第六話 靴を履かせる男
ネックレスの位置を直して、ミラー付きのパウダーケースの蓋を閉める。タクシーの運転席の背もたれが視界に入った。見覚えのある道だ。実家まであと五分程度といったところか。
ななは、隣の席に座る五代を見た。彼は、先ほど購入したスマホの設定をしているようだった。彼は一文無しでキャッシュカードや公式の身分証明書もないため、契約名義はななだった。
ネオンとスマホの光が、五代の横顔を照らし出していた。チャコールグレーの三つ揃いのスーツを着ている。白いシャツにボルドーのネクタイ。黒蝶貝のカフスボタンが、スマホの手元で紫っぽい光を反射した。暗い車内でぼんやりと映し出されるその姿は美しく、いつまで見ていても飽きがこない気がする。
「何?」
薄い唇が動いた。スマホを操作する指の動きは止まらない。
「いえ……五代さんはどうして私の提案を受けたのかなあって」
「いまさら?」
「今だからですよ」
土曜日は五代の着がえや生活用品を揃え、カード類の停止手続きをした。保険会社や五代の職場、知り合いに連絡して、事情の説明が終わったときには夜になっていた。
今朝は火事があったマンションの駐車場に行き、スーツを回収した。運転免許証も燃えてしまったらしく、車を動かすのは諦めることになった。車内に貴重な資料の一部があったらしい。五代は喜んでいた。
あとの時間は、五代と打ち合わせをした。出会いやお互いの好きなところなどを設定し、完璧なまでのストーリーを作り上げることに成功したのだ。
「僕にもメリットがあったからね」
「メリット?」
ある程度の設定が終わったのか、五代はスマホをスリープモードにして、ジャケットの内ポケットへ滑り込ませた。
そして、指を三本立てる。
「家も財布も燃えて途方に暮れてた」
立てた指の一本目が折られる。
確かにななと契約すれば住む家やお金が確保できるかもしれないが、彼なら泊めてくれる女性くらい、いくらでもいそうである。
すると、彼はもう一本指を折った。
「最近、上司からお見合いを勧められていたんだよ。いちいち断るのが面倒だった」
「なるほど」
「あと、ここ数年、仕事で女性と接する機会が多くなってね。アプローチをかわし続けるのが地味に面倒くさくて」
三本目。ななは半目になった。見事に三つある理由のうちの二つが女性関係。
「……つまり女避け?」
「不満?」
「そういうんじゃないです。ただ、アプローチされるのは嬉しいことじゃないんですか?」
遊べる女が増えるのは喜ばしいことなんじゃないだろうか。
「ななちゃん。もしかして僕のこと、女好きの節操のないクズだと思ってない?」
「はい。クズにしか見えませんね」
それ以外の何だというんだ。
五代は不満そうな顔をして、ななを見た。
「僕は、仕事とプライベートは分けるタイプなんだ。仕事中は仕事だけしていたい」
ななは少しだけ驚いた。クズはクズでも、職業倫理は備わった真面目なクズらしい。なぜ女性関係にもその真面目さが活かされなかったのか。
ふと、見慣れた家の外壁が見えてきた。ななの実家だ。
「着きました。あれです」
五代が腕時計で時間を確認した。
「ちょうどいいくらいだね」
ななは、シルバーチェーンのネックレスの下をそっと指先で掻いた。普段ネックレスなんてつけないので、落ち着かない。ふりとはいえ、初めての彼氏の紹介だ。シックな紺のワンピースを着て化粧をしてきたけれど、ストッキングの締め付けが気になる。
五代はといえば、まったく緊張した様子がない。家が燃やされた日の夜に、カプチーノでラテアートまで描いて楽しめるくらいだ。きっと心臓にたわし並みの毛が生えているのだろう。
***
「お金ってあるところにはあるんだなあ」
ななの実家を見た五代の第一声は、感心というよりも呆れの色を帯びていた。
「何当たり前のこと言ってるんですか」
エントランスでは、梶井が迎えに出ていた。タクシーの運転手に近づき、丁寧な応対で料金の支払いをしている。
正門から玄関前まで舗装された私道が、車がUターンしなくてもいいように円を描いてまた正門に合流している。毎日庭師が丹念に手入れしているガーデニングが、街灯の光に照らされて美しい影を伸ばしていた。
ななの実家は二階建てだったが、一階ごとの天井高が平均よりも高いので、一般の建物の三階建てと同じくらいの高さだ。クリーム色の外壁とグレーの三角屋根が特徴で、屋根にはいくつか煙突が突き出している。
部屋数でいうと二十未満くらいあったはずだが、昭和初期に建てられたという古さだけが誇れる家である。
「この家の一人娘かあ。ちょっと緊張しちゃうね」
五代が軽く笑いながら言った。むしろ楽しんでいる気がしないでもない。
「正確には、兄が一人いるんですけど……」
「あれ、そうなの」
「父と喧嘩して家出して絶縁状態です。今どこで何をしてるのかもわかりません。なので、いないものと思ってもらって結構です」
「……それは、余計にお父さんはななちゃんのことが心配だろうね。気合いを入れないといけなさそうだな」
ななは首をかしげた。今の情報のどこに、気合いを入れる部分があったのだろうか。少し考えたけれどよくわからなかったので、まあいいかと足を踏み出した。
いつもの歩きやすいスニーカーではなく、少し高めのヒールつきパンプスを履いているというのを忘れていた。石畳の隙間にヒールの足が取られ、ななは転びそうになった。
咄嗟に横から伸びてきた腕が、ななの体を支える。
「危ない。気をつけて」
五代である。彼はななをまっすぐ立たせると、足元にしゃがみこんで、脱げて転がったパンプスを手に取った。
「よかった。ヒールは折れてない。はい」
付着した土を払うと、彼はそのまま、ななの足に優しく触れる。壊れ物を扱うような手つきで、そっとパンプスを履かせてくれた。
なるほど。ななは、納得した。
「五代さんがクズだってことが、よくわかりました」
「なんでそうなるんだろう?」
五代が立ち上がると同時に、玄関からしゃがれた声がかかった。
「なな。おかえり」
正面玄関に、父の姿があった。シルバーグレーの少し薄い髪は、後ろに撫でつけるように整えられていた。娘の彼氏を迎える場だからか、きちんとしたスーツを着ている。
まずい。先ほどの「クズ」発言、聞かれてしまっただろうか。誤魔化すように慌てて笑顔を作って、五代に寄りそう。
「ただいま、お父さん」
五代を連れて父の前まで進む。父は普段通り柔和で人好きのする顔だったけれど、目だけは笑っていなかった。ななの隣にいる五代をじっと観察している。ななは無性にネックレスを直したい気持ちになった。
「五代さん。紹介するね。うちの父です。……お父さん、こっちが五代雅通さん。私の彼氏で、結婚したいと思ってる人」
「初めまして、五代雅通です。本日はお招きありがとうございます」
五代がにこやかに挨拶する。父は目を細めて、右手を差し出した。
「友成宗一郎です。初めまして」
二人は握手を交わして、微笑み合った。
冷や汗をかいているななの近くで、しかし五代は平然としていた。手土産を父に渡し、軽い雑談までしている。これが三十代の余裕か。ななは少しだけ五代を尊敬した。
とりあえず「彼氏」を父に会わせた。このまま結婚相手としてふさわしいと認めさせて、婚姻届の証人欄に署名をもらえば、ミッション成功だ。
ななは気合いを入れると、玄関扉をくぐった。




