第四話 この男、クズ
夜中のうちに雪が降ったらしい。
カーテンを開けると、ベランダが真っ白になっていた。リビングの掃き出し窓から行き来できるベランダは隣の寝室まで繋がっていて、開口部に花壇が設けられている。そこには色とりどりの季節の花が植えられていて、一週間に一度はガーデニングが趣味の梶井がやってきて、せっせと世話をしていた。その花壇は今、すべて積雪で埋まってしまっている。
テレビのチャンネルは朝のニュースだった。積雪で都内の交通網が麻痺していることをレポーターが伝えている。もっともここは、都内ではないので関係がない。
「これは、昨日ななちゃんに拾われてなかったら、凍死してたかもしれないな」
キッチンにいる五代が、外を見て言った。ななもそれには同意する。その場合、雪の下から男の死体が見つかったというニュースが、夕方頃には流れていたのだろう。感謝してほしい。じっと男を見つめると、彼はにっこりと笑って甘い声で言ってきた。
「もちろん感謝しているよ。マイハニー」
「うわ、キモ。鳥肌立ちました。おじさん臭いので今後一切そう呼ばないでください。契約書のルールに追記します」
「……ななちゃん、きみ、だいぶいい性格してるね」
エスプレッソマシンの動く音がする。コーヒー豆のいい香りが、キッチンからふわりと漂ってきた。五代が冷蔵庫から取り出したミルクを、スチームしている。
彼は、昨夜乾燥機にかけた服を着ていた。ご丁寧にアイロンまで見つけ出してきて、スーツとシャツにはアイロンをかけ、ネクタイの皺まで綺麗に伸ばしていた。おかげで今朝の五代は、風呂上がりよりもずっとパリッとした印象だ。濃紺のベストを着て白いシャツの袖を腕まくりし、まるで鼻歌を歌うかのような軽やかな手つきでラテアートを描いている。
やがて差し出されたカプチーノには、リビングのソファに鎮座しているアンディそっくりの顔が描かれていた。
どうして自分はスマホを忘れてきてしまったのか——。ななは激しく後悔した。
「それで、もうすぐ西山さんっていう家政婦が来るんだっけ? 僕はきみの恋人のふりをすればいいと」
モーニングコーヒーを飲んで、五代が確認をしてくる。ななはカプチーノのアンディをじっと見つめながら、うなずいた。
「そうです。西山さんは職務に忠実な人なので、私に部屋に連れ込むような男がいると知れば、すぐに父に連絡してくれます。契約内容は忘れていませんよね?」
五代は肩をすくめた。
「きみこそ忘れていないよね。契約期間中、生活に関する場所や費用はすべて——」
「私が持つ。食事や掃除は当番制。夫婦生活はなしで恋愛は自由、ただし父にバレないようにやること。あなたは全面的に、私にふさわしい『夫』を演じること」
「大学卒業したら離婚するって話だったけど、本当にそれでいいの?」
ななは首をかしげた。どういう意味だろう。五代は苦笑した。
「若い身空でバツイチになっちゃっていいのかってこと」
なんだそんなことか。
「構いません。結婚に夢を見ていないですし、バツがついてもつかなくても、私が変わるわけじゃないので」
「最近の若い子はドライだなあ」
「五代さん、意外におじさん臭いですよね」
ななは、五代とじっと見つめ合った。お互い同時ににっこりと微笑む。
「ななちゃん、カプチーノ早く飲まないと冷めちゃうよ。気に入ったなら、また描いてあげるから」
ななは、ぐっと唇を引き結んだ。
「……ほんとですね?」
「ほんとほんと。だから早く飲んで。一緒に洗い物しちゃうから」
そこまで言うなら仕方ない。ななはカプチーノのアンディに口をつけた。
「あ。そういえば雑巾ある?」
シンクの水を止めて、五代が聞いてきた。
雑巾?
「さあ。どこかにあると思いますけど、なぜですか」
「廊下の足跡。消しておいたほうがいいと思って」
「西山さんが掃除してくれますよ」
「あれを残したまま、きみの恋人として出て行ったら、お父さんからの評価下がると思わない?」
「……ウェットティッシュで拭きましょう」
***
「お嬢様。不審者ということで、通報いたしますか?」
西山さんの第一声はわかりやすかった。
合鍵を持っている西山さんは、仕事のときはいつも、まずはななに挨拶するためにリビングにやってくる。
いつものようにリビングに入ってきた西山さんは、すでにエプロン姿だった。年齢は六十代だけれど、髪を茶色に染めてメイクをきっちりしている。ぱっと見は三十代から四十代に見える。いわゆる「美魔女」だ。今年ひ孫が生まれると言っていた。
彼女は、リビングのソファでななの隣に座っている五代を見て、視線だけをテレビ台のライト風防犯ブザーに向けた。
テレビ画面には、数年前に公開されたミステリー映画が流れている。大変風刺が利いた作品で、役者全員が極めて真面目にジョークを演じている。
「不審者じゃなくて彼氏だから大丈夫だよ、西山さん」
ななは、のんびりと返した。
「……さようでございますか」
西山さんは、防犯ブザーから五代に視線を流した。
「はじめまして。ななさんとお付き合いさせていただいてます、五代です」
五代は、西山さんの方を向いて、よそ行きの声で挨拶した。西山さんが流れるような姿勢で頭を下げた。
「西山と申します。友成家——いえ、今はななお嬢様の家政婦をしております」
挨拶が終わると、西山さんは少しだけソファに近づいて、エプロンのポケットからスマホを取り出した。ななのスマホだ。
「お嬢様。ご実家の方に、こちらをお忘れになっていたと梶井から」
「ありがとう。すごく困ってたから助かったー」
どれだけスマホに依存しているのかがよくわかった。ラテアートの写真を二枚も逃したのは、本当に惜しいことをした。
差し出されたスマホを、間にいる五代が受け取って、ななに渡してきた。画面を触ってみたが、応答がない。
「充電切れてる」
「ほんとだね。コードはどこ?」
ななの手元を覗き込んだ五代が聞いてきた。
「ベッドの枕元のコンセントに挿してる」
「取ってくるよ」
え、と言う間もなく、五代はソファから立ち上がって、寝室の方に行ってしまった。
確かに西山さんが来る前に、ぼろが出てはいけないからと部屋の間取りの説明はした。しかし女の子の寝室に勝手に入るのはどうなのだろう。引き留めたかったけれど、ここでダメと言ったら西山さんに関係を疑われそうだ。
「お嬢様。おコーヒーを飲まれますか?」
西山さんが、エスプレッソマシンの前に立つ。普段なら、一人のときには淹れないカプチーノやカフェラテをお願いするところだ。
「ううん。今朝はもう、五代さんに淹れてもらったから」
「……さようでございますか。ところでお嬢様、五代様とはいつお知り合いに」
「えーっと……一年くらい前、かなぁ」
しまった。その辺の口裏合わせをまったくしていない。契約内容を詰めるのに気を取られすぎていた。なんて初歩的なミス。
ななはアンディの腕にまわした手に力を込めた。
「一年前ですか。まったく存じ上げませんでした」
「あー、できるだけバレないようにしてたから、かなぁ」
「なるほど。社会人の方のようにお見受けられますが、どのような接点でお知り合いに」
「えーっと……」
「映画館ですね。たまたま隣の席になったんですよ」
五代の声が割り込んだ。充電コードを手に、ソファの後ろからななへ差し出してくる。ななはぎょっとして、五代の顔を見上げた。
「お互い映画が好きなので、最初は映画仲間として仲良くなったんです」
「なるほど」
西山さんがうなずいている。
打合せもしていないのに、そんなことを言って大丈夫なのだろうか。充電コードを握る手が、なんだか汗でベタベタし始めた。
「たしかにお嬢様は、映画がお好きですからね。去年の映画というと——『エンペラー』や『スパイ』といった有名作ですか。確かお嬢様も劇場に足を運ばれておりましたね」
五代は笑った。
「いえ。それらは一昨年の映画ですね。僕たちが出会ったのは『正体』の方です」
「……失礼いたしました。お嬢様、本日のお昼は、五代様の分もお作りする形でよろしいでしょうか」
ななは曖昧にうなずいた。テレビからはミステリー映画がずっと流れているけれど、まったく内容が頭に入ってこない。
西山さんがお風呂場とトイレの掃除に向かう。五代は再びななの横に座ると、ななの手から充電コードを取り上げた。スリープモードにしていたノートパソコンを起ち上げて、それをUSBに挿すと、「スマホ貸して」とななに手を差し出してくる。
ななは半目になった。スマホを渡しながらも、抑えた声で聞く。
「なんで去年、私が『正体』観に行ったって知ってるんですか」
「寝室の本棚にパンフレットがあったから」
記憶をたどる。たしかに、映画のパンフレットをいくつか、本棚のディスプレイラックに飾ってあった。それがどの映画のものだったかは忘れたけれど。
スマホの充電が始まる。
ななは、早まったかもしれないと思った。隣にいる五代という男は、即興の嘘を息をするようについた。いつばれるかとドキドキしていたななと違って、堂々とした姿はとても余裕がある。年上だとはいえ、少し落ち着きすぎなのではないだろうか。こんな修羅場を何度もくぐってきた経験があるというならまだしも。
「ななちゃん、このままパソコン借りてもいい? 充電が終わったら電話も」
「……いいですけど、何するんですか」
許可を出すと、早速五代はゲストモードでパソコンにログインした。
「知り合いに連絡。さすがにそろそろしておかないとまずいから。あとは身分証明書の再発行とかカードの停止手続きとか」
再発行? 停止手続き? ますます怪しく見えてくる。そういえば自分の事情ばかり優先して、五代の事情をまったく聞いていなかった。
ななは反省した。事情があったとはいえ、判断を早めすぎた。
「昨日一体、何があったんですか?」
ななの質問に、五代は笑った。
「いまさら聞くんだ。言ってもいいけど、契約はなかったことにはできないよ」
「わかってます」
ななの事情も計画も、全部この男に話してしまった。いまさら「やめた」と言ったら、五代はどう動くかわからない。父と結託するかもしれない。それは嫌だった。
「簡単な話——女との別れ話がこじれて、うちを燃やされたんだよね」
は?
ななは最大に後悔した。
この男——クズだ。




