第22話 合図の先
その日は、アルトが珍しく診察室の入口まで来ていた。
若い白鱗の竜が、治癒息の仕事を終えて休息室へ戻ろうとしている。診療の最中からアルトはその動きを見ていたが、焼き梨の匂いがしても窓へ寄ろうとしなかった。
レナートは白鱗の竜の経過を確認し、次の診察時刻を決めていた。
――コン。コン、コン。
レナートは手を止めた。
アルトは廊下の先を見ている。
初日のノエの診察が、一瞬だけ頭をよぎる。
「白鱗の竜を、もう一度見せてもらえますか」
世話係は不思議そうにしたが、竜を休息室へ連れていく前に足を止めた。
レナートは呼吸を観察し、昨日の平常時の記録と照らした。見た目には落ち着いている。しかし息を吐いたあとの間が、ときどき不自然に伸びる。短い診察では見逃してしまいそうな、小さな変化だった。
「今は次の仕事へ出さないでください。しばらく経過を見ます」
白鱗の竜は素直に敷物へ伏せた。アルトはしばらく眺めたあと、ようやく庭の日なたへ戻った。
白鱗の竜は、その日は治療復帰を認められなかった。世話係が日々の状態を観察し、再診を受けることになった。アルトの合図だけで病気と決めつけるつもりはない。ただ、普段との違いがいつからあったのかは確かめられる。
確認のため、レナートはテオに普段の白鱗の竜の様子を尋ねた。老いた世話係はしばらく考え、息を吐いたあとに首を動かす癖があると話した。
「今日のあれは、いつもより長く止まった。俺も気づいたはずなんだが、アルトのほうが早かった」
「それで診察を頼む合図をしたのかもしれません」
アルトが何を見ていたのか、レナートには分からない。老竜が床を叩いた位置から、白鱗の竜の休息場所はよく見えた。ただし、それだけで呼吸の異常を見抜いたと決めるわけにはいかなかった。
「また同じことが起きたとき、誰でも確かめられるようにしたいですね」
テオはアルトのほうを見た。
「アルトに頼りきりでも、若い者が困るしな」
白鱗の竜には午後にも治療の予定があった。予約表には、傷を負った人間の患者が一人入っている。
「予定はどうしますか」
マリエッタが小声で尋ねると、レナートは待合のほうを見た。
「エーヴァ先生にも知らせてください。いつ戻せるか、今ここでは約束できません」
患者は年配の織物職人だった。細工職人とは違い、その日は通常の処置を受けて帰れる見通しがあったが、治癒息を望んで来たことに変わりはない。
マリエッタが事情を説明すると、女性は眉をひそめた。
「竜のせいで待たされたってことですか」
「竜を診る先生が、いまの状態では治療に戻せないと判断しました」
「じゃあ、いつなら?」
マリエッタはすぐ返事をしなかった。その代わり、町医師の診察を先に受けられる時間を確認し、本人に選んでもらった。女性はまだ不満そうだったが、入口で回れ右することはなかった。
織物職人は、傷のある腕を上着の中へ隠したまま、予約票を見つめていた。
「ここへ来るまで、荷舟を一便見送ったんです」
「エーヴァ先生の診察は予定どおり受けられます。帰りの便に間に合うかも見ておきます」
女性は予約票をたたみ、上着の袖を直した。レナートは白鱗竜の再診時刻を確認したあと、帰りの荷舟の時刻を受付に聞いた。
レナートが診察室へ戻ると、マリエッタは予約欄の時刻に印を付けていた。予定を消しても、患者が待った事実まで消えるわけではない。レナートは予約票の控えに延期の理由とエーヴァへの引き継ぎ先を記し、実施していない治療の個別治療票とは分けて扱った。
休息室では、テオが白鱗の竜の前脚を乾いた布で拭いていた。若い竜は首を持ち上げ、背中へ置かれた水布を嫌がるように身体をひねった。
「嫌なら外そう」
テオが布を取ると、竜はほどなく落ち着いた。
「明日はまた違う様子を見せるだろう。いつもと違うってのは、それだけでも難しいことなんだ」
「でも、だから観察するんでしょう」
「そうさ。ただ、俺がいつも見てるのは、こいつの普段の様子だ。診断まではできん」
レナートは手元の紙へ、竜が布を避けたことと呼吸の間隔を別々に書いた。布を嫌がったから呼吸が乱れたのか、呼吸が乱れているから布を嫌がったのか。いまは決められない。
その日の再診では、治療復帰は見送られた。数日休ませ、複数回の観察と担当医の再評価で判断することになった。レナートは白鱗の竜のカルテに、次の治療を許可する前に必要な確認を記し、世話係へ渡した。
その夕方、レナートは竜が床を3回叩いたときの対応を書き留めた。合図を出した竜だけではなく、注意を向けた先も確認する。異常が見つからなくても、どこをいつ見たか残す。人が交代するときには、その情報を伝える。
マリエッタが紙を読んで笑った。
「これ、アルトに渡しても読めないでしょうね」
「竜のためじゃなくて、人間のための手順です」
「だったら大事ね。人間のほうがよく間違えるもの」
マリエッタは診察室の扉に寄りかかった。
「アルトは、自分のことになると全然知らせてくれないのにね」
「そうなんですか」
「具合が悪くても、焼き梨の皿を見たら立とうとするんですよ」
アルトは聞こえているのか、庭で尻尾を振った。
白鱗の竜の診察が終わったあと、レナートはアルトを窓越しに眺めた。老竜は満足したように日なたへ戻ったが、立ち上がるときに少し身体を揺らした。
以前から見ていた光景だった。誰かが見逃していたわけではない。しかし近頃、その動作にかかる時間が少し長くなったように思える。
「アルトも、最近は疲れやすいんですか」
マリエッタへ尋ねると、彼女は少し考えた。
「前から年寄りですけどね。水を飲みに行く回数は変わりません。ただ、寝場所から起きるまでが遅くなったかな」
レナートは古いカルテを確かめた。仕事から退いたときの状態と、現在の経過が記されている。老竜の普段の様子を知る人から聞かなければ、その変化に気づきにくい。
「もう一度、詳しく診たいと思います。無理に診察台へ乗せず、庭でできることから」
「アルトは喜ばないでしょうね」
「焼き梨でごまかせるでしょうか」
マリエッタが笑う。
「一つで足りるかどうか、そこが問題ですね」
夕方、レナートは前任の竜医者が残したアルトのカルテを開いた。呼吸と歩き方の小さな変化には何年も前から記録がある。今さら急に老いたわけではないが、前回の診察から時間が経ち、起き上がる動作にはさらに時間がかかっている。
「明日はアルトの番ですね」
マリエッタが裏庭を見た。ノエの尻尾を押し返しながら、アルトは日なたを譲る気配もない。
「本人がそう思ってくれるなら、ありがたいんですが」
レナートはアルトの再診の時間を翌朝の予定へ入れた。裏庭では、老竜が診察台のある扉からわざわざ目をそらしていた。




