第21話 消さない記録
リディアが古い帳簿の横へ新しい紙を置いたとき、マリエッタの手が止まった。
「その上に書き込まないでくださいね」
「書き込みません。別の照合表です」
「だったら、先にそう言ってくれたらいいのに」
机の上には、十七年前の受付帳簿と竜の回復確認票、それに現在の個別治療票が積まれていた。見た目はどれもただの紙だが、書かれた時代も目的も違う。
「ここの番号、読めますか」
リディアは薄くなった数字を指した。
「六にも八にも見えます」
「元の筆跡では六のはずです。でも、はず、でつなげたら駄目です」
マリエッタは帳簿を少し回した。古い紙の端を伸ばし、他の頁にある字を並べて見せる。
「この日、急いで書いた字の癖があるんです。ただし、記録そのものには欠けている部分もある。だから、確実なところと推測のところを分けましょう」
レナートは二人のやり取りを聞いていた。初めて会った日にあれほど噛み合わなかった二人が、今は同じ文字を別の角度から確かめている。
それでも、すべてに同意しているわけではない。
昼前、受付へロザンナが来た。パンを届けに来たはずが、古い帳簿を見せてもらいたいとマリエッタに頼んだ。
「あの日、母に私がここにいるって伝えてほしいと頼んだんです。そのことが受付帳簿に残っていないか、見せていただきたくて」
母親の手帳は現在ロザンナが持っている。彼女は当時の午後の日付を小さな紙に写してきた。マリエッタは受付帳簿と一緒に保管されていた伝言用の紙を取り出し、当時の字を指で追った。
『家族へ伝言依頼』
「……これ、私が母に知らせてほしいって頼んだときの?」
「そうです。あなたの頼みを受けて、母親のいる休息場所へ伝言を託した。そこまでは覚えています。ただ、届いたかどうかは確認できなかった」
ロザンナは帳簿へ顔を寄せた。あの日、治療を待つあいだ母親が戻らなかったことは、今でも覚えている。伝言があったと聞いて、嬉しいのか腹立たしいのか自分でも決められない表情だった。
「母は、私がここで待っていることを知らなかったのかもしれないのね」
マリエッタは言葉を探した。あの日の混乱を理由に、届かなかったことまでなかったことにはできない。
「分かりません。だから、知っていたとも知らなかったとも、ここには書けません」
「……そうね。知らなかったって決めてしまうのも違う気がする。でも、届いたことにされるのも嫌なの」
横で聞いていたリディアが、照合表の欄を二つに分けた。『ロザンナから母親への伝言依頼あり』『母親への伝達完了は未確認』。ほんの数文字の違いだったが、二人はその文字が乾くまで紙を動かさなかった。
ロザンナは、母親の手帳の写しを差し出した。
「原本は店に置いてあります。必要なら、明日持ってきます」
「大切なものですから、写しで確認できるところまでで十分です」
リディアが答えると、ロザンナは少しだけ表情を和らげた。帰り際、焼き立てのパンを一つ受付へ置き、「母が好きだった焼き方なの」と付け加えて去った。
古い帳簿の一部には、雨水に濡れたあとがあった。文字が薄くなった箇所を前に、マリエッタは自分の覚えている患者名を口にしかけたが、すぐに飲み込んだ。
「私の記憶にはその名前がある。でも、この紙から読み取れるかどうかは別ですね」
リディアは頷き、照合表の出所欄へ『マリエッタによる当時の記憶』と記した。証言は証言として残し、原本に書かれた事実と区別する。
レナートは空いた欄を見た。
「全部を埋められないのは、もどかしいですね」
「埋めることが目的なら、いくらでも埋められます」
リディアが言う。
「でも後で読む人は、私たちの推測まで事実だと思うかもしれない。だから空欄を残すんです」
午後は、三人で別の症例を照合した。回復確認票の『安静・改善』に丸はあるが、治療復帰の欄には記載がない。リディアが『確認なし』と書きかけたのを、マリエッタが止めた。
「確認していないって、なぜ分かるんです? 書いていないだけかもしれない」
「それは……記録から確認できない、ですね」
「そうしてください。当時の先生が仕事をしなかったって、誰かに思われたら困るわ」
リディアは素直に直した。ただ、その場で結論を変えたわけではない。見つからない医師の記録があれば、治療復帰を裏づけることもできない。安全性を評価するときには保留とするしかなかった。
「記録の扱いは変えません。許可があったとも、なかったとも決められませんから」
「……ええ」
マリエッタは答え、照合表の角を揃えた。リディアは訂正箇所に自分の署名を入れ、原本を傷めないよう新しい封筒へ戻した。
最後に扱ったのは、セヴランの名前がある一枚だった。
古い票には安静時の回復について記載がある。治療復帰欄は空白だが、別の頁には当日は復帰を見送ったという医師の判断が残っていた。そこは複数の記録で確認できるため、注記に迷う必要がない。
マリエッタが、照合表のその行へ線を引いた。
「この空欄は、さっきの空欄と違う」
「ええ。こちらには別の根拠があるから」
リディアは出所を二つ書き込んだ。レナートはその横に、診察した医師の確認が必要な項目だけを記した。
照合表を閉じかけたところで、外から呼び声がした。記録を倉庫へ戻そうとした若い補助員が、濡れた手で古い帳簿を抱えている。洗い場の水桶が倒れ、通路の床を伝ってしまったのだという。
「そこへ置かないで!」
マリエッタが大声を出した。補助員はびくりとして立ち止まり、その拍子に帳簿の角が壁へ触れた。
リディアが素早く乾いた台を指し、レナートは床へ布を敷いた。幸い紙そのものには水が付いていない。補助員を責める前に、濡れた床から箱を遠ざけ、受け渡す人の手を拭いてもらった。
「ごめんなさい。急いで返したほうがいいと思って」
「急ぐより、持ってく人を呼んで」とマリエッタが言う。「この帳簿、破れたら直せないところもあるから」
リディアは箱にかけてあった紐をほどき、別の布へ替えた。
「原本を扱う人を決めましょう。写しが必要なときも、原本はここから持ち出さないように」
「……そうね」
補助員が去ると、マリエッタはしばらく黙って帳簿の背をなでた。それから古い表紙を閉じ、リディアが用意した新しい箱へ入れた。
原本を守ることと、いまの仕事に役立てること。その二つのために、今日の予定は少し遅れた。マリエッタは受付へ戻り、残っていた患者に遅れを詫びた。リディアも一緒に頭を下げた。
待っていた人の一人が、机の上の古い箱を見て尋ねた。
「それ、今朝からずっと運んでるのかい」
「ええ。中身のほうが私たちより年上でして」
「じゃあ、急がせるわけにいかんな」
患者が笑う。マリエッタは謝るのをやめたわけではなかったが、次の受付票を渡す手つきが少し楽になった。廊下の先では、リディアが濡れた床に置いた布を片づけていた。
午後の光が薄れ、棚の向こうに影ができたころ、三人は原本を元の封筒へ戻した。作成者と日付の入った照合表は別の箱へ置き、次の担当者が追えるよう保管場所も記す。
「今日の仕事で、何か解決しました?」
マリエッタが聞くと、リディアは手を止めた。
「間違えずに残せることが少し増えました」
「地味ですね」
「今朝の揉め事よりは、ずっとましです」
朝から腹を立てていたマリエッタが、そこでようやくパンを割った。
「冷めちゃいましたけど」
半分を差し出され、リディアは紙を汚さないよう、手袋を外した。




