第18話 数えられないもの
リディアは、六年前の自分の署名を見つけた。
医療局が治療件数の評価方法を見直したとき、彼女はその作業に関わっていた。待機患者の数を把握し、治療の遅れを減らすための制度。導入後、多くの病院で記録の比較がしやすくなり、治療を待つ人間の患者も減った。
その成果を、彼女は否定するつもりはなかった。
ただ、竜の回復経過については、提出される情報が病院ごとに違っている。治療件数が改善した一方で、どの竜がどの程度負担を負ったかは追いにくい。
「今の制度は、間違っていたんですか」
レナートが尋ねた。
「治療を待つ患者さんが何人いるかは、前より分かるようになりました。それは確かです。けれど、竜が次の治療へ戻れるかまでは、同じ数字で追えなかったんです」
リディアは提出資料の束を整理した。
六年前の署名の横には、若いころの自分が引いた細い下線があった。竜側の経過を追う欄を次年度の課題にする、という文言だ。
「これ、私が書き込んだものです」
リディアは誰にともなく言った。忘れていたわけではない。覚えていたからこそ、病院ごとの資料の違いを理由に手を付けられなかったことが、つらかった。
マリエッタは何も慰めず、現在使っている回復確認票をその横へ置いた。紙の角は丸くなり、何人もの手の跡が残っていた。
「現場から心配する声は何度も届いていました。私も読みました。でも、病院ごとに書き方が違って……うまく比べられないまま、先送りにしてしまったんです」
マリエッタは腕を組んだ。
「私たちは昔から、竜の様子を書いてきたんです。あの記録が役に立たないって言われたみたいで」
「役に立たないとは言っていません」
「でも、集計には入ってなかったでしょう」
答えづらい沈黙が落ちた。
「だから、今ここで調べ直しています」
リディアは静かに言った。
「世話係が見ていたことを、ほかの病院の医師にも伝えたいんです。何を書けば伝わるのか、ここで調べさせてください」
会議のあと、マリエッタは受付で一人、昼の個別治療票を整理していた。リディアが近づくと、彼女は何も言わず一枚の紙を差し出した。
「今日の竜の観察票です。書き方の違うところには注記を付けました」
リディアは受け取った。
「ありがとうございます。助かります」
「仕事ですから」
窓の向こうでは、治療を終えた竜の世話係が重い水桶を運んでいた。記録の話をしているあいだにも、午後の患者の受付が始まる。マリエッタの鍵束は歩くたび胸元で鳴り、治療室の扉が開くたびに、彼女は誰かに呼び止められた。
若い補助員が、昼の予定票を持ってきた。
「監査官さん、これ、治療した一件に入れるんですか。それとも延期した一件ですか」
書類には患者の名前と担当予定の竜が書かれ、欄外に『医師判断により見送り』とあった。竜は安静時の呼吸が落ち着いていたが、その日の朝の確認では治療復帰の条件を満たさなかったという。
「治療件数には入れません。延期件数には入れてください」
「どっちにも入らなかったら、今日の患者さんは消えちゃいますもんね」
補助員は難しいことを言ったつもりはなかったのだろう。用紙を抱え直し、隣の机へ歩いていった。
リディアは予定票にもう一度目を落とした。六年前の制度では、治療を受けられず帰った患者を数えられるようにした。待機人数も治療実績も、各病院が同じ単位で報告できるようになった。だが、その治療を見送った理由と、竜の回復の記録とを、一つの番号でたどれる場所は限られていた。
「患者さんが消えてしまう、か」
独り言に、レナートが顔を上げる。
「何ですか」
「さっきの患者さんには、帰る前に連絡先を確認しましたか」
「しました。ご家族の分も」とマリエッタが答えた。閉じかけた受付帳簿を開き、連絡先の欄をレナートへ示す。
リディアは午後、診療所の端にある小さな治療室を見せてもらった。六年前に採用が進められた、外の粉じんが入りにくい構造の部屋だ。扉には二重の布が掛けられ、換気口にも取り外しのできる網がある。室内は清潔で、治療を受ける人間にとっても安心できる場所だった。
「ここまで工夫していたんですね」
リディアがそう言うと、テオは少し顔をしかめた。
「悪い部屋じゃないよ。雨の日は特に助かる。ただ、使う前に竜がどうだったか、使った後にどこで休んだかは、部屋の記録だけじゃ分からん」
竜のための休息室は、廊下を曲がった先にある。室温も水も管理されていたが、治療室に貼られた一覧から休息中の経過を読み取ることはできなかった。それは、別のカルテや回復確認票に書かれていたからだ。
「その二つを見なければいけないのに、私は治療室の安全性を評価する側で、そこまで追いきれていなかった」
「お前さん一人の目が足りなかった話にするなよ」
テオは網の留め具を外して裏側を見せた。細かな埃が溜まっている。
「直したほうがいいところは、こっちにもある。俺たちは見慣れたものほど見なくなるからな」
リディアは網の清掃日を聞き、現在の管理簿を確かめた。必要な整備は決められた間隔で行われていた。手入れの日付が残っているからこそ、彼女にもそれが確かめられた。報告には、この部屋の良い点も書いておこう。
午後の診察を終えたテオが、今日の観察票を一枚持ち込んだ。休息中の竜の名は合っているが、時刻だけが空欄になっている。
「世話をしてた若い子が、急に呼ばれてな。何時ごろ見たのか聞いても、もう覚えてないって」
リディアは数字のそばに鉛筆を置いた。
「これを今日の測定値として使うのは危ないですね」
「じゃあ、捨てるか」
「いいえ。消しません。観察した内容は残して、時刻が分からないと書いておきます」
テオは安堵したように紙を取り返した。若い世話係が書いたものであっても、呼吸の変化を見ようとしていたことまで消してしまいたくなかったのだろう。
そこへ、昼の治療を延期された患者の家族が受付を訪れた。明日なら治療を受けられるのかと聞かれ、マリエッタは明日の予定表を開いた。欄には空きがある。しかし、予定している竜の回復確認はまだ終わっていなかった。
「今、決まっているのは空いている時間だけです。治療できるかは、竜の診察が済んでからになります」
「昨日もそう聞きました」
「申し訳ありません。人間の先生に診てもらえる時間は、先に取ってあります」
マリエッタはエーヴァの診察時刻を指した。家族は唇を結んだままだったが、確かめてから帰ると言って椅子へ座った。
リディアは家族が帰るまで受付のそばにいた。予約票の控えには、人間側の診察時刻だけが書き込まれている。竜の診察が終わらなかった場合、誰がこの家族へ連絡するのだろう。
「明日は、時刻を書き忘れないように工夫しましょう」
リディアがテオに声をかけると、彼は紙の端を折って、腕まくりをした。
「俺の字は汚いからな。大きい欄にしてくれよ」
夕方になってから、リディアは六年前の会議を思い出した。竜の回復を共通項目に加えるべきだと訴えた医師は、提出された資料の形式がばらばらだと指摘されても、最後まで席を立たなかった。会議は結局、患者の待機人数を先に統一することで終わった。
あの場で先送りにすると決めたのは誰か。医療局の保管資料には、出席者と決議の経緯が残っている。責任者を一人に決められるような話ではなかった。リディアにも、異議を形にするだけの時間を取らなかった責任があった。
上司へ提出する報告には、制度の成果、現場からの指摘、当時採用できなかった理由を並べて記す。今後の審査では、制度の策定に携わった自分の関与を申告し、最終判断を独立した審査者へ委ねるよう求めた。
書類の最後に、彼女は今日の延期となった患者の番号と、患者へ連絡した時刻を書き添えた。
夕暮れ、ロレンツォから短い返事が届いた。川上の休息所の元世話係が、二頭について話してくれるという。封筒には地図も同封されていた。門の前で荷車を回せる場所に、小さな丸が付いている。
リディアはその行程を記録し、レナートへ渡した。
「明日は、書類から少し離れてきてください」
「監査官がそう言うのは、珍しいですね」
「紙に書かれていることが、現場でどういう意味だったのかを確かめたいだけです」
リディアは翌日の質問を手帳に書き足した。
『竜の息が落ち着いたのは、誰が見たのか。治療に戻してよいと判断したのは、誰か』




