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クズの分別~五代夫妻は度し難い~  作者: 梨千子
第三章

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第十一話 友成ななは異常

 友成(ともなり)ななは異常である。


 自動販売機が振動している。

 取り出し口の半透明の扉からは、紙コップの姿が見えた。ミル挽きと筐体(きょうたい)に書かれている通り、鼻腔をつくコーヒー豆の香りが辺りに充満している。

 休憩室のシンプルな時計が、午前十一時前を指し示している。


「五代先生」


 不意に呼びかけられて目をやると、馴染みの刑事が手を上げて入ってきた。中年の男。頭部がやや寂しい。グレーのスーツを着ている。上着から覗くシャツの腹部が、丸く突き出していた。


鮫島(さめじま)さん。お疲れ様です」

「おう」


 鮫島は少し間を空けて立ち止まると、五代をじろじろと見てきた。五代もつられて自らを見下ろした。膝上まである白衣は洗濯したばかりだ。染みひとつない。鮫島が大きく息を吐いた。


「どうかしましたか」

「ああ、いや。あんたは相変わらずかっこよくてうらやましいと思ってな」


 自動販売機から、甲高い機械音が鳴った。五代は身をかがめて、取り出し口から挽きたてのコーヒーを取り出す。


「また娘さんから何か言われたんですか」

「散々だ。夜勤明けに帰ったら、臭いから近寄るなって追い払われた」

「大変ですね」


 五代はコーヒーをすすった。


「本当にな。思春期の娘が何を考えているのか、父親からはまったくわからない」


 鮫島は肩を落としながら、使い古した折り畳み式の財布を取り出した。隣の缶飲料の自動販売機にコインを入れ、加糖のアイスコーヒーを押す。ガコンと音が鳴った。


 休憩室の窓にかかったブラインドの隙間から、通用口と駐車場が見えた。検案車は停まっていない。鮫島は、異状死体――不自然死や変死した遺体――と一緒にやってきたわけではないらしかった。五代は観葉植物の隣の長椅子に座ると、足を組んだ。目の前に灰皿が設置されている。


 鮫島も缶コーヒーの口を開けて、五代の左手側に少し間を空けて座る。


「放火犯、見つかったんですか?」


 五代が尋ねると、鮫島は首を振った。


「そうですか」

「自宅を燃やされて殺されそうになったっていうのに、落ち着きすぎじゃないか。また襲われるかもしれないんだぞ」


 鮫島は胸ポケットから煙草を取り出すと、その一本を咥えて、火をつけた。


「騒いだところで解決するわけじゃないですからね。見つからない一因はこちらにもありますから」

「まあ、なあ。春日っていう女の名前しか知らないんじゃあ、時間はかかるわな」


 五代は濃いコーヒーを飲み込む。


「もしかすると彼女も、時間を置いたら落ち着くかもしれないですしね。今後関わってこないなら、見つからなくても構わないと思っています」


 鮫島が煙草を吸う動きを止めて、こちらを見てきた。その目が、五代の紙コップを持つ左手に落ちる。見ているのはシンプルな結婚指輪だ。


「……五代先生。あんた、最近結婚しただろ」

「はい。そうですね」


 上司と同僚、そして鮫島を始めとする付き合いのある警察関係者に報告したところ、全員に等しく驚愕の眼差しで見られたことを思い出す。「五代。おまえにそんな甲斐性があったのか」と同僚の一人に言われたが、いまだに意味がわからなかった。放火殺人未遂事件と結婚報告を一緒に行ったせいだろうか、全員、五代ではなく結婚相手のななに同情的だった。


「ならもう少し気をつけろ。長くこの仕事やってるとな、痴情のもつれが一番面倒で恐ろしいってことがよくわかるんだ。あんたじゃなくて、奥さんが狙われる可能性だってある。後悔したって遅いんだからな」

「それは——」


 五代は言葉に詰まった。


 下唇が少しだけ気になった。とっくに傷は消えて痛みも残っていなかったが、破れた唇から流れた血の味が、コーヒーの味よりも鮮明によみがえる。


 妻になった女の、自身を見下ろす瞳。いつもドライで、快か不快かで合理的に判断していく彼女が、あのときばかりは尖った感情を(あらわ)にしていた。別れ話をする際、大抵過去の女たちは泣いたり(わめ)いたり五代を(なじ)ったりしたが、ななの目はそのどれもと違っていた気がする。自分を押し倒してきた女があんな顔をするのを、五代は今まで見たことがなかった。


 あの後、ななは普段の調子に戻ってしまって有耶無耶(うやむや)になってしまったが……。


「……ご忠告、感謝します。できるだけ気をつけるようにします」


 笑おうとしたが、唇の端はあまり動かなかった。鮫島はそれで、五代が神妙に受け取ったと思ったらしい。「よし」とうなずいて、缶コーヒーの残りを喉に流し込み、ゴミ箱へ放った。


「じゃあ仕事の話をしようや。先日上げてもらった死体検案書について、聞きたいことがあって来たんだよ」


 まだ長い煙草を灰皿に押し付けると、鮫島が立ち上がる。五代も残りのコーヒーを飲んで、立ち上がった。ふわりと白衣から煙草の匂いがした。洗濯したばかりだったが、また持ち帰って洗濯しないといけない。


 煙草の匂いをつけて帰ると、ななが嫌そうな顔をして無言で見てくる。今夜もそうなるのだろうと予想できて、五代は白衣の裾を軽く払った。



 ***



 退勤間際に、机の上に置いていたスマホが震えた。メッセージの通知。


『今夜は鞠子の家に泊まるので、ご飯はいりません』


 ななからだった。

 なるほど。今日の夕食当番は免除されたらしい。


 五代はキーボードを叩いていた指の動きを止めると、袖机の一番下の引き出しを開けた。既に持ち帰るために折りたたんでいた白衣を取り出して、再び着る。マウスを操作し、今作っていた書類を保存すると、パソコンをロックした。


「あれ、五代。帰らないのか」


 白衣姿で立ち上がった五代を見て、隣の席にいた男が声を上げた。


「急いで帰る必要がなくなったから。今のうちに実験を進めておこうと思って」


 白衣の内ポケットにスマホを滑り込ませる。左手の薬指から指輪を外すと、机の上の指輪ケースに収めた。


「五代って、結婚して三か月だっけ」

「そうだね。来週の月曜でちょうど三か月かな」


 同僚の藍田(あいだ)が、指輪ケースを不思議なものを見るような目で見ていた。


「今度さ、奥さんに会わせてよ。五代の奥さん見てみたい」

「なにそれ」

「正直、二週間くらいで離婚すると思ってた」

「失礼なやつだなあ」

「あ、ウソウソ。ほんとは三日くらいで離婚すると思ってた」

「より悪い」

「いいでしょ。ウチのも連れていくからさ」


 五代は藍田の机を見る。写真立てが所狭しと置かれている。結婚式の写真、新婚旅行のツーショット、赤子を抱えて幸せそうに微笑む女性。机は家族写真であふれて雑然としている。

 指輪ケースを机の上に置いて、五代は資料を挟んだバインダーを手に取る。


「まあ、そのうちね」

「離婚する前によろしくな!」


 軽く手を振って、実験棟に向かう。


 職場を退勤したのは夜の九時を回っていた。夕食の当番なんてない結婚前は、このくらいが普通だった。退勤後は食事がてら飲みに行くこともあれば、女性からお誘いを受けて会うこともあったが、火事でスマホが焼けて番号が変わってしまったので、以前付き合いのあった女性からのお誘いはまったく来なくなってしまった。スマホに入った連絡先は職場関連の人間とななだけという、藍田が聞いたら驚愕するような乏しさになっている。


 行きつけのバーにでも行けば、また女たちと再会できるかもしれないが……。


 五代は愛車に乗り込むと、助手席に鞄と白衣が入った紙袋を置いて、エンジンをかけた。ハンドルを二回指で叩いてから、ギアをパーキングからドライブへ入れる。


 結局、マンションに戻った。冷蔵庫の豚肉とピーマンの賞味期限が今日中だったことを思い出したからだ。


 ポストを覗くと、郵便物は回収されていた。ななが鞠子の家に行く前に回収したのだろう。


 部屋に入ると真っ暗だった。電気をつけて、脱衣所の洗濯籠に白衣を投げ、リビングに入る。ダイニングテーブルに、五代宛の郵便物がまとめて置かれていた。


 夕食に青椒肉絲(チンジャオロース)を作って、ハイボールと一緒に楽しんだ。

 風呂に入りがてら、洗濯機を回す。このマンションは防音がしっかりしているから、たとえ真夜中に洗濯したところで苦情は来ないのが便利だ。

 浴室暖房乾燥機をつけてから洗濯物を干す。朝には乾いているだろう。


 スマホにメッセージが来ていた。


『鞠子が明日も泊まっていけというので、ごはん作れません。当番を交替してください』


 ななからだった。


 なるほど。明日はななが夕食当番だったが、引き続きいないらしい。もっとも彼女の用意する夕飯は、ケータリングや店屋物のB級グルメばかりである。キャビアのような高級グルメを楽しみながら、その横でトンカツを頬ばるような女だ。二日いないくらいで大した問題は感じられない。


 OKのスタンプを返す。ななとの会話は、事務連絡とOKのスタンプの二種類だけ。とても楽だった。


 郵便物を確認しながら、寝室に入る。ダブルベッドの真ん中に、巨大なテディベアが座っていた。アンディ。


「……置いていかれたのか」


 持ち上げて移動させるにも苦労するぬいぐるみだ。当然かもしれない。

 しかし、ななは寝る際にもアンディに抱きつかないと落ち着かないようだった。鞠子の家ではどうやっているのだろう。


 寝室のカーテンを閉める。

 ふと、本棚が乱れているのが目に入った。大量の映画のパンフレットとDVDケースが並んでいるが、そのDVDケースの間に乱雑に押し込まれた白封筒の角が突き出ている。昨夜はそんなことなかったはずなので、ななが家を出る前に慌てて突っ込んでいったのだろう。


 五代は息をついて、棚を整理しようと封筒に手を伸ばした。ぎちぎちだ。詰め込みすぎて余裕がない。仕方なくDVDケースを一枚抜くと、封筒がバサバサと音を立てて床に落ちた。


「あーあ」


 床に落ちた封筒は、すべて同じ形状だった。一枚や二枚ではない。両手で数えられるくらいある。封はすべて切られていた。一部、中身が外に飛び出している。

 五代はそれを拾い上げて、眉を寄せた。


 写真。


 落ちたものをすべてかき集め、順繰りに見ていく。

 映っていたのは、ななだった。大学の構内の写真。食堂でうどんをすする姿。たこ焼きを口にする姿。つまらなさそうに講義を聞いている姿。ウトウトと居眠りしている姿。鞠子と一緒に歩く姿。店屋物を買い求める姿。


 どれも正面からの写真ではない。ななの視線はカメラを見ていないし、ブレているものも多数ある。明らかに気づかれないように撮っている。


 盗撮だ。


 他の封筒の中身を全部確認する。同じだ。ななの盗撮写真。背景や服装から、春頃から撮られていることがわかる。

 封筒の表を確認する。どの封筒にも切手は貼られておらず、宛先も書かれていなかった。


 臓腑(ぞうふ)に、じわりと何かが広がっていく気がした。五代は視線を上げた。


 アンディの丸く黒々とした瞳が、まっすぐ部屋を見ていた。

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