第16話 引き出しの記録
引き出しを開けると、乾いた紙の匂いが立ち上った。
マリエッタは底に敷かれた布を持ち上げ、古い帳簿を数冊取り出した。表紙の角が擦れ、背の糸も弱っている。彼女は若いころ、ここへ運び込まれた記録を一冊ずつ修復していたという。
「全部あるんですか」
「全部そろってたら苦労しませんよ。一部は医療局の倉庫、一部は旧診療所。配達の記録なんかはロレンツォさんの家でしょうね」
リディアが目録を作る。レナートは番号と日付を確かめ、対応のある資料を机へ並べた。
治癒息の治療件数を示す集計簿には、午後一時から五時までゼロが並ぶ。同じ時間帯、人間側の処置記録は途切れていない。薬剤を使った処置、縫合、包帯交換。負傷者の世話は続けられていた。
「これで『四時間、誰も治療されなかった』という話は違うと分かりますね」
リディアが書き写した。
「町に残っている噂は、あの日の気持ちが混じってるんでしょうね」
マリエッタは頁をめくった。
「待つ人には、本当に長かったですから」
途中、一枚の古い票に共通番号が欠けていた。名前の筆跡から推測することはできるが、別の竜に結びつける証拠はない。
「この欄は保留」
リディアは迷わず注記した。
「断定しないんですか」
「仮説と事実を混ぜた記録は、あとで診療を誤らせます」
言葉に無駄がない。マリエッタは少しだけその表情を眺め、黙って次の資料を渡した。
受付に呼ばれ、マリエッタが部屋を離れた。ちょうど医療局から借りた箱を受け取ったところだった。若い職員は番号順に積み直したほうが扱いやすいと考え、ひとまず数枚を別の封筒へ移した。
「待って」
戻ってきたリディアが、まだ封をしていない封筒に気づいた。
「順番を変える前に、元の配置を記録してください。裏に別の紙が重なっていたかもしれません」
「中身は全部あります」
「そこは疑っていません。ただ、どこに入っていたかまで含めて確認できなくなるんです」
職員は慌てて紙を戻そうとしたが、今度はどの順だったか自信がなくなった。レナートも自分の目で覚えていたつもりだったが、二枚の位置を決められない。
「ここにある札の順番なら、覚えています」
若い職員は箱の横に置いた小さな番号札を指した。自分で並べ替える前に、荷を受け取った順に机へ置いたのだという。
「それも書いておきましょう。ただし、紙の元の順番と同じだとは、まだ言えません」
リディアの答えに、職員は肩を落とした。マリエッタは番号札を紙へ写し、職員に確認させた。間違いを書き残すのは気が重い。それでも、あとで紙を調べる人には必要な情報だった。
箱の封蝋には搬入先と日付が記されている。その状態だけは、最初に書き写してあった。リディアは移したこと自体を隠さず、記録に残したうえで元の箱と封筒を一緒に保管することにした。
「失敗したことも記録するんですか」
「もちろん。失敗しなかったことにしてしまうと、誰も見つけられません」
若い職員の肩から少し力が抜けた。
昼前には、帳簿を傷めないよう作業台へ新しい布を敷いた。記録を開く前に、誰が触ったかを書き留める。リディアの提案は手間がかかったが、古い頁の順番が変わらないためには必要だった。
その途中、十七年前に使われていた略号が分からなくなった。レナートは治療内容の一部を示す印だと思ったが、マリエッタは迷わず否定した。
「それは搬送の目印です。竜の種類じゃありません」
「よく覚えてますね」
「当時は一日に何度も書いたから。忘れたい字まで覚えてます」
彼女の声を聞き、レナートはそれ以上軽く尋ねるのをやめた。
昼食を挟んで、ロレンツォから返事が届いた。十七年前の配達帳はまだ手元にあるが、膝の具合がよくないので今日は持っていけないという。代わりに若い配達員が封筒を運んできた。
『午後一時二十分、水布と寝具。診療所から裏庭へ』
現物ではなく、ロレンツォが配達帳を見ながら書き写した控えだった。リディアは照合表の余白に「本人の写し、原本未確認」と明記した。
「これも証拠じゃないんですか」とレナート。
「手がかりにはなります。原本を見れば書き写しの間違いがないか確かめられる。確認が終わるまでは、その違いを残しておきたいんです」
マリエッタは封筒を指で叩いた。
「今は届くのも早くなったわね。昔は伝言を出した人が、いつ戻るか分からないまま待っていたのに」
午後、医療局から借りた目録と帳簿を重ねると、共通番号のある一件だけは、人間の個別治療票と竜の回復確認票の両方が見つかった。
若い職員が二冊をまとめて紐でくくろうとしたところで、マリエッタが止めた。
「それぞれ、もとの綴りへ戻して。合わせて読めるようにするのと、原本をくっつけるのは違うから」
「でも、また別々になってしまいます」
「だから番号を残したんです。今なら、どこに置いてあるかも書けます」
リディアは照合表に二つの保管場所を記した。先ほど移された紙についても、分かる範囲で元の配置を調べる。若い職員は自分の手で書いた訂正記録を、読み返してから署名した。
机の端には、共通番号の欠けた票が残る。レナートは筆跡から相手を推測しかけたが、読めない数字をそのまま残すことにした。
「昔の人たちも、こうして一枚ずつ調べてたんですね」
「全部はできなかったですよ」とマリエッタが言った。「目の前の人を待たせるわけにいかなかったから」
彼女が古い紙を閉じると、糊の乾いた欠片が作業台へ落ちた。レナートが拾いかける。
「そっとして。修復の跡が、どこにあったか分かるようにしておきたいの」
若いころ、ここへ運ばれた帳簿を修理し続けた手が、紙の端をそっと押さえた。
確認できた記録はまだ二件。リディアは数字を増やさず、照合表を閉じた。
夕方、最後に残った箱の底から、医療責任者の中断指示が書かれた一枚が出てきた。日付と署名、午後一時十分の指示時刻。その脇には、受付の変更方法についての短い指示が残っていた。
「これ……あの日の」
マリエッタが紙を見つめた。
リディアは黙って出所と保存状態を記録し、勝手に解釈を書き足さなかった。
窓の外では、いつもの鐘が鳴っている。
十七年前の同じ時刻にも、鐘は鳴っていたのだろうか。レナートが尋ねるより早く、マリエッタが口を開いた。
「覚えているところから、お話しします」
レナートが椅子を引くより早く、マリエッタはその日の受付帳簿を見せた。
「ここは私が書いた字です。でも、休息場所の様子は見ていません。竜の世話をした人の記録が別にあるはずだから、混ぜないでくださいね」
その区別を告げてから、彼女は十七年前の午後を語り始めた。




