第八話 九十三点の男
「結婚したぁっ!?」
学生食堂に、久世鞠子の高い声が響き渡った。
「鞠子。声が大きい」
ななは眉をひそめて、持っていた箸の先を下げる。鞠子は慌てて口を手で押さえて、つんと澄ました顔で紅茶を飲んだ。グラデーションが美しい夜空のネイルが、白いカップに映える。先ほどの彼女の声で集まっていた注目が、少しずつ散っていった。
大学の学生食堂は、お昼時ということもあって混んでいた。ななと鞠子は、運よく空いた食堂の入り口に近い四人掛けの席に向かい合って座っていた。
ななは視線を下ろして、食事を再開した。きつねうどん。実家のシェフや、マンションに運ばれてくる料理では絶対に出てこないこの料理を、ななは気に入っている。お昼はこの学生食堂で食べると決めたくらいだ。つるりとした麺の喉越し、もちもちとした食感。うまし。
鞠子は紅茶のカップを戻すと、周囲の視線がもう集まっていないことを確かめる。巻いた髪を背中にかき上げて、ななに上半身を寄せてきた。
「どういうこと? 結婚した? あ、もしかして結婚したいってことかしら? なな、説明して」
ちゅるりと麺をすすると、ななはもぐもぐと口を動かしながら左手の甲を見せた。薬指にはめられたプラチナの結婚指輪。
鞠子はそれを見て、唖然と口を開けた。美人が台無しな顔だ。今日も鞠子は、ファッション誌から抜け出してきたような、モード寄りの華やかなメイクだった。
「嘘でしょ……。春休みが終わったら親友が結婚してたなんてことある? 念のため聞くけれど、相手はうちの兄だったりする?」
「貴仁さん? まさか」
鞠子の七歳年上の兄、貴仁の顔を思い出す。確か久世家が経営する会社の子会社に就職して、次期後継者として経験を積んでいるらしい。妹の幼馴染であるななのことを、まるでもう一人の妹のように優しくしてくれるいい人である。
鞠子はずいと、前のめりになった。なぜか顔が怖い。
「どうして? 貴兄が一番条件良かったでしょう? 他のおじさんに比べたらはるかに——」
ん? ななは眉を上げた。
「……鞠子、もしかして私のお見合い話、お父さんから事前に聞いてた?」
「うっ……」
「聞いてたんだ」
そうか、それでか。ななは納得した。お見合い写真の中に、なぜか久世貴仁の写真が紛れ込んでいたのだ。あのときは何かの間違いだろうと思っていたのだけれど、鞠子の様子を見ると、意図的だったようだ。
鞠子は姿勢を正すと、腕を組んでぷいと顔を逸らした。
「久世にも話があったのよ。ななの結婚相手を探してるって。だから貴兄の写真を送ったの」
「兄だからって、本人の意思を無視するのはいかがなものかと思う」
「別に無視したわけじゃないわ。貴兄はななのこと……」
ななは、じゅるっとお揚げを口に含んで、頬を緩めた。味が染みていて大変美味しい。かまぼこも美味しいが、やはりきつねうどんはお揚げだ。これに尽きる。
「ちょっとなな、聞いてないでしょ。もう! 食べ物のことになったら他が見えなくなるんだから」
鞠子は大きくため息をつくと、なながお揚げを食べきるのを待ってから、「それで?」と鋭い目でななをにらんだ。
「結婚相手は? どんな男? 年収は? 顔は?」
ななは、うどんのつゆを飲んだ。うどんを食べ終わった後につゆを飲むと、大変すばらしい満足感を得られる。
お箸を置いてから、手を合わせた。ごちそうさま。食後のお茶を飲んで、ななは鞠子を見た。
鞠子にどこまで開示しようか、事前に決めていたわけではなかった。けれど、あのお見合い写真に久世が関わっていたというのなら、少し話は違ってくる。鞠子は大切な幼馴染で親友だけれど、ななの結婚の真実を教えたら、彼女の口から父の耳に入る可能性があった。必死に隙のない美人を作り上げて誤魔化しているが、鞠子の実態が天然であることくらい、ななは身に染みてわかっている。
秘密を知ってる人間は、少ないに越したことはない。スパイ映画に出てきた偉い人もそう言っていた。
「えーっと……まあ、顔はいいかな。九十三点くらい」
女優の才能はないのはこの間わかったので、ななは嘘をつかなかった。
鞠子は真顔になった。
「きゅうじゅう……え? 何点満点?」
「百点」
鞠子が顔を寄せてきた。ななは、じっと親友と見つめ合った。
「え? 本当? 写真ある?」
「本当。写真はない」
「ないの!? 九十三点って世紀のイケメンじゃない! 写真くらい撮っといてよ!」
「鞠子はイケメン好きだもんね」
「好き! ……ってそんなことはどうでもよくて! 一体誰? 何やってる人? 会わせて!」
誤魔化されてくれなかったか。五代の写真を撮っておくべきだった。
ななは、視線をさまよわせた。時計が目に入る。午後の講義が始まるまで、あと十分くらいだった。ななは立ち上がった。
「鞠子、そろそろ行こう。次の一般教養って、新館の大講義室でやるやつ。ここから遠いよ」
鞄を肩に引っ掛けて、トレイを持つ。忘れ物がないか確かめてから、食器の返却口へ進んだ。
「もう、なな。後でちゃんと教えてもらうからね」
後ろから鞠子の不満そうな声が追いかけてきた。
面倒だな。こうなったら鞠子を家に招待して、五代に対応を任せようか。ななはそう思った。
いい考えかもしれない。
***
大講義室はとても混雑していた。一般教養だから、一年から四年まで幅広い人が取っているはずだが、それにしても人であふれている。自由席なので、大体の場合は端っこや後ろ側の席から埋まっていくものだ。けれどなぜか前から中間くらいまでが既に満席だった。
ななは、鞠子と一緒に後ろの方の端っこの席を確保した。
「やけに女子が多くない?」
席についた鞠子が、教室を見渡して言った。たしかに言われてみれば、女子が多い。特に前の席を埋めているのは女子ばかりで、男子は一人もいない。
ななは、授業の前期の時間割表を取り出した。一般教養基礎として適当に取った授業だったので、どういう講義なのか調べてすらいない。女子受けのする授業なのだろうか。
「えーと……『現代社会と法医学』。これかな」
法医学。映画では時々出てくる分野である。けれど、ちゃんとしたことはわからない。ななはスマホを取り出して、検索してみた。すぐにAIが概要をまとめたものを答えとして提示してくれた。
『法律上問題となる事件や事故について医学的な立場から事実を明らかにする学問』
ななは唇の端を下げた。どう見ても女子受けする授業とは思えない。
チャイムが鳴った。ほぼ同時に、前方にいる女子が黄色い声を上げた。
一体何事だ、とスマホから顔を上げる。男性講師が教卓に資料を置いたところだった。
ミッドナイトブルーのスーツ。上着のボタンは留めていない。下に覗いているのは同色のベストだ。薄い水色のシャツに、紺のネクタイ。
ん?
ななは目を細めた。
均整の取れた体と、それがとても映えるスーツの姿。何だか既視感があった。今朝、家を出る前に、キッチンで見たような気がする——。
九十三点の顔が、その体に繋がっていた。ななは思わず、時間割表をもう一度見た。
一般教養基礎。現代社会と法医学。五代。
——五代。
見間違いじゃなかった。
なんでだ?
ななは大いなる疑問に、頭を悩ませた。
隣の席で、五代の顔に見入った鞠子が、口をぽかんと開けていた。




