第19話 橋の向こうの庭
古い石橋に差しかかると、水路の音が変わった。
町中では荷舟や水車の音に紛れていた水音が、ここでは石に触れる柔らかな響きになっている。
ロレンツォは橋の真ん中で一度立ち止まり、荷車の通った跡を杖で示した。
「昔は竜もここを渡った。今の大きい荷車とは幅が違う。気づかずに通そうとすると、車輪を縁石に乗り上げる」
「誰かが道を直したんですか」
「逆さ。道は変わっとらん。荷物のほうが大きくなった。おかげで俺の膝も、荷物に合わせて大きくなってくれりゃよかったのにな」
笑いながらも、下りの段差では杖を先に突く。レナートは速く歩ける自分に合わせず、その半歩後ろへ下がった。橋の向こうで待つ竜について、ロレンツォは長いこと手紙を運んできたのだという。内容を読んだことはない。ただ、宛名が診療所から休息所へ変わり、やがて年に数回の知らせになったのを覚えていた。
橋を渡りきると、低い門のある庭に着いた。レナートはロレンツォの後ろから門をくぐった。
赤銅色の竜が日なたに伏せていた。
アルトより静かな目を持つ、年老いた竜だった。角は大きく弧を描き、胸元の鱗は年月で色が薄くなっている。
「セヴランです」
世話係が紹介した。
レナートが近づこうとすると、セヴランはゆっくり首を背けた。
「そこで止めてください。知らない人に触られるのは苦手なんです」
レナートは足を止め、少し離れた石へ腰かけた。世話係はほっとしたように礼を言った。
「今も元気なんですね」
「体調の波はありますよ。でも、この川辺が気に入っています。治療にはもう参加しませんが、それで困ることもない」
レナートは流れる水と、石の上で目を閉じるセヴランを見比べた。
「昔、アルトと一緒に働いていたんですよね」
「ええ。若いころはセヴランのほうが世話を焼いていました。アルトが仕事から戻ると、道を塞いで休ませようとしてね」
「アルトが止められていたんですか」
「何度もです。気に入らない顔をして、ちっとも言うことを聞かなかった」
レナートは思わず笑った。老いても日なたを譲らないアルトの姿が、たやすく浮かぶ。
「十七年前は、アルトがセヴランを気遣う側になったんですね」
世話係は頷いた。
「セヴランの息が乱れたとき、アルトが先に知らせてくれた。休息場所でも、しばらくはそばを離れなかった。もっとも、その気持ちまで分かったわけじゃありませんが」
世話係は古い道具箱を開いた。使い込まれた布と、呼吸を観察するための簡単な器具が入っている。
「当時は経験が頼りでした。若い者が『もう落ち着いた』と言っても、古株が見ればまだ息が乱れていることもあった。危なかったと思います」
「記録は残していましたか」
「残したつもりです。でも、誰が見ても同じように分かる書き方だったかは、今になれば怪しいね」
話が途切れたところで、休息所の裏門が軋んだ。野菜を積んだ荷車が門先で向きを変え、車輪が石畳のくぼみを大きく踏んだ。
セヴランが顔を上げ、前脚へ力を入れる。
世話係は荷車の男へ声をかけた。
「すみません、その板を一枚だけ踏まずに通ってもらえますか。音が庭へ響くんです」
男は謝り、荷車の向きを変えた。セヴランはまだ立ち上がらず、音が遠のくのを待つように首を長く伸ばしていた。
荷車の音が遠ざかってから、世話係が膝をついて敷物を見せた。セヴランは首を振り、川のほうへ歩いて日なたの石を前脚で二度擦る。
「そこが好きなのか」とロレンツォ。
「今日はあっちがいいそうです」
世話係は持っていた敷物を抱え直し、竜を追いかけずに石の表面を確かめた。少し熱を持っているが、手を置けないほどではない。セヴランは人間が場所を決め終わるのを待たず、自分で身体を横たえた。
レナートは近づきかけた足を止めた。今日、セヴランに触れて診察するのは難しそうだ。けれど、ここでの暮らしぶりは見ることができる。
「年を取って、急な音が苦手になりましてね。すぐ慣れるものだと決めつけると、その日は水も飲まなくなる」
「どうして分かったんです?」
「いろいろ試しました。水が嫌なのか、日陰が嫌なのか。あるとき荷車が来ない日は普通に飲むと気づいて。それから道を分けてもらったんです」
記録帳を見せてもらうと、『正午の水、飲まず』『裏門が静かな日は二回』といった短い言葉が残っていた。昔からここにあった観察の仕方だが、それだけでは別の世話係が何を測ったのか分かりにくい、とレナートは思った。
「音がしたから病気、じゃないんですね」
「ええ。音がした日と飲まなかった日を比べただけ。まだほかにも理由はあるでしょう」
レナートは懐から紙を出しかけ、すぐしまった。今ここで診察票を広げるのは、少し違う。セヴランは荷車が行ったことを確かめたのか、水辺へ立ち上がり、長い首を下ろして水を飲み始めた。
昼には世話係が古い写真を持ってきた。二頭の竜が若かったころのもので、アルトが前脚を伸ばし、セヴランがその前に身体を横たえている。
「これは治療が終わった日の写真ですか」
「ええ。アルトはもう一件やるって聞かなくて。セヴランが道を塞いで、しばらく二頭で睨み合っていた」
レナートは写真を受け取り、思わず笑った。今のアルトからは想像しにくいほど翼が大きく、目つきも鋭い。それなのに、頑固そうな顔つきは少しも変わっていなかった。
昼食は世話係の家の縁側で取った。ロレンツォが包みを開くと、ロザンナの店の固いパンが出てきた。日持ちするように焼いたもので、乾いた皮を割るたびに香ばしい匂いがした。
「今日は柔らかいのを買うつもりだったんだがな」
「膝が悪い人ほど、歯が丈夫なんですね」
「若い先生は口が達者だ」
世話係は小さな椀に水を汲み、セヴランの近くへ置いた。竜は見向きもせず、いつもの大きな水槽へ歩いていく。どこで飲むかも自分で決めるらしい。
ロレンツォが古い写真を見ながら、片角の欠けた若いアルトを指した。
「こいつが一度、配達の荷袋をくわえて走ってな。頼んでもないのに手伝おうとして、結び目を全部ほどきやがった」
「そのとき、セヴランは?」
「追いかけたさ。で、俺が二頭を追いかけた。あれは世話じゃなくて競走だったよ」
レナートは腹を抱えて笑った。今のアルトの図太い顔を知っているせいで、なおさら可笑しかった。写真の中では二頭とも若く、何かを待っているような顔ではなく、それぞれ勝手な方向を見ている。
世話係は笑ったあと、写真をそっと戻した。
「昔は竜が働くのを喜ぶ人が多かった。助けられた人も本当に大勢いたから。でも、竜が嫌がっているのに無理に続けさせたこともあったと思います」
レナートは庭のセヴランを見た。今は水を飲み、風の通る場所へ自分で歩いている。
「ここで、働かないことに慣れたんでしょうか」
「最初は、治療の鐘が鳴るたびに立ち上がってましたよ。習慣だったんでしょうね。今は鐘が鳴っても、日なたへ戻ります」
レナートは写真へもう一度目を落とした。若いアルトの前に横たわるセヴラン。あの災害の日には、アルトがそばを離れなかったのだ。
話の途中、セヴランが石の上から立ち上がった。レナートが視線を向けると、竜は水を飲みに行き、戻る途中で彼の少し前を通った。
大きな身体が動くたび、乾いた鱗がかすかに擦れる。近くを通っても、セヴランはレナートに触れようとはしなかった。
ただ、自分の決めた道を、ゆっくり歩いていった。
「それが好きなんです」
世話係が言った。
「誰にも急かされずに、水を飲んで、好きな石の上で寝る。仕事をしていたころは、そんな時間がなかなか取れなかった」
休息所の世話係は、レナートを門まで見送りながら付け加えた。
「アルトのこと、無理をさせないでくださいね」
「今は治癒息の仕事から離れています」
「知っています。ただ、あの竜は働きたがる顔をするでしょう。昔はセヴランが止めてくれた。でも、今は誰が止めるのかなと思って」
レナートは川上の庭を振り返った。セヴランは水辺で身体を休め、遠くからこちらを見ている。
「人間のほうが、気をつけないといけませんね」
世話係は頷いた。
「それと、仲間の竜も。あの二頭は、昔からお互いの様子をよく見ていましたから」
レナートは歩きながら、アルトのカルテをもっと詳しく確認することを決めた。
帰り道、ロレンツォは川沿いの細い小道を選んだ。
「近道ですか」
「いや。膝に楽なほう」
老人は少し得意げだった。
診療所に戻ると、アルトはノエの寝場所を横取りしていた。レナートはその姿に、若いころ道を塞いでいたセヴランを重ねた。
引退したアルトにも、誰に急かされることのない日々を過ごさせたい。レナートは庭の敷物の端がめくれているのを見つけ、しゃがんで直した。




