第15話 二人目の患者
受付には、二つの名前が並んでいた。
人間の患者と、治療に協力した竜。どちらも個別の記録があるのに、医療局へ提出する集計では、人間の処置結果ばかりが目立っている。
「竜は治療をする側だから、診療実績へ出てこないんですよね」
マリエッタが昔の票を見比べながら言った。
「でも、治療を終えたら竜の診察も必要になる。患者が二人いるみたいなものです」
レナートは机の上へ別の用紙を置いた。治癒息を受ける人間側の記録と、竜の回復を追う記録。番号はつながっているが、普段は別々に扱われる。
「昔から分かっていたことなんですよね」
「分かっていた人はいました。ただ、記録が分かれてしまうと、二つ一緒に見る人が少なくなる」
マリエッタは珍しく言葉を選んでいた。
その日の昼、細工職人が再び受付へ来た。手には人間側の町医師が新しく巻いた包帯があり、以前ほど腫れてはいない。だが工房へ戻る許可はまだ出ていなかった。
「新しい治療の日は決まらないのか」
「担当できる竜の状態を確認しています」とマリエッタ。
「それは前にも聞いた。竜のことを心配するのは分かったが、俺の仕事がどうなったかは誰が覚えているんだ」
彼は声を荒げなかった。そのぶんマリエッタは、返答に困った。細工職人の治療予定は人間側のカルテにあり、竜の回復確認票には延期の判断だけが残る。工房で断った注文の数まで、どちらにも書かれていない。
「エーヴァ先生にも話を通してあります。明日の通常の処置は予定どおりです。それと、治癒息の治療を延期した理由も、分かる形で残したいんです」
「分かる形って何だ」
「次の担当者が、同じ説明を一からさせない形です」
職人は礼も言わずに戸口へ向かった。マリエッタは受付帳簿へ「経過説明済み」と書きかけ、ペンを止めた。
書きかけの文字を二本線で消した。
外では、細工職人が弟子と荷の取り合いをしていた。若者が木箱を持つと、親方は包帯のないほうの手で取っ手を奪い返そうとする。
「それは俺が合わせないと、蓋が浮く」
「じゃあ、どこを削ればいいか教えてください!」
弟子が箱を膝に置き、道具袋を開いた。親方は手を伸ばして止まり、口だけで削る場所を指示する。若者は一度目で違う角を指した。二度目でようやく合う。
「だったら最初からそう言ってくださいよ」
「言えばできると思ったか。木目を見ろ」
言い合いの末、二人は箱を抱えて歩き出した。親方の背中はいつもより小さく見えた。
マリエッタは受付帳簿の欄を一つ戻った。「説明済み」だけでは次の担当者に何も伝わらない。人間の治療はエーヴァが担当する。けれど仕事のことも本人に尋ねてもらえるよう、次の診察までに伝えると決めた。
午後には、別の患者の処置が終わった。人間側の町医師エーヴァは傷の状態を確かめ、担当した成竜が休息場所へ戻るのを見送った。レナートはその竜の回復確認を始めたが、安静時の呼吸が落ち着くまでには、予想していたより時間がかかっている。
「患者さんは帰っていいんですか」と、若い受付係が尋ねた。
「人間側の処置は終わっています」とエーヴァ。「ただ、こちらの経過も忘れずに追いたいですね」
竜は休息場所へ自分で歩き、敷物の上に身体を落ち着けた。レナートが診察を始めると、世話係が普段の呼吸の様子を教えてくれる。急ぎの処置が必要な状態ではないが、次の治療への復帰は今は判断できない。経過を追うことになった。
若い受付係が、空いた診療枠へ次の患者を入れようとしたところで、マリエッタが止めた。
「この竜のところは、まだ空けておいて。ほかの竜に替えるなら、その子の体調も診なきゃいけないし、患者さんにも話さないと」
「人間の患者さんの診察は、もう終わったんですよね」
「だからこそ、そのあとに何が必要かを残すんです」
午後遅くに診療所が静かになったころ、彼女は旧帳簿を開いた。書き癖の残る十九歳の字が、薄くなった紙に並んでいる。
「この記録の書き方を決めたとき、私もその場にいたんです」
レナートは顔を上げた。
「十七年前の災害で?」
「はい。隔離のことで揉めて、人間の個別治療票と竜の回復確認票を同じ受付表に並べておくと、誰が何をしたか分かりにくくなった。別にしたほうがいいって、私は言いました」
彼女は当時の医療責任者の署名を指した。
「正式に決めたのは先生方です。私ひとりで決めたわけじゃありません。でも、あれが後からどう使われるのか、そこまでは考えられなかった」
「当時は混乱してたんでしょう」
「混乱してたからって、全部仕方なかったことにしたくはないんです」
彼女の声は静かだった。
マリエッタは十九歳だったころ、患者の順番を呼ぶ声が枯れるまで働いた話をした。診療所の一日は、朝から誰かの怪我を見て、夜には眠る場所まで探すことで終わったという。
「みんなが何かを求めてるのに、私には帳簿を書くことしかできなかった。だから、せめて間違えずに残したかった」
レナートは黙って聞いた。
「今なら、もっと上手にできることもあります。けど、あのときの紙を全部捨てていいとは思えないんです」
彼女は古い帳簿を閉じた。表紙には深い折れ目があり、長い年月のあいだ何度も開かれたことが分かる。
「この帳簿、困ったときに私を助けてくれたこともありますから」
「職人さん、次に来たら同じ説明をしなくて済みますかね」
「助けにならないこともありますよ。今日の職人さんのことを、『治療延期』の一言で済ませたら、次に来た先生にはあの人がどれだけ困ってるか分からない」
マリエッタは午後の受付帳簿に、次回の説明が必要なことだけを記し、納期の事情は町医師へ直接引き継いだ。患者本人の言葉と医師が確認した状態は、カルテの中でも区別されるべきだ。受付の帳簿にまで、仕事の詳細を書き写す必要はない。
「受付に全部書いたら、私の字だけで帳簿が埋まってしまいますからね」
レナートは自分のカルテを見た。今日書いた一行を、次に読むのは自分とは限らない。
レナートは、受付の外で言い合っていた親方と弟子を思い出した。治療の予約が延びた理由を残せても、それで二人の仕事が元どおりになるわけではない。
「これから診る人には、同じ説明をさせたくありませんね」
「うん。そうしてほしいんです」とマリエッタが答えた。
少し黙ってから、彼女は古い帳簿を指した。
「当時、分けた記録をまた合わせる方法も決めたんです。同じ番号を使うように。でも、その番号をずっと誰が管理するかまでは考えられなかった」
「元の記録を調べられますか」
「診療所に残っている分なら。医療局にも頼みましょう」
「なら、今度は続きを一緒に調べましょう」
マリエッタが顔を上げた。
「先生の字、読みにくいですからね」
「そんなことは」
「昨日の処置の『翼』が『鼻』に見えました」
レナートは反論しかけたが、昨日の自分の字を思い出して黙った。受付係はようやくいつもの調子で笑った。
そのとき、裏庭からノエの鳴き声が聞こえた。アルトの寝場所へ近づきすぎて、尻尾で追い払われたらしい。マリエッタは小さく笑ったが、帳簿から手を離さなかった。
「先生。十七年前のこと、私が話せる範囲なら全部話します」
レナートは頷いた。
ただ、彼女の知る範囲と、診療所の外で起きていたことは同じではない。別の世話係や記録も必要だろう。
廊下の奥でリディアが資料をまとめている音がした。明日はその三人で、古い受付帳簿の所在を確かめることになっていた。
レナートが帰り支度をしていると、マリエッタが帳簿の隅にもう一行を書き足した。
『本人は治療を急いでいる。仕事の事情について、次回も確認すること』
インクが乾くのを待つあいだ、彼女は細工職人の来院日を確かめた。




