第七話 いい男
なぜこうなったのだろう。
ななは、目の前の光景を乾いた目で見つめた。
ななの実家には、食堂が二部屋ある。長方形のテーブルが置かれた大食堂と、複数の円卓が置かれた中くらいの食堂である。広すぎるので、家族で食事をするときは、さらに小さめの普通の部屋で取ることが多かった。
今日は五代が来るということで、食堂を使うことにしたのだろう。ななたちは、円卓のある方の食堂に案内されていた。
部屋は全面、ワインレッドの絨毯である。白いテーブルクロスが敷かれた円卓には、あらかじめナイフとフォーク、そしてナプキンが用意されていた。本日のメニューは和風フレンチらしい。梶井が食前酒を注ぎ、穏やかに食事会が始まった。
「では、五代さんはお医者様ということですか」
「医師といっても臨床とは違う分野なんですが。研究機関では、最新医療の研究をしていますね」
「ほう。失礼ですが、研究内容についてお聞きしても? 我が社も健康食品や健康器具など、そちらの分野にはかなり力を入れておりましてな」
「もちろんです」
ななは、スープを無言で口に運んだ。
食事が始まって、父は笑顔で、まず五代の正体を突き止めようと年齢や勤め先を聞いていた。五代の勤め先は長い横文字のナントカ研究所というところだったのだが、父はそれを耳にしたことがあったようで、そこから話が弾んだ。
おかしい。五代は「公務員みたいなもの」と言っていたのにどういうことだろうか。嘘をついていたのだろうか? そう思っても、この場で問いただすわけにはいかない。
父と五代の会話は大変盛り上がっていた。ななには理解できない専門用語が飛び交っている。どうやら五代は本当に専門家らしく、父の質問に対する返答には全くよどみがない。企業経営者を務めてきた父は、よく取引先の人や部下、その道の専門家を連れてきて食事をすることが多かったけれど、聞く価値なしと判断したら、相手を不快にさせない程度に切り上げてただの雑談に持っていく人だ。それが、食事が始まってからずっと五代と仕事の話をしている。よほど五代の話はわかりやすくて面白いらしかった。
「五代先生の話は、興味深いですな。ぜひ今度、我が社の専務も入れてお話がしたい」
ある程度話の区切りがつくと、父はスーツの内ポケットから名刺入れを取り出して、五代に差し出した。
すごく珍しい光景だった。あの父から名刺を渡すなんて。
「それは、大変ありがたいお話です。医療の研究には、企業家様方の理解が欠かせませんから」
父と五代が名刺交換している様子を眺めて、ななはスプーンを置いた。ナプキンで口元を拭く。梶井がやってきて、空になった皿を下げていった。
「ところで、ななは、いつから五代先生と交際をしているんだ?」
——来た。
ななは、ようやくやってきた本題に背筋を伸ばした。
「去年の冬に出会って、付き合ってからは半年くらいで、とてもいい人なので結婚してもいいと思って、思います」
綿密に練り上げた設定を、ななは思い返しながら答える。棒読み。しかも噛んでしまった。腐るほど映画を見ていたが、女優にはなれそうもなかった。
父は白ワインを口に含みながら、「ほう」と言った。
「一昨日お見合い話をしたときは、まったくそういった話は聞かせてくれなかったじゃないか。突然の話で、西山さんから聞いたときは混乱したよ」
それはそうだろう。五代と出会ったのは、そのお見合い話があった後なのだから。
「それは……」
説明しようと口を開いたら、五代が割り込むように笑って言った。
「申し訳ありません。ちょうどななさんと喧嘩をしたばかりだったんです。誤解が原因で別れるか別れないかという話になっていて」
ななは眉を寄せた。ちょっと待て、その設定はななが説明するはずだったものだ。五代の視線が流れてくる。目が合った。
いいから黙ってて。無言で牽制された気がした。
「なるほど。その誤解は解けたと?」
「はい。その後、お父様からお見合いの話をされたと聞いて、身を固める決心をして彼女にプロポーズしたんです」
「ほう……」
次の料理が運ばれてきた。鰆のポワレだ。皮をカリッと香ばしく焼かれたそれは、ななの好物料理だった。シェフの好意が伝わるものだったが、タイミングが悪い。五代の会話が気になりすぎて、なんだか胃がシクシクしてきた。
父は白ワインを飲み干すと、テーブルの端にグラスを置いた。梶井が音を立てずに寄ってきて、新しいワインを注ぐ。
「五代先生は私から見ても非常にいい男です。ずいぶん女性におモテになるでしょう。娘とは年も離れているようだ。失礼ですが、なぜ、うちの娘を?」
五代もワインを飲んだ。グラスから唇を離すと、彼はななに視線を送ってから言った。
「たしかに年は離れていますが、彼女は素晴らしい女性です。自分で活路を開く度胸と知性があり、慈愛の精神も持ち合わせています。家では寂しがり屋な面もあって、そこが可愛いと思っています。映画が趣味という共通点もあって、彼女との会話はいつもユニークで楽しいですね」
ななは思わず、ネックレスの下に指をくぐらせた。そのまま全身を掻きむしりたくなった。
五代雅通。とんでもない男だ。先ほど玄関でななが口走った「クズ」発言まで、きれいに包んでいく鮮やかな口上である。ゴミ捨て場で拾ったゴミのくせに。
父の中で、五代の評価はうなぎのぼりだった。五代を見る目の色が明らかに変わった。
グラスに新しく注がれたワインを回しながら香りを楽しみ、父は口元を緩めた。
「お恥ずかしながら、ななは私が五十のときにもうけた娘でして。上の子とは年が離れ、母親はおらず、私は仕事で家を空けることが多い。寂しい思いをさせてきたと思っているのです」
しんみりした父の話し方を聞いて、ななはナイフとフォークを手に取った。鰆の切り身をそっと切り分ける。脂がじゅわっとあふれ出した。ぱくりと口にすれば、途端に皮のカリカリ感と、とろりとした白身の絶妙な焼き具合が舌の上をくすぐった。ああ、美味しい。
父の話は続いている。しかし、もはやどうでもよかった。先ほどの胃の痛みはすっかり消えて、食欲が戻ってきていた。
「私は今年七十でしてね。そろそろ健康に不安が出る年だ。何かあったときに、娘を一人にしたくなかったんですよ」
「お気持ち、お察しいたします」
「五代先生になら、任せられます。どうかななを、よろしくお願いします」
五代の勝ちだ。アンビリーバボー。ななは、ポワレの残りを口に詰め込んだ。
***
婚姻届の証人欄の片方は、父の名前で埋まった。今夜は勝利の薔薇風呂に入ろう。
父から泊まっていけと言われたが、断固として断った。これ以上実家にいたら、何かの拍子にボロが出て、せっかくの勝利が水の泡になりそうな気がした。ななは「絶対にいや。五代さんと帰る!」と、父の前で五代に抱きついてとどめを刺した。
帰りは梶井が送ってくれることになった。行きと同様、運転席の後ろになな、助手席の後ろに五代と、後部座席に並んで座る。
「証人欄。もう一人は、僕の上司に頼もうか?」
五代がそう言ったので、ななはそれに甘えることにした。彼もこの契約結婚に乗り気であることは、父との会話で証明された。ならば、我々は目的を同じくする同志である。
婚姻届を渡して、ネックレスの下に指をくぐらせてぐるりと掻いた。
その手を、五代がそっとつかんだ。
「掻いちゃダメ。それよりネックレスを外した方がいい」
「え……なんですか」
「金属アレルギーだよ。赤くなってる」
なんと。ななはシルバーチェーンのネックレスを見下ろした。アクセサリーは滅多に身に着けない。けれど確かに、少ない機会でつけたときはいつも、かゆみがあった気がする。
「ななちゃんはだいぶ、敏感肌なんじゃないかな。向こう向いて。外してあげるから」
「あ、はい」
医者の言うことに、ななはおとなしく従った。五代の手がうなじに触れて、わずかも経たないうちにネックレスが外されていった。
五代はネックレスをハンカチに包んで、ななに渡した。前を見ると、運転席にいる梶井とバックミラーごしに目が合った。にこにこと笑っている。きっと仲睦まじい光景として処理されたのだろう。
ななは息をついた。
「五代さんって本当にいい男ですね」
「なんでそうなるんだろう?」
五代はまったく理解不能といった表情だった。
まあ、クズはクズでも、五代は便利そうなクズだった。実害がないならそれでいい。
どうせ二年なんて、すぐに過ぎ去るのだから。




