第九話 ヒモだった男
日が暮れてからマンションのエントランスに着いたとき、メッセージアプリに着信があった。
『今日の夕飯、リクエストある?』
五代だった。
ななは立ち止まると、ささっと指を動かす。フリック入力で、食べたい料理を打ち込んだ。
『ビーフストロガノフ。ミネストローネ。酢豚。金目鯛の煮つけ』
特に優先順位はない。思いつきである。
ややして、五代からOKのスタンプが送られてきた。このうちのどれかが、今日の夕飯になるのだろう。便利な夫だ。こちらの希望は大体叶えてくれる。
エントランスに入って、郵便受けの荷物を回収してエレベーターのボタンを押す。すぐにやってきたので乗り込んだ。ちょうど住人が帰ってきたので、開くボタンを押して待ってあげた。高齢の夫婦だ。挨拶をかわして頭を下げる。老夫婦は先に降りていった。ぴったり寄り添って、仲がよさそうだった。
「ただいま、アンディ」
部屋に入って、やってきた郵便を仕分けした後、リビングのアンディに抱きついた。テーブルの上に、ななのシャツとブラウスが、衣料品店の商品棚に並んでいるように、綺麗に畳まれて置かれていた。
皺ひとつない。きっちりアイロンがかけられている。五代の仕業だ。今朝アイロン台を使っていた。便利だ。
結婚して半月くらい経っていたけれど、彼との生活は負担が少なかった。
……いや、むしろQOLは上がったかもしれない。
週に一回西山さんが来る日までに山のように溜まる洗濯物が、日々洗濯籠から消えて翌日にはななのところに綺麗になって戻ってくる。シンクに溜まった洗い物はその日のうちになくなって食器棚に収められているし、出しっぱなしにした雑誌やパンフレット、DVDパッケージもいつの間にか元の場所に戻っている。ベッドのシーツ替えという、ななにとっては人生で絶対やりたくない三大家事のうちの一つ——ちなみに残り二つはアイロンがけと洗濯物を畳むことである——を、率先してやってくれる。
何より食事が美味い。五代は料理上手だった。適当にリクエストしておけば、彼の当番のときにその通りのものが並んでいる。ちなみにデザートをリクエストしたときは、ちゃんとそれが出てきた。シェフだけでなくパティシエの才能もあるらしい。相変わらずラテアートは芸術的だ。多才である。
「アンディのことも邪険にしないし、いい拾い物したよね。クズだけど」
アンディの胸をぽんぽんと叩くと、彼は無言でななに同意してくれた。
先ほどすれ違った老夫婦のように、我々はなかなかに仲が良い夫婦なのかもしれない。少なくとも傍目には。喧嘩らしい喧嘩は一度しかない。結婚とはこんなに生活が便利になることだったのかと、ななは少し感動していた。五代との契約結婚が終わったら、早めに次を見つけないといけないかもしれない。
そのまま、ななはアンディに今日あったことを報告した。お昼ごはんのうどんが美味しかったこと。お揚げの甘じょっぱい味。春休みを経て久々に会った鞠子のこと。
「それでね、鞠子が九十三点っていう評価にびっくりして……」
ななは、言葉を切った。アンディにもたれた姿勢のまま、天井を見上げる。
「……そういえば、五代さんって大学講師だったんだ」
足を折り曲げてソファに上げる。スカートがめくれあがって空気が中に入った。
脳裏によみがえる大講義室の光景を、ななは思い出した。驚くななを置いてきぼりにして、五代の講義は始まった。上着にチョークの粉がつかないようにだろうか、最初に彼は上着を脱いで教卓にかけたのだけれど、それだけで女子からは黄色い声が上がっていた。彼がレジュメを配るために前方の席に近づいたときも、女子たちは騒がしかった。当の五代は淡々と講義を進めていて、それを歓迎しているようには見えなかった。ただ、講義内容は普通に面白かった。
なながいることには、早い段階で気づいていたと思う。彼は一度だけ視線を送ってきたけれど、その後はこちらを見なかった。
講義が終わってすぐに、前方の女学生たちが五代のところに詰めかけていた。「五代先生、その指輪、まさかご結婚されたんですか!?」と悲鳴めいた声が聞こえた。
ななはそんなことよりも、鞠子が気になった。まるで恋する乙女のように、ぼうっとした顔で五代を見つめていたから。「鞠子。あの人はだめだよ」と声をかけたのだけれど、届いていただろうか。
「うーん。五代雅通。謎だ……」
「何が謎だって?」
かけられた声に顔を上げると、五代が入ってきたところだった。手にスーパーの袋を持っている。帰ってきていたのか。回想に忙しくて気づかなかった。
おかえりとただいまの挨拶をかわすと、五代はまずキッチンに入った。購入した食材を冷蔵庫に詰め始める。
「ななちゃん。家だとしてもその格好はどうかと思う。はしたないからやめなさい」
そんな小言が飛んでくる。キッチンからは、ななの下着が見えてしまっているのかもしれない。
「家だから気にしてないのに。おじさんはすぐ、はしたないって言いますね」
「ななちゃん?」
ななは黙って足をソファの下におろした。スカートの裾を整えて、再びアンディに抱きつく。優しくふわふわした感触に顔を埋めた。
少しだけ顔をずらしてキッチンに目をやれば、五代は上着を脱いでネクタイを外してから、手を洗っていた。これから夕飯の支度をするのだろう。少しくらい休憩すればいいのに。
「……五代さんって、本当にまめですね」
「まめ?」
「面倒くさくないんですか、家事」
五代は冷蔵庫の脇にかけてあるエプロンを取って身に着けた。黒いシンプルなエプロンだが、妙に似合っている。
「別に、慣れているからね。大変だった頃はあったけど、毎日やってたら自然と効率的なやり方が身に着いたよ」
さすがに経験豊富な年長者ということだろうか。ななも毎日やっていれば、五代のようにサッとなんでもできるようになるのだろうか。
……いや、無理だな。
「慣れる気がしません。家政婦さんを雇ったほうが絶対いいです」
「お金があればそれでいいだろうけどね」
「五代さんはお金あるでしょう?」
五代は、ぺりぺりと玉ねぎの皮を剥いていた。近くに人参とじゃがいも、パプリカが置かれている。
ななは顔を上げて、五代を問い詰めた。
「公務員に、お医者さんに、研究に、大学講師って。どれが本当でどれが嘘?」
まな板に刃が当たる音が聞こえた。滑らかな連続した音は聞いていて気持ちがいい。
「嘘は言ってないよ。全部本当」
「そんなことあります?」
「ななちゃんって僕に興味あったんだ」
「なんですか、それ」
「ほとんど何も聞いてこないから。興味ないんだろうなと思っていたよ」
たしかに興味はあまりない。契約をきちんと履行してくれるのなら、別に五代がどういう職業であっても構わないのだ。
ただ、鞠子のぽうっと頬を染める横顔が気になった。もし彼女が五代に本気になったりしたらどうしようか。強気で華やかなメイクの顔とは裏腹に、彼女はとても繊細で傷つきやすいのだ。
一枚板のまな板を持ち上げて、五代は切り刻んだ野菜を鍋に移していった。水道の音。それからガスコンロの着火の音が聞こえる。
彼はまた手を洗うと、タオルで拭いてから、ダイニングの椅子にかけてある上着を手に取って名刺入れを取り出した。リビングに入って、名刺を一枚ななに差し出してくる。
「どうも。こういう者です」
シンプルな名刺は、五代の名前と勤め先が書いてあった。横文字の長い研究所の名前は、父に対して話していたのと同じものだ。肩書はそこの研究員と——
「……法医学者?」
「半分は。警察に協力して、身元不明のご遺体や事件の疑いがあるご遺体の解剖を請け負っているね。献体を用いて研究のほうを。大学の外部講師は、恩師に頼まれて仕方なく一昨年からやってるだけ」
五代はキッチンに戻って、調味料のラックからいくつかの瓶を手に取った。
「公務員みたいなもの、って言ってましたけど」
「嘘は言ってないよ。警察に協力してるときは、みなし公務員だから」
ななは眉を寄せた。屁理屈だ。名刺をテーブルに置いて、ななは再びアンディの胸に体を沈めた。
五代は調味料を入れて、鍋をかき混ぜている。換気扇の回る音がしていた。
「忙しそうですね」
「まあ、それなりにね」
「私の世話が増えて、大変なんじゃないんですか?」
五代の手が止まった。
「ななちゃん、僕に世話かけてるって自覚あったんだ」
ななは、むっと五代をにらむ。
「そりゃ……喧嘩した理由くらいは覚えてます」
料理と掃除は当番制。そう決まっていた。けれど、洗濯やシーツ替えやゴミ出しや——生活に必要な家事について、ななはあんまり理解していなかった。西山さんに任せていれば何とかなっていた部分だったので。結婚した後も週一で西山さんは来てくれることになっていたし、今までと同じ生活が続くと思っていたのだ。一人が二人に変わると、週に一度では追いつかなくなるとは思わなかった。
五代からすれば、ななは何もしていないように見えたのだろう。たしかにななは何もしていなかった。それでちょっとした言い合いになった。
「あれはひどかったな。もう諦めたけど」
あの時の惨状を思い出したのか、五代は乾いた笑いを漏らした。
五代と喧嘩したななは、その反発心から家事をやってみて、家が大変なことになった。脱衣所が泡だらけになったり、生ごみとプラと乾電池が混ざったゴミ袋を作ったり、五代のシャツにアイロン型の焼きごてをつけたりした。それで彼は何も言わなくなった。
「僕が、人の世話するのに慣れててよかったね。人によっては離婚案件だよ」
「五代さん一人っ子ですよね。誰の世話してたんですか」
五代は鍋の蓋を閉めて、スーパーの袋から長細い紙袋を取り出した。バゲットだ。
ななは、籍を入れる直前に会った五代の父親を思い出す。地元で開業医をしているらしい。目元が五代に似ていた。五代が一人っ子だというのはその時知った。
バゲットをスライスする音がする。ザクザク。香ばしい匂いが漂ってきた。
「まあ、いろいろ。住む場所とお金を提供してくれてたお姉さんたちとか」
ん?
ななは半目になった。
住む場所とお金を提供?
「……私とするより前に、今と同じような契約をしたことがあったんですか?」
戸籍に離婚歴はなかった。五代は初婚のはずだが。
食器棚から皿を取り出した五代が、肩をすくめた。
「ななちゃんとの契約とは違うけど。高校時代に、年上のお姉さんたちに飼われてたことはあったよ」
飼われる?
「いわゆる、ヒモってやつ」
そう言って笑う五代は、今日も大変美しい。
ななはアンディを抱く腕に力を込めた。
——このクズめ。




