第17話 十九歳の記録係
最初に破れたのは、受付の番号札だった。
「次だって言われたのに、いつまで待たせるんだ!」
怒鳴った男の手から、小さな木札が床へ落ちる。十九歳のマリエッタは新しい札を差し出し、治療の順番を確認した。壁の向こうでは、負傷者を運ぶ足音が絶えない。
十七年前、街に災害が起きた日だった。
川上の土砂が崩れ、荷を積んだ船が橋の支柱へぶつかった。避難の途中で怪我をした人々が、臨時の診療所へ次々と運び込まれる。町医師たちは包帯を巻き、傷を洗い、止血に追われていた。治癒息を使える竜たちも、朝から休みなく協力していた。
アルトは若かった。灰青色の翼にはまだ擦り減っていない部分が多く、誰かに呼ばれるたびにすぐ立ち上がろうとする。赤銅色のセヴランが、その横を通るたびに低い声を出していた。
「またあの二頭、張り合ってるのか」
世話係が言ったとき、マリエッタは笑う余裕がなかった。目の前の名簿が、一頁増えるたびに重く感じられた。
正午過ぎ、マリエッタは似た名前の患者を取り違えかけた。一人はまだ処置室にいて、もう一人は別の待合へ運ばれていた。帳場に戻った町医師が名簿を指でたどり、次の順番を一緒に確かめ直してくれた。
「急いで順番を回さなくていい。来た時刻と、診てもらった時刻を別々に書いて」
そう言った医師の袖には、新しい血が付いていた。マリエッタは返事をして、二つの欄へ線を引き直した。慌ただしい一日でも、書き方次第で救われる人がいる。そのときは、ただ間違えずに書き終えることだけを考えていた。
午後一時。診療室の奥から、床を続けて叩く音が響いた。
あの合図は知っている。診療を止めて、何かを確かめてほしいという意味だ。
間もなく世話係が駆けてきた。
「セヴランの呼吸がおかしい。アルトが先に知らせた」
医師が竜の状態を確認した。セヴランだけでなく、ほかの竜にも疲労の兆候が出ている。治療を続ければ、回復までの負担がさらに重くなるかもしれない。
「ここからの治癒息は止める」
臨時診療所の責任者は決めた。
午後一時十分、医療責任者の正式な中断指示が届いた。マリエッタは治療集計簿の該当欄へ赤い線を引き、個別治療票のうち、まだ治癒息を受けていない患者には「延期」と書いた。治療をしたことにして帳尻を合わせるわけにはいかない。
治癒息治療、中断。
ただし、人間の患者の手当ては続く。マリエッタは自分にもそう言い聞かせ、次々と運ばれる人を町医師のもとへ案内した。
包帯を持って廊下を走ろうとした手伝いの少年を、マリエッタは呼び止めた。
「どこへ持っていくの?」
「治癒息の部屋です。あそこが一番人手があるから」
「今は止まってる。向かいの処置室へ。あの先生が縫合を続けてる」
少年が足を返す。受付には怪我をした人が途切れず、その隣では竜の休息場所へ布を届ける伝言が重なった。マリエッタは二枚の伝票を同じ釘へ刺しかけ、別々の釘に掛け直した。早く片づけたかったが、急ぐほど行き先を間違えそうだった。
「竜は休ませるのか。うちの娘はどうなる!」
叫んだ老人がいた。マリエッタには答えられない。娘の負傷の程度も、あと何人待っているのかも、今の彼女には分からなかった。
責任者が待合へ出て、通常の救急処置は続けると説明した。治癒息の代替手段についても指示が出る。待合の怒りは収まらない。責任者は、患者たちの質問から逃げずに答え続けた。
待合の端では、負傷した少年が母親の服を握っていた。母親は息子の指先を診せるために並んでいたが、竜の治療が止まったと聞き、別の診療所まで歩くべきか迷っていた。
「町医師の先生には、こちらで診ていただけます」
マリエッタがそう説明すると、母親はようやく椅子へ腰を下ろした。足元の少年は、使われなくなった治療の番号札を裏返し、木目をなぞっていた。
別の場所では、説明だけでは足りなかった。
やがて竜を隔離すべきだという声まで出始めた。共鳴痕を見た者が、竜に人間の病気が移ったのではないかと言い出したのだ。患者の名前と竜の名前が同じ一覧に並んでいるのを見て、誰が誰へ病気を移したのか、と責める人もいた。
マリエッタは名簿を抱えて医療責任者のもとへ走った。
「人間の処置の一覧と、竜の様子を書いた紙を分けられませんか。今のままだと、どっちのことか分からなくなります」
責任者は別の医師と短く相談した。
「共通の治療番号は残せるか」
「はい。対応する票に同じ番号を書きます」
「なら、そうしなさい。原本は残して、何を移したか分かるように」
マリエッタは紙を抱えて戻った。後から考えれば、もっと丁寧に引き継ぐ方法があったかもしれない。だがそのときは、患者が待ち、竜も苦しんでいた。手が足りない中で、混乱を抑えるためにできることだった。
午後一時二十分、ロレンツォが水布と寝具をパン屋の裏庭へ届けたという伝票が回ってきた。マリエッタは荷の品目を確かめ、次の届け先へ伝票を送った。
そのころ受付には、顔に煤のついた娘が運ばれてきた。名前はロザンナ、二十四歳。パン屋の店先で負傷し、腕をきつく押さえている。
「母さんは?」
彼女が問うたが、マリエッタには分からなかった。名簿を確かめ、医師へ引き継ぐと、まず通常の処置が始まった。傷を洗い、出血を抑え、痛みを和らげる。治癒息の治療は止まっていても、できることはある。
「母さん、竜たちの世話に呼ばれたはずなの」
ロザンナは苦しそうに言った。
「竜たちを預かっていると聞いてます。誰かに、私がここにいるって伝えてくれる?」
マリエッタは伝言のための紙を書いた。しかし走れる人が見つからない。人は皆、何かを運び、誰かを支えていた。伝言が本当に届いたか確かめる余裕もないまま、別の患者が運ばれてきた。
午後二時を回るころ、グレンが水路の調整を終えたという報告が来た。竜たちの休息場所の風通しをよくし、水を確保するためだという。
続いて、裏庭にいた世話係が水布の追加を求める伝言を届けた。パン屋の母親が二頭の世話を引き受け、十四時半にはそこへ入る手はずだという。マリエッタは届け先を記し、空いている人に伝言を託した。
ロザンナが望んだ母親への伝言も、その紙の隅へ書いた。けれど、母親が実際に娘の様子を知れたかどうかは分からない。返事を待つ間にも、受付では新しい患者の名が呼ばれていた。
マリエッタが実際に見たのは受付の廊下だけだった。裏庭でアルトやセヴランがどんな姿勢で休み、誰が何度水布を替えたのかは、世話係の別の記録に頼るしかない。
十五時十分、アルトの安静時の呼吸が改善したという伝言が届いた。マリエッタは報告欄へ時刻を書き入れた。しかし中央診療所の治癒息治療はまだ中断中で、誰もアルトを診療室へ呼び戻そうとはしなかった。
十六時四十分、セヴランの呼吸もようやく落ち着いたという報告。だが、治療への復帰は別に診察して決めると記されていた。
夕刻、ロザンナは診療室の隅で待っていた。包帯は新しく巻き直されている。窓の外から竜の足音がすると、そのたびに身体を起こしかけた。
「もう少しです」
マリエッタは言った。自分でも、何がもう少しなのか分からなくなるほど長い午後だった。
窓の外で日の光が傾き始めたころ、責任者が治療の段階的な再開を告げた。安全が確認された竜から戻す。アルトは診察を受けて復帰するが、セヴランは休息を続ける。
午後五時の治療再開の知らせが届いたとき、ロザンナの顔は少しも明るくならなかった。ただ、窓の外を見ていた。
マリエッタは受付票のロザンナの名を確かめ、預かった伝言の控えと重ねた。返事を書き込む場所だけが空いていた。
治療の再開を告げたあとも、診療所が静かになることはなかった。許可の出た竜を迎えるため世話係が動き、人間の患者を案内する声が重なった。
マリエッタは回復確認票を受け取り、治療へ戻ったアルトの名を確認した。医師による診察済みの印が付いている。別の票には、セヴランの休息を続ける指示があった。
同じ時間に休み、似たように呼吸が落ち着いたと報告されても、治療復帰の判断は違う。
「二頭とも戻せば、患者さんの順番が早くなるんじゃないですか」
新人の手伝いが小声で尋ねた。
「そうかもしれない。でも、戻れるかどうかは先生が診て決めることだから」
マリエッタは答えた。自分も治療を待つ人を減らしたかった。だが、竜の体調が追いつかないのに仕事を増やしてしまえば、あとで困る人がもっと増えるかもしれない。
廊下では、一人の子どもが泣き出していた。母親が抱き上げようとしたが、片腕を負傷していて難しい。マリエッタは受付を一瞬離れ、そばの椅子へ子どもを案内した。
ロザンナが治療室へ呼ばれたとき、彼女は一度だけ足を止めた。受付のほうへ振り返ったが、母親の姿はない。
「母さんには、知らせてもらえましたか」
マリエッタは、伝言を託したことまでは答えられた。届いたかどうかは確認できていない。もっと早く確かめたかった。だが一緒に探しに行ける人手もなかった。
ロザンナは包帯を巻いた腕を抱え直した。
「……じゃあ、終わったら私から行きます」
誰を責めるでもない声だった。マリエッタには、そのほうがかえって辛かった。
午後五時二十分。マリエッタは新たな個別治療票を受け取った。
患者、ロザンナ。二十四歳。
治癒息協力竜、アルト。
パン屋の娘だった。診療所の裏に休息場所を用意した母親のことを、マリエッタは知っていた。
ひとりずつ、人間の傷が治療されていく。同じころ、竜たちも別の場所で休み続けている。
彼女は対応する治療番号を二枚の票へ書いた。
夕方の鐘が鳴った。隣ではまだ人々の声がしていた。患者を運ぶ足音も、廊下で名前を呼ぶ声も止まらない。
手元には、治療を受けた人間の個別治療票があった。別の机には、まだ仕事に戻れない竜の回復確認票が積まれている。二つの紙を同じ番号でつなげておけば、少なくともあとから読み返せるはずだった。
マリエッタは指先の墨を拭い、新しい紙を引き寄せた。名乗ったばかりの患者に、順番をもう一度尋ねる。
「すみません。もう一度、教えてください」
相手は戸惑いながらも、ゆっくり名前を繰り返してくれた。




