第十話 だからあなたはクズなんです
郵便物を仕分けする。意外に五代宛のものが多い。よくわからない英語の資料や本、ナントカ学会の会報など、ななにはよくわからないものばかりだ。
自分の分だけを寝室にある棚に仕舞いに行ったところで、チャイムが鳴った。昼の二時。時間ぴったりだ。
「はい」
リビングに向かうと、五代がインターフォンの応対をしていた。土日は基本休みらしい。時々夜遅く帰宅することはあっても、休日出勤はしない。「休日って何のためにあるか知ってる? 休むためにあるんだよ?」とご立派なことを言いながら、彼が休日に読むのは仕事に関連しているだろう資料だ。よくわからない。
インターフォンの向こうから、鞠子の挙動不審な声が聞こえてきた。ななは近づいて、エントランス開錠のボタンを押す。数分もすれば、やってくるだろう。
「五代さん、わかってますね」
「夫婦らしく、でしょ。耳にタコができたよ」
五代は肩をすくめると、キッチンに入った。食器棚からティーカップを出して、紅茶の茶葉を用意している。さすがヒモだった男だ。便利である。
ななは自身の服を見下ろした。グレーの少し大きめのニットセーター。今日のためにわざわざ買ってきた。五代も同じデザインのものを着ている。つまりペアルックである。
やってきた鞠子は、緊張した顔をしていた。しかし、だいぶ気合いを入れてきたというのがわかる格好だった。毛先はいつもより丁寧に巻き上げられているし、つけ睫毛がここぞというとき用の長いやつだし、アイラインはいつもの二倍は太い。唇はいつでもキスできますと主張しているかのように、ぷるぷるだ。
「いらっしゃい鞠子」
「う、うん。……ご、五代先生は?」
鞠子がこのマンションを訪れるのは初めてではない。去年の夏休みなんて、一ヶ月近く滞在していったくらい馴染みのある場所だ。しかし明らかに挙動不審だ。五代を意識しているのだ。
ななは内心ため息をついた。鞠子がイケメン好きなのは長い付き合いだから知っていたけれど、まさか五代に一目惚れするとは。クズのくせに、顔だけいいのがいけない。
「リビング。上がって。紹介するね」
鞠子用のスリッパを出す。彼女はそわそわしながらついてきた。
リビングに入ると、五代はキッチンでケーキを切り分けているところだった。紅茶のいい匂いがしている。作業台に砂時計が立っているのが見えた。
「久世さん、いらっしゃい」
「は、はい。初めまして、久世鞠子です」
「一応、大学の講義で会ってるけどね。改めて。五代雅通です。どうぞ、座ってください」
「はい。あ、なな。これ買ってきたから、二人で食べて」
鞠子は手にしていた手提げ袋を差し出してきた。毎日限定百個しか売っていない、超絶美味しい「とろけるカスタードプリン」だ。さすが鞠子だ。ななの好みを熟知している。ありがたくいただいて、冷蔵庫に詰め込んだ。
「あれ。アンディは?」
鞠子はソファに座って、辺りを見回した。
「アンディは寝室だよ」
「……なな、結婚してアンディを卒業したんだ」
ななは斜め上を見て考えた。単純にリビングに三人座るとなると、アンディがちょっと場所を取るかなと思って移動させただけだった。訂正せず、勘違いをさせておいたほうがいいだろうか。
五代が紅茶とケーキを運んできた。ななは、まあいいかと開き直った。後は五代に任せよう。きっと何とかしてくれるだろう。
「にしても、ななが春休みのうちに結婚して、しかも相手が五代先生だったなんて」
「びっくりした?」
「当たり前でしょう。そういうのは直接言ってよね、メッセージ飛んできたとき叫んじゃったんだから」
絶対に大声で問い詰められて、翌日には大学中で噂になるに違いないと確信したから告げなかったのだが。
「……なな、本当に結婚したんだね」
鞠子が、並んで座る五代とななを見た。彼女の視線が、二人のセーターへ。次に、左手にある結婚指輪に落ちる。鞠子は一瞬、泣きそうな顔をしたけれど、すぐに笑顔を作った。
罪悪感が途端に沸き立ったけれど、こればかりは仕方がない。もし契約結婚とバレてしまったら、ななの安寧が崩れて、また父に管理される生活が始まってしまう。純粋培養の鞠子が、五代みたいなクズ男に弄ばれて泣かされる未来も許容できなかった。
「改めて、二人の馴れ初めを詳しく聞きたいな。特になな、五代さんのどこが結婚の決め手だったの?」
ななは紅茶を飲んで、素直に答えた。
「ラテアートが上手なところ」
「まじめに答えてよ。貴兄からも聞いてこいって言われてるんだから」
「まじめだけど」
なぜそこで貴仁さんの話が出てくるのだろうか。ななはフォークを手に取って、ケーキを一口食べた。昨日、五代が仕込みをしていたブルーベリーのレアチーズケーキである。よく冷えていた。うまし。
五代が、父に説明したのと同じことを鞠子にしている。お互い映画が趣味で繋がっていたことや、五代がななを口説き落としたことなど。
鞠子は時折相槌を打ちながら聞いていた。最初は五代の顔を見ていたけれど、やがて視線を伏せ、指先でカップの取っ手をなぞり始めた。それを聞きながら、ななはケーキをゆっくりと平らげた。
鞠子は五代の話をすっかり信じ込んだようだった。さすが五代である。女を丸め込むのはお手の物ということか。
「お茶のお代わり淹れようか」
話題が途切れた頃、五代が自然と席を立った。鞠子は少しぼんやりしている。
「鞠子。大丈夫?」
「……あ。うん。ごめん。ちょっとしんみりしちゃった」
「しんみり?」
「ななが結婚しちゃったらさ、今までみたいに頻繁に遊びに来たり、遊びに誘ったりできないじゃない。なんだか寂しいなあって」
「鞠子……」
ななは、鞠子の横に座り直して、ぎゅっと彼女を抱きしめた。
「ちょっと、なな。何?」
何も言わずにただ抱きしめる。離婚するまで、真実を話せないことがもどかしい。
五代が紅茶のお代わりを運んできたタイミングで体を離す。鞠子は乱れた髪を直すと、少し赤くなった頬を隠すように、慌てて紅茶のカップを手に取った。
しかし、素早く持ち上げたせいで、紅茶が跳ねた。
「あっつ……!」
熱々の紅茶が鞠子の手首に思い切りかかった。がちゃんと音がして、カップが割れる。
「鞠子、大丈夫!?」
ななは立ち上がった——それより前に、五代が身を乗り出して鞠子の手をつかむ。
「ななちゃん、タオル!」
五代はそう言うと、鞠子をキッチンに連れていき、キッチンの水道を全開にしてその手首を突っ込んだ。自分のセーターが濡れるのも構わず、鞠子の手を水にさらす。
ななは一瞬だけぽかんとしたけれど、すぐに我に返って、脱衣所からタオルを取ってきた。
リビングに戻ると、キッチンのシンクに並んで立つ二人が目に入る。鞠子が真っ赤な顔で固まっている。まずい——ななは半目になった。
その後、五代は鞠子の手に軟膏を塗って、ガーゼで丁寧に覆った。
「すぐ処置したから大丈夫だと思うけど、痛みが引かないようなら病院を受診すること」
鞠子の手首の熱傷を確認する五代は、ちゃんと「お医者さん」だった。臨床医ではないらしいが、手つきに不安はまったくなかった。鞠子は真っ赤になってうつむいている。ああ、もう。全部台無しじゃないか。
「五代さん。服びしょぬれですよ。着替えましょう」
ななは五代を促して、寝室を指し示した。鞠子に待っててもらい、二人で寝室に入ってドアを閉める。アンディがベッドの枕元に座っていた。
扉に背中を張り付けて、五代をにらみつける。
「ちょっと。どうするんですか、あれ」
「どうしようと言われても」
五代も鞠子の様子には気づいているようだ。少し困った顔になっている。このクズめ。
「今のは不可抗力だよ」
五代はぐっしょり濡れたセーターを脱いだ。インナーまで濡れている。ななはタオルを投げつけると、ため息をついた。せっかくうまくいきそうだったのに。
「やっぱり顔がいいのがいけないんだと思います。いっそ整形して、世紀のブサイクになりましょう」
「やらないからね?」
五代がクローゼットを開けた。新しいインナーとニットを取り出して閉める。そして言った。
「別にいいんじゃないかな、放っておいても」
「は?」
ななの目の前で、五代はインナーを脱いで新しいものに着替えた。
「普通の人は、親友の夫に恋をするのは不毛って考える。大学しか接点はないし、そのうち落ち着くよ。わざわざ傷つける必要はないと思うけど」
ななの頭の奥が、すっと冷えた。
五代の言うことは、一見とても優しくて合理的な提案に思えた。たしかに鞠子は、決してななの不幸を願うような子ではない。一目ぼれした男が親友の夫だと知っても、ちゃんと親友の好物を手土産に持って訪れる、そんな子だ。だからこそ、ななは——。
「ななちゃん?」
黙り込んだななを、五代がいぶかしむように見た。ななは、背中に接する扉の冷たさを感じて、ぎゅっと唇を引き結んだ。かすかに足音が聞こえる。
「五代さん」
ななは静かに呼びかけた。
ななは、片眉を上げる五代に大股で近づくと、その胸を勢いよく押した。手にしていたセーターが床に落ちた。
彼の背後はベッドである。一歩後退した五代は、ベッドのマットレスに足が当たって、体をぐらつかせた。ななは更に一歩詰めると、彼の体をそのまま押し倒した。
「ちょっ、ななちゃん、何——」
仰向けになった五代に馬乗りになる。胸ぐらをつかみ、顔を近づけて、冷えた目で見下ろした。静かに囁く。
「だからあなたはクズなんです」
そしてななは、五代の唇に嚙みついた。
ほんの少し開いた扉の向こうで、誰かが息を呑む音が聞こえた気がした。




