第20話 回復の条件
レナートは五枚の症例票を机に並べた。治癒息を1回しか使っていない竜のほうが、3回使った竜より重症だった事例。結論を急がず、どの情報がそろっていて、どれが欠けているかから調べ始めた。
「竜Aの1回は十八分。竜Bは三分ずつ3回、合計九分ですね」
リディアは表を整えながら言った。
「数字だけなら、最初の竜のほうが負担が大きそうです。でも、時間だけでは説明しきれません」
レナートは竜の年齢、治療内容、休息場所を指で追った。
「竜Aは前の治療から回復しきっていなかった可能性もあります。竜Bは毎回、診察を受けて戻ってる」
さらに別の症例では、短時間しか治癒息を使っていないのに、環境の悪い部屋で休んだあとに状態を崩していた。雨の日だけ症状が軽くなった竜の経験が、ここでも役に立つ。
リディアは五枚のうち一枚だけ裏返した。治療後の記入時刻が抜けている。
「この一件は、病院へ聞き直します」
午前の診療がひと段落したころ、テオが呼吸の確認を頼みに来た。休息室にいる成竜は、夜明けには落ち着いたと報告されていたが、今朝は水を飲みに起きるまでが遅いという。
レナートは担当の世話係と、同じ場所でしばらく待った。竜は人の気配を気にして頭を上げ、すぐに目を閉じる。息を吐いた後の間隔が少し長い。しかし新しい回復確認票の『安静時・問題なし』には、前の担当者の印が付いていた。
「昨日の夕方は問題なかったんです」
若い世話係は、その印を見せながら言った。
「そのときは、いつものように眠っていた?」
「ええ。眠ってるのを見て、落ち着いてると」
「眠っていたときの様子は分かりました。起きて水を飲んだあとの呼吸は、まだ見ていないんですね」
若い世話係は少し気まずそうに首を振った。
世話係は自分の筆跡を見つめた。
「夜勤の人は、これを見て安心したと思います」
「あなたが間違えたと決まったわけじゃない」とレナートは言った。「ただ、この記録だけでは、眠っている間しか見ていなかったことが伝わりません」
若者はその場で記入欄を一つ増やした。『眠っている間に観察』。小さな字で書き足そうとすると、後ろからテオが覗き込み、「俺にも読める大きさにしろ」と言う。若者は苦笑し、広い余白へ書き直した。
レナートは印を消さず、同じ票の余白へ観察条件を書き足す。夕方の所見まで誤りにする理由はない。問題は、そこで何を確認したかが分からなくなることだった。
「いまの状態では、次の治療を許可できません。もう一度、担当医と経過を見ます」
若い世話係はがっかりした様子だったが、竜の前脚が滑らないよう敷物を直し、水桶を置き直した。
それを見ていたテオは、何も言わず古い帳面を閉じた。経験の浅い者を責めることと、安全な方法を共有することは、やはり別の仕事だった。
リディアは試しに、過去の症例一件を新しい用紙へ移してみた。
竜の識別、治癒息の使用時間、治療後の呼吸、休息場所、治療再開の判断。書き込む項目が増えすぎて、診療の合間に使うには不便だと分かる。
「このままでは、現場に嫌われますね」
リディアは自分で笑った。
レナートは必要な欄を三つに分けた。治療前に確認する事項、治療後に観察する事項、次の治療へ戻すときの判断。すべてを一枚に詰め込むのではなく、同じ治療番号で結びつける。
マリエッタは受付で紙をめくり、空欄の位置を確かめた。
「ここ、誰が書く欄か分かりません。医師なのか世話係なのか」
「なら、最初から書く人を分けます」
レナートは筆を取り、欄の名前を修正した。
時間がかかったが、一件目の記録が出来上がる。古い帳簿とは書き方が違う。それでも、休んでいるときの様子と、治療に戻してよいかの判断を分けて残せた。
「これなら、次に診る先生も使えるかもしれません」
テオが言った。
古い帳簿の書き癖が、現代の用紙には収まらない。レナートは余白を広げようとして、受付で使う束の厚さを思い出し、ひとまず鉛筆を置いた。
昼過ぎ、マリエッタが修正版の用紙を受付へ持ってきた。
「これ、患者さんへ説明する時間はどこに書くんです?」
「処置欄に」
「竜の処置欄?」
レナートは紙を見た。人間の患者の治療延期は町医師のカルテに残される。しかし竜の回復が遅れたために予定が変わった事実を、同じ治療番号で参照できなければ、あとから経過を追えない。
「受付帳簿には書きすぎないでください。人間側のカルテと個別治療票を番号で照合できるようにしましょう」
「最初からそう言ってくれれば、欄を一本減らせますよ」
マリエッタは容赦なく一本線を引いた。レナートの作った欄があっけなく消え、代わりに『延期理由の参照先』が小さく収まった。
リディアはその用紙を見て、思わず眉を上げた。
「私がさっき言ったときは、三つも欄を残していましたよね」
「受付で実際に書く人の意見ですから」
「監査官の意見も、実際に書く人のものですが」
「じゃあ、次の一枚をお願いします」
マリエッタが差し出した束は、まだ十枚以上あった。リディアは黙って筆を取った。
午後、町医師エーヴァが診療所を訪れた。人間の患者の治療内容を比較するためだ。細工職人の傷も経過を見ているが、仕事を再開してから回復が遅れているという。
「彼は手を休める必要があるのに、休めない。竜にも似たところがあるわね」
エーヴァは皮肉を込めずに言った。
「でも、人間と竜を同じだと言いたいんじゃない。無理を続ける理由が、一件ごとの記録には出ないこともあるでしょう」
レナートは個別治療票を見直した。使用時間は書かれていても、その竜がなぜ短い休息しか取れなかったのかまでは残っていない場合がある。
夕刻の再診では、昼の竜が自分から立ち上がり、水を飲みに行った。呼吸は朝より落ち着き、若い世話係も胸を撫で下ろす。
「これで明日は働けますか」
「そこは明日また診てから。今日の印は、今日の状態に付けましょう」
レナートは穏やかに答えた。竜は水槽から戻ると、長く息を吐いて敷物へ伏せた。
若い世話係は紙を見比べ、昨日の印の隣に自分の名前を記した。観察した人、時刻、竜が何をしていたか。三つを並べるだけで、昨日と今日の違いが少し見えるようになる。
レナートは机へ戻り、17年前の記録を開く。アルトとセヴランの名前はすでに知っている。二頭の状態が違っていたことも。今度はその違いを、いま書いている用紙と同じ順序で整理してみたかった。
再診後、テオが旧診療所の話をしに来た。
「昔は世話係が、安静時の息と、次の治療へ出せるかを別に見ていた。アルトとセヴランのときもそうだ」
「でも、世話係が見たあと、医師が判断するんですよね」
「ああ。経験のある人がいると早い。いないと抜けることもあった」
レナートはペンを置いた。
「次の世話係にも、その違いが読めるようにしたいんです」
誰が観察し、何時に何を確認したか。平常時の状態はどうか。竜が拒んだとき、どこへ注意を向けていたか。
書き足す欄が増えると、テオは顔をしかめた。
「これ全部、竜が水を飲んでる間に書けって?」
レナートは欄を二つ消し、観察時刻の横に自由記入の余白を残した。
「実際に使える形にしましょう」
リディアは新しい用紙を差し出した。まだ欄の少ない、何度でも書き直せる下書きだった。
「まず、過去の一件と現在の一件で試してみたいです」
レナートは十七年前の帳簿を開き、二頭の経過を新しい用紙へ写しかけた。安静時の呼吸が落ち着いたとき、治療に戻ってよいという印まで同じ場所に付けていいのか。
用紙の欄を一つ空けたまま、彼はリディアへ見せた。




