動かすたびに当たっていたなら、嫌がるのも当然です」
「やっぱり保護帯ですか」
「それも原因の一つです」
右の帯だけを調整し、保護用の柔らかな布を挟む。
もう一度、翼を広げるように促した。
ノエは恐る恐る右の翼を動かした。
途中で止め、一度首を傾げる。
それから、さっきより大きく広げた。
レナートは翼の付け根と関節の動きを確かめた。無理な角度を避けて数回動かしても、先ほどのような痛がる反応は見られない。
「よし。動き自体には大きな問題はなさそうだ」
「助かりました。これなら診察台にも乗れますね」
マリエッタが踏み台を指した。
ノエはそこまで歩いた。
前脚を一歩だけ上げる。
しかし、また下ろしてしまった。
「……あら」
「まだ嫌みたいですね」
「さっきまでよりは近づいたんですけど」
レナートはノエを眺めた。
翼はもう自然にたたまれている。踏み台へ体重をかけても痛そうな様子はなかった。
それでも、どうしても台へ乗ろうとしない。
「以前、ここで嫌なことでもあったんでしょうか」
「特には。私が知る限り、怖がるような診察はしていませんよ」
マリエッタが答えた。
そのとき、ノエが首を伸ばした。
視線の先にあるのは診察台ではない。
診察室の奥、大きな扉だった。
扉の向こうから、かすかに鱗の擦れる音が聞こえてくる。
「もしかして」
レナートは立ち上がり、裏庭へ続く扉を大きく開けた。
そこには、相変わらず日なたを占領しているアルトがいた。
ノエの首がぴんと伸びた。
「ああ、そういうことか」
思わず笑みがこぼれた。
ノエは、アルトを見失うのが嫌だったのだ。
痛い翼に加え、見知らぬ部屋からアルトが見えなくなるのが嫌だったらしい。
「アルトのほうを向いていていいぞ」
レナートが診察台を示すと、ノエは慎重に踏み台へ前脚をかけた。
そのまま後脚を運び、ようやく台の上へ乗る。
「……あら、本当に」
マリエッタが窓の向こうを見た。
「アルトの顔が見えればよかったなんて。あの爺さんのどこがそんなにいいんでしょう」
「長く一緒にいるんでしょう。ノエには安心できる相手なんですね」
「そのわりに、片思いに見えますけどね」
アルトの尻尾が石畳を打ち、ノエが嬉しそうに喉を鳴らした。
◇
外した革帯には、鱗のこすれた跡が細長く残っていた。レナートが留め具を指で押すと、内側の縁が思いのほか硬い。右の翼を閉じたとき、ここだけが皮膚へ押しつけられるのだ。
「これ、一度調整してから着けたんですよね」
「ええ。新しい身体に合わせた寸法で作ってもらって」
マリエッタの顔が曇った。職人が間違ったのか、それとも採寸した側が見落としたのか。原因を決めるには、まだ足りない。
「いま診た限り、大きな怪我ではありません。でも、もし翼を広げたままの仕事で気づかず使い続けていたら、もっとひどく擦れていたでしょう」
「治癒息を使う日じゃなくて、よかったわ」
レナートは手を止めた。装具の擦れは、治癒息を使う能力そのものとは関係がない。けれど、翼をかばって息の使い方や休息中の姿勢が変われば、本人にしか分からない負担が重なることもある。
ノエが窓へ首を向ける。レナートはその仕草に気づき、無理に台へ戻さなかった。外した帯を机へ置いて、翼を畳んだときと広げたときの形を、紙に別々に描いた。
「この絵、職人さんに見せます」
「……先生、絵は得意ですか」
「数字を書くよりは」
マリエッタは描かれた翼を覗き込み、言いにくそうに首を傾けた。
「じゃあ、数字も一緒に書きましょう」
レナートは素直に採寸表を取り直した。
そのあとの診察は順調だった。レナートは保護帯の寸法を改めて測った。
六日前の寸法でも、動かせば当たる場所がある。採寸表の数字だけでは分からなかったことだ。
「今日は右の帯を外して休ませましょう。明日もう一度動きを見てから、新しい寸法で作り直します」
「治癒息のお仕事は?」
「しばらく控えたほうがいいですね。擦れた場所が落ち着くまで、無理はさせたくありません」
マリエッタは受付簿の余白へ予定を書き込んだ。
ノエは診察台の上で落ち着いている。
レナートが背中を撫でると、気持ちよさそうに目を細めた。
その胸が、ゆっくり上下した。
一度、二度。
喉の奥で、小さな音がした。
ノエは顔を持ち上げ、裏庭のアルトを見た。
次の息を吸うまでに、ほんのわずかな間があった。
診察を終えた安堵か、それとも、何かが気になったのか。
レナートが呼吸を確かめようとしたときには、ノエはもう普段どおりの様子で尾を動かしていた。
それでも、一応は確認しておこう。
そう考えた、そのときだった。
――コン。
診察室に、乾いた音が響いた。
――コン、コン。
裏庭の板張りを、続けて叩く音だった。
マリエッタが顔を上げた。
「アルト?」
老竜は身体を起こし、こちらを見ていた。
さっきまで眠そうにしていた目が、しっかり開いている。
「何かあったんですか?」
レナートが尋ねると、マリエッタはすぐに答えた。
「診療を止めて、様子を見てほしいっていう合図です。昔の竜の世話係が使っていたもので」
「アルトが具合悪いんでしょうか」
「そうとは限りません。何か気になったときにも使いますから。とにかく、一度確認しましょう」
レナートは頷き、診察台から離れた。
アルトは裏庭の敷物の上で前脚を揃え、こちらを見つめている。
息が荒い様子はない。
苦しそうな姿勢でもない。
レナートが近づくと、アルトは首をわずかに動かした。
「どこか痛むのか?」
老竜は返事をしない。
大きな琥珀色の目が、開け放たれた扉の奥へ向けられた。
「……ノエ?」
振り返ると、ノエは診察台の上でじっとしていた。
マリエッタがそのそばについている。
レナートは診察室へ戻り、ノエの胸と腹の動きを確かめた。先ほどのように息を止めた様子はなく、呼吸は落ち着いている。
頭を動かすとレナートの手を追い、鼻先を近づけてきた。
強い痛みを訴える仕草も見られない。
「今は特に異常はなさそうですが……」
「そうですか」
マリエッタは少し考え、裏庭へ向かって声をかけた。
「アルト、先生が診てくれたからね」
老竜は鼻を鳴らした。
納得したのかどうか、レナートには分からなかった。
「よくあるんですか、こういうこと」
「たまにありますよ。アルトは昔から周りの竜をよく見ていますから」
「心配性なんですね」
「どうでしょうね。自分の診察となると、あれだけ嫌がるくせに」
マリエッタは肩をすくめた。
レナートはもう一度ノエを確かめた。
呼吸は落ち着き、翼も自然な位置に収まっている。
その場で長く拘束するより、いったん休ませて経過を見たほうがよいだろう。
「今日はここまでにしましょう。休んでいる間も様子を見てもらって、変わったことがあればすぐ教えてください」
「分かりました」
ノエは診察台から降りると、開いた扉へ向かって歩き出した。
アルトのそばまで行き、嬉しそうに首を寄せる。
老竜はうるさそうに鼻先を背けた。
それでも、ノエが隣に腰を下ろすことまでは拒まなかった。
レナートはその光景を眺め、思わず口元を緩めた。
「ずいぶん仲がいいんですね」
「片方はそう思ってるでしょうね」
マリエッタの返事に、レナートは笑った。
◇
診察を終えたあと、レナートはカルテを整理していた。
翼の付け根に軽い擦過傷。
原因は保護帯の圧迫と考えられる。
装具を調整。右の翼の安静を指示。明日再診。
そこまで書いたところで、ペンを止めた。
ノエが診察台を嫌がっていた理由も、備考欄に残しておいたほうがいい。
アルトの姿が見えれば落ち着く。
次に診察する医師が同じことで苦労する必要はない。
そう考え、最後の一行を付け加えた。
「……先生、ずいぶん丁寧に書くんですね」
マリエッタが、いつの間にか隣に立っていた。
「そうですか?」
「ノエがアルトの顔を見たがることまで書いてる」
「次に診るとき、役立つかもしれませんから」
「なるほど。それなら私も、アルトの焼き梨の好みを書いておきましょうか」
「それは診療に関係ないでしょう」
「薬を飲ませるとき、結構役に立つんですよ」
レナートはペンを置き、備考欄を読み直した。焼き梨の好みまでは書かない。それでも、ノエがアルトを見たがることは残しておこう。
「ところで、アルトのカルテもありますか?」
「ありますよ。昔からここで診てもらっていますから」
「少し見せてもらえませんか」
「もちろん。あとで持ってきますね」
マリエッタはそう言って、書棚のほうへ向かった。
レナートは窓辺へ行った。庭のノエは、アルトの腹へ鼻先を寄せて眠っている。風が吹くと、老竜が片方の翼を少し開いた。
翼の根元から先へ、白い線が走っていた。傷跡にしては鱗の表面が滑らかで、細く枝分かれした線は浅い弧を描いて途切れている。まるで、人間の傷の形だけを写し取ったようだった。
「マリエッタさん。あの模様、いつからあります?」
「四年くらい前かしら。古いカルテを見れば分かると思いますけど」
共鳴痕。治癒息を使う竜に現れることがある模様だ。それ自体が病気とは限らない。レナートも教本では見ていたが、これほどはっきりした線が何年も残るものなのか。
四年前、アルトは誰の傷を治したのだろう。
老竜は隣のノエが寝返りを打つのにも気づかないようだった。
レナートは机に戻り、アルトの古いカルテが届くのを待った。
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