第十三話 三時五十二分
「おそらく痴情のもつれだろうなあ」
午後になって、鮫島が上司を連れて研究所にやってきた。検死が終わり、本格的に解剖になったということで、遺体と上司を送ってきたらしい。
「ああ、そうなんですか」
五代は相槌を打って、洗っていた手を拭いた。
術着から鼻をつく匂いがしている。検死を交替してもらったので、上司がやるはずだった解剖を代わりに引き受けたが、状態が悪く少々大変だった。
鮫島の方も、匂いに気がついたらしい。顔をしかめた。慣れていない人にはつらいと思うが、さすがに彼の反応はそれだけだ。
「薄情なやつだな、五代先生の女だったんだろ」
「恋人ではなかったので、正確な表現ではありませんね」
連絡先も知らない。行きつけのショットバーで時々顔を合わせ、一緒に酒を飲み、誘われるがまま体を重ねただけの関係である。女の方も快楽目的だったように思うし、たまたまその日の相手が五代だっただけで、誰でもよかったのではないだろうか。
「長谷川先生の検死では、女の方が先に死んでいるようでな。男が後追いみたいだ。まあ詳しいことは、解剖してからみたいだけどな」
「ついてなくていいんですか」
上司の長谷川は、先ほど術着に着替えて解剖室に入っていった。通常は付き添いで警察関係者が入るはずである。
「後輩につかせてる。俺は五代先生の尋問担当。あんたへの尋問を後輩に任せたら、丸め込まれそうだからな」
「なるほど」
鮫島が面倒を見ている後輩は、まだ二十代の女性だった。何度か顔を合わせたことがあるが、資料よりもこちらの顔を見る時間の方が長いので、鮫島は気にしているのだろう。心配しなくても、仕事で付き合いのある女に手を出したりはしない。こじれた場合の後処理が、何倍も面倒なことになる。しかし、鮫島にとってはそれはそれとして、違う理屈があるのだろう。
鮫島に待っててもらい、シャワーを浴びて着がえる。こういう仕事をしていると鼻が麻痺してきて、匂いがついていてもわからなくなるので、毎回念入りに洗い流すことにしていた。
いつものスーツ姿になってから白衣を着て、喫煙可の休憩室に向かった。鮫島は先に煙草に火をつけてくつろいでいた。ミル挽きの自動販売機で、挽きたてコーヒーを注文する。ややして筐体から機械音がして、コーヒーの濃厚な香りが漂ってきた。
「まあ形式的な質問だ、気軽に答えてくれ。最後に会ったのはいつだ?」
ソファに座っている鮫島から質問が飛んでくる。
時刻は三時過ぎだった。開いたブラインドから陽射しが入ってきていて、床にまだらの模様を作っている。五代は窓に近づいて、ブラインドの角度を調整した。
「……多分、一月ですね。正確な日付までは覚えてませんが、正月明けのたまった仕事を片付けて、落ち着いた頃だったと思います」
「会ったのは、例のショットバーか?」
「はい。仕事帰りふらっと寄るのにちょうどいいところなんですよ。マスターの意向で珍しいお酒を置いていて、ショットバーなのに料理も美味いので」
「ショットバーなら女の一人客も多いな。一人で飲みに入って、出るときには二人ってパターンか」
「そうですね」
「うらやましいご身分だなあ」
カウンターで酒と料理を楽しんでいたら、いつの間にか隣に女が座って話しかけてくる。五代にしてみれば、特別気にすることもない日常の光景である。
ショットバーの店内を思い浮かべていると、ふと思い出したことがあった。そういえば、自宅マンションを燃やした春日という女は、今日死んでいた南という女の知り合いだったような気がする。
「鮫島さん——」
それを伝えようとしたとき、白衣の内ポケットに入っているスマホが震えた。マナーモードだったが、メッセージ着信でないのはすぐにわかった。電話だ。
スマホを取り出す。知らない電話番号だった。固定電話のものではない数字の羅列が、画面に表示されている。ちらと鮫島を見ると、彼は横を向いて煙を吐き出しているところだった。
五代は通話ボタンを押すと、スマホを耳に当てた。
「はい」
『——あ。五代先生ですか?』
女性の声だった。若い。どこかで聞いたことがあるような気がする。
甲高い音が脇から鳴る。自動販売機だ。コーヒーがようやく入ったらしい。
「ええ、五代ですが」
『あ、あの、お忙しいところ急に電話してすみません。久世です』
久世。ななの親友の鞠子の顔が浮かんで、五代はほんのわずかに目を伏せた。電話番号は教えていない。ななから聞いたのだろうか。昼前、駅前の映画館で見かけた男女の姿が思い出される。
「久世さん。こんにちは。この間はどうも。どうかしましたか?」
五代はにこやかに答えながら、身をかがめて自動販売機からコーヒーが入った紙コップを取り出した。途端に芳醇な匂いが休憩室に流れ込んだ。
『は、はい。あの、五代先生。お仕事が終わったらでいいんですが、うちに来られますか』
「……久世さんの家に?」
『ななが体調崩しちゃって。本人は食べすぎだって言ってるんですけど、吐いて、熱もあるし。五代先生に連絡したほうがいいかと思って——』
五代は動きを止めた。
「熱は何度?」
『あ、えっと……さっき測った時は、たぶん三十七度くらいだったんですけど、ちょっとずつ上がってる気がします』
「何時くらいに何を食べたか知ってる? 医者には見せた?」
『あ、ええと……天ぷらとおそば? みたいです。あ、あと、デザートにあんみつを食べたみたい? 医者にはまだ診てもらってません。ななが嫌がるから』
鞠子の回答は正確性に欠けるものばかりだった。多分や予測が多すぎる。
鮫島の方を見ると、彼は二本目の煙草に火をつけたところだった。時計を見る。三時十三分。
五代は鮫島に近づくと、手に持っていたコーヒーを突き付けた。鮫島は一瞬眉を寄せたが、煙草を持っていない方の手でそれを受け取る。
「迎えに行くから、住所教えて」
白衣のポケットからメモ帳とペンを取り出す。鞠子の告げる住所を書き留めると、電話を切った。
「すみません、鮫島さん。話はまた今度でもいいですか」
鮫島はコーヒーを持ったまま、戸惑った顔で五代を見た。
「それはいいが……何があったんだよ」
「妻が急病みたいです。迎えに行きます」
住所を書き留めたページを破って、ペンを仕舞う。
「迎えにって、今からか? 早退して?」
鮫島はなぜか妙な顔をしていた。
「はい。急病みたいなので」
五代は休憩室を出ようと歩き始め、ふと思い出して鮫島にもう一度顔を向けた。
「そのコーヒー、代わりにどうぞ」
呆けている鮫島を置いて、休憩室から出る。
デスクに戻ると、上司はまだ解剖室にいるようだった。死体は二体もあるのだ、しばらく時間がかかるだろう。
幸い隣席の同僚、藍田がパソコン作業をしていたので、彼に早退の旨を告げて、パソコンの電源を切って荷物をまとめる。なぜか藍田も奇妙な顔をしていたが、追及している時間はなかった。時計を見る。三時二十五分。
白衣を脱ぐと、鮫島の煙草の移り香がした。また洗濯をせねばならないが、病人を迎えにいく車内に積み込むのは不適切な気がした。座席の背もたれにかけておく。
外は明るかった。車に乗り込んでエンジンをかけ、カーナビに久世家の住所を打ち込む。
到着時刻予想は、三時五十二分だった。




