第十二話 消化不良
車を寄越すから現場に赴いて検死してほしい、と警察から協力要請を受けたのは、翌朝出勤してすぐだった。昨夜から今朝にかけて事故と事件がいくつか重なったらしい。上司の席の近くにあるテレビ画面が、珍しく仕事をしていた。ニュースキャスターが事件の速報を伝えている。
運転手と補佐官の三人一組で検案車に乗り込み、現場に直行した。駅前のビジネスホテルだ。既にパトカーが停まっていて、ホテルの入り口に警察官が見えた。
鮫島の姿があった。彼は五代を見て「おう」と手を上げ、親指を立ててホテルの中を指し示した。肩を並べてホテルに入る。
「おはようございます。鮫島さんがいるってことは、事件ですか?」
「オレがいるのは、半分は先生への配慮さ。ホトケさんをそっちに送ることはあっても、現場に来て見てもらうなんて滅多にないだろ」
「たしかに珍しいですね」
基本的にこの地域で現場の検死を引き受けるのは、大学の法医学教室の教員たちである。彼らが検死と解剖の当番を交互に行い、年中無休で行う。とはいえ、法医学者は数が少ないので、手が足りずに五代の務める研究所にもしばしば解剖の依頼が舞い込む。反面、警察に同行しての検死を要請されたことは、今まで片手で数えるほどしかなかった。
ホテルのロビーを横切る。時刻は十時過ぎだ。チェックアウトの時間は過ぎているだろう。平日のロビーにあまり人の姿は見えなかった。
エレベーターホールへ入り、鮫島がボタンを押す。もともと一階にあったらしく、すぐにエレベーターの扉が開いた。
「まあそれはそれとして、事故か事件か、オレたちもわからんってのが正直なところなんだよ」
エレベーターに乗り込んで扉が閉まると、鮫島が困ったように言った。
「わからない?」
「二人死んでる。男と女。どちらも身元調査中だ。わからんのは、彼らが自殺したのか無理心中したのかってところだ」
鮫島の案内を受けて、部屋に向かう。
部屋の入り口に、黄色のテープが張られていた。警官が一人立っている。会釈をしてから、鮫島について中に入る。マスクをしてから手袋をつけた。
部屋は暗かった。カーテンが引かれたままだ。現場保存を優先したのだろう。
ダブルベッドに、男と女の頭だけが見える。恋人、あるいは夫婦関係か。布団をはがすと、女は全裸で横向きに、男はバスローブ姿で仰向けになって死んでいた。一見すると外傷はない。
最初に男をさっと所見して、女の方に移る。その顔を見て、五代は動きを止めた。
「……鮫島さん」
立ち上がって、五代は手袋を脱ぐ。
「ん? 何かわかったのか」
「いえ。すみませんが、上司に連絡して交替します。これ以上続けられなくなりました」
「どういうことだ?」
五代は女を見下ろして言った。
「知り合いです。最後に会ったのは半年くらい前ですかね」
「おいおい。あんたの女だったのかよ」
「お互い割り切った関係でしたけど。後から問題になるかもしれないので、自分はここで帰った方がいいと思います」
鮫島が顔をしかめた。彼は無言で五代をにらんだ後、薄くなった頭部を掻いて、大きくため息をついた。
捜査や裁判の公平性に問題が出るため、法医学者は原則として家族・知り合いの検死や解剖に関わってはならない。法律で定まっているわけではないが、刑事事件になる可能性がある現状では、関わらない方が身のためだった。
部屋から出て、上司に電話をかける。事情を説明すると、すぐに来てくれることになった。
「女について知ってることはあるか?」
「南さんって名前くらいですね。OLをしているってことくらいしか」
「出会いは?」
「四辻通りにある飲み屋街のショットバー。連絡先は知らなくて、そこで会えた時だけの関係」
鮫島はまた息をついて、「南ね」と手帳に名前を書き込んだ。
「ったくよぉ、五代先生も女遊びはほどほどにしてくれねえと。奥さんが泣くぞ」
「そう言われても、結婚する前のことですし。想定外の出来事です」
鮫島と二人でエレベーターに乗り込む。上司の到着をロビーで待つつもりなのだろう。狭いエレベーターで二人になってから、五代はおもむろに切り出した。
「鮫島さん。お忙しいところ申し訳ないんですが、この件とは別に、ひとつ個人的なお願いがあって」
「お願い? あんたからお願いってのは珍しいな。しかも個人的な」
鮫島は胸ポケットに突っ込んでいる煙草をとんとんと叩いた。この後、喫煙所に向かうのかもしれない。
白衣の内ポケットから白い封筒を取り出して渡す。彼はいぶかしげにそれを受け取って、中身を確認した。写真を数枚見てから片眉を上げる。
「盗撮か。写ってるのは誰だ?」
「妻です」
鮫島の表情が険しくなった。じろりと鋭い眼差しが飛んでくる。
「一通しか持ってきていませんが、全部で七通ありました。すべて同じ形状。切手や宛先はなし。中身は妻を盗撮した写真なんですが、一枚だけ——」
五代は鮫島の持つ写真の一番上のものを指さした。
「裏面にメッセージがあります」
鮫島が写真をひっくり返す。白いつるっとした裏面に、真っ赤な文字が書かれていた。
『五代先生と別れろ』
エレベーターが一階に着いた。
鮫島は写真を封筒に仕舞いこむと、くたびれたスーツのポケットに突っ込んだ。
「いつからだ?」
「わかりません」
「わからない?」
二人でロビーを横切る。受付にスタッフの姿は見えなかった。ベルがぽつんとカウンターに残されている。用がある人は押してくださいということらしい。
「多分、そのメッセージのものが初回だとは思うんですが。撮られた時期も春頃で、結婚直後です。ただ、それがポストに投函されていた正確な時期は不明です。……妻が封筒を隠していたので」
「隠してた? なんでだ」
「ええ、まあ……なんでだろう?」
五代は肩をすくめて笑った。実際、なながどうして封筒を隠し持っていたのか、五代はさっぱりわからない。
鮫島は呆れたような目で五代を見た。
「よくわからん奥さんだな。……とりあえず、これを調べたいってことだな?」
「そうですね。お願いできますか」
「わかった。先生にはお世話になってるし、例の放火事件と関係してる可能性もあるからな」
鮫島は胸ポケットから煙草のパッケージをつかみだした。数歩先に、喫煙所が見えた。
鮫島と別れて、外に出る。白衣を脱ぎ、畳んでから鞄に収めた。ここまで検案車で来たので、研究所まではタクシーか電車で移動するしかない。
腕時計を確認すると、十一時にもなっていなかった。初夏の日差しが目を焼く。五代は交差点の向こうにあるタクシー乗り場に向かった。
「なかなか面白かったよ。たしかに、ななさんの言う通り、カーチェイスがすごい迫力だった」
「そうでしょう。スタントマンではなくて俳優本人が演じているんですよ。CGは使ってないんです。あそこだけで白ご飯三杯はいけますね」
駅前の百貨店と連結している歩道橋を歩いていると、ふと聞こえてきた男女の声——聞き覚えのある声に思わず目を向けた。
百貨店の隣にある映画館の入り口に、すらりとした白いシャツを着た男が立っていた。ライトグリーンのパンツを履いた小柄な女子を連れている。
——なな。
立ち止まりかけて、慌てて足を動かす。
鞠子の家に泊まると言っていたのに、知らない男が隣にいる。
浮気現場——というわけではない。五代とななは契約関係にある夫婦である。契約文には、恋愛は自由という文言がある。あの男がもしななの恋人だったとして、まったく問題はない。
ないのだが……。
先ほど鮫島に手渡した封筒の存在を思い出して、五代は目を細めた。
タクシー乗り場に繋がる歩道橋を降りる。人影は見えず、すぐにタクシーに乗り込むことができた。研究所の住所を伝えて、後部座席のソファに背中を沈める。
少しだけ胃の奥が重い。
なぜか消化不良な感覚があった。




