第三話 私と契約結婚しませんか
男は、五代雅通と名乗った。
ごだい、まさみち。意外にまともそうな名前だった。
ななは、玄関から直行で、五代を風呂に突っ込んだ。廊下にばっちい足跡がついた。
……明日、西山さんに掃除してもらわないと。
ななはキッチンに向かった。エスプレッソマシンにカップをセットして、スタートボタンを押す。チョコレートのような芳醇な香りが広がる。とろりとしたエスプレッソが注がれていった。カフェオレにするか迷ったけれど、ミルクを温めるのが面倒だ。
ストレートの濃いエスプレッソを持ってリビングに入ると、ローテーブルに置きっぱなしのノートパソコンの電源をつけた。ソファに座って、エスプレッソを飲む。苦い味わいが口の中に広がって、さっきまで冷えていた体が温まる。頭が少しだけはっきりとした。
父が経営している会社の内部サイトにログインし、社員検索画面で「五代」と入力してみる。検索結果ゼロ。
少なくとも、偽名でない限りは父の会社の社員ではないらしい。地元ではそれなりに大きい会社なので、五代が社員という可能性もあったけれど、それはないようだ。一安心だった。
ブラウザを開いて、同じように名前で検索をかけてみる。AIが、源雅通という歌人ではないかと聞いてきただけだった。ななは、パソコンを閉じた。スリープモードになり、リビングが急に静かになった。
壁際の大きなテレビ画面が、ソファに腰かけるななと、その横に堂々と座る大きなテディベアの姿を映していた。首元の緑のリボンが斜めになっている。ななは手を伸ばして、リボンの角度を整えた。かすかに水が流れる音がする。五代がシャワーを使っているのだろう。
「聞いて、アンディ。私、二十歳になるまでに結婚しなきゃいけないんだって」
アンディは、ななよりも一回り以上大きい。少し脇が開いた腕に寄りかかると、包み込まれているようで安心できた。
「お父さんが来年、七十歳で社長じゃなくなるから、安心したいんだって。ひどいと思わない?」
実家で大量のお見合い写真を渡されたことを思い出して、ななはぎゅっとアンディにしがみついた。父が「厳選した」と熱弁をふるった男たちは、立派な肩書や地位がある人たちばかりだった。中には見知った顔の男もいたが、大抵は一回り以上年齢が離れているおじさんだ。父の仕事繋がりの人がほとんどで、もし結婚したとしたら、今以上にななの生活が父に筒抜けになる。「きっと幸せにしてくれる」なんて、信じられなかった。
「健康に不安があるからって言ってたけど、先週もゴルフのコースを一日中回ってたし、全然元気そうだよね。ただの過保護だよ」
ななは、テレビ台のDVD再生機の横にひっそりと置かれた大きな円形のボタンを見た。ライトのスイッチのように見えるが、実際はセキュリティ用のブザーだ。押すと大きな音が出て、五分以内にセキュリティ会社の職員が駆けつけてくる。同じものが玄関や寝室、トイレにも設置されている。一人暮らしをするにあたって、防犯カメラかこのブザーのどちらかを設置するように言われて、仕方なく選んだものだった。
「大体、お父さんはいつもいつも……」
普段のようにアンディに愚痴を言いそうになったところで、扉の開く音がした。振り向くと、白いバスローブを着た男が、髪を拭きながら入ってくるところだった。バスローブは、ななにはゆったりサイズだったけれど、男には少し小さかったようだ。丈が膝より上だし、上半身も少し窮屈そうだ。着がえがないので、我慢してもらうしかない。
アンディから腕を離して、ななはエスプレッソの残りを飲んだ。
「そっちに座ってください」
ななはダイニングテーブルを指し示すと、テレビ台の防犯ブザーをノートパソコンの上に重ねる。さっきしがみついたせいで、アンディの座る角度が少し斜めになっていた。それを直してやってからノートパソコンを抱え持ち、ダイニングに移動する。
五代は、廊下へ続く扉の前に立ったままだった。リビングからダイニングキッチンへ、興味深そうに視線を巡らせている。ゴウン、と脱衣所にある洗濯機の回る音が聞こえてきた。
「シャワーありがとう。……きみ、もしかしてどこかのご令嬢?」
「普通ですよ」
ななはノートパソコンをダイニングテーブルの上に置くと、リビング側の椅子を引いた。隣の椅子の座面にブザーを置いて腰かける。
「五代さん。どうぞ、そちらにお座りください」
パソコンを開いて、もう一度目の前の席を指し示す。機械の駆動音がして、スリープモードが解除された。
「……もしかして、面接が始まる? それとも尋問だったりする?」
「なんでもするって言いましたよね?」
「……たしかに」
五代は肩をすくめると、頭からタオルを取り払って、正面の席に座った。
ん?
ななは、綺麗になった目の前の男の顔を見て、少しだけ目を見張った。
日本人にしては少し彫りの深めな顔立ちだった。男性的なシャープな印象を保ったパーツが、柔らかい輪郭の中に絶妙に配置されている。濡れた髪の毛の先に、水滴がついている。まさか、あの泥の下からこんな整った顔が現れるなんて思ってもみなかった。
何となく、先月見た映画に登場した俳優を思い出した。イケメンというよりも、ハンサム。もっともその役柄はサイコパスの連続殺人犯だったんだけれど。
「それで、何が聞きたい?」
五代は背もたれに背を預けると、スンと鼻を鳴らし、キッチンの作業台へ目を向けた。エスプレッソマシンを見つけて、なるほど、とでもいうように眉を上げる。
「まず年齢。職業。学歴。趣味。家族構成。貯金額。恋人と借金の有無」
「……えっと、ごめん、なんだって?」
「年齢職業学歴趣味家族構成貯金額恋人と借金の有無」
「……えーっと」
五代はななから視線を逸らすと、指を立てて、エスプレッソマシンに向けた。
「とりあえず、僕も一杯もらっていい?」
ななは、無言でうなずいた。パソコンで立ち上げた表計算ソフトには、先ほど読み上げた評価項目が並んでいる。その一番下にある「判定欄」へ、ななは「C」と入力した。
「きみもいる?」
食器棚からカップを取り出しながら、五代が顔を向けてきた。
ななは少し考える。二杯目はさすがに眠れなくなるかもしれない。けれど、先ほどの一杯目がミルクなしだったことで、口の中に苦みが残っている。それが少し不快だった。
「……カプチーノでお願いします」
「ミルクは冷蔵庫だよね。開けていい?」
「どうぞ」
五代は「どうも」と言って、冷蔵庫を開けた。
ふんわりとした泡を立てたカプチーノを作るのは、ちょっと手順が必要だ。いつもそれが面倒くさくて、ななはカプチーノを自分で淹れることはない。彼は淹れる手順や手間を知っているのか、知らずに返答したのか。ななはじっと彼の手元を観察した。
「はい、どうぞ」
やがて差し出されたカプチーノは、葉っぱのラテアートが描かれた、専門店で出てくるものと遜色ない一杯だった。
ななは、思わずスマホで写真を撮ろうと手をさまよわせた。すぐに実家に忘れてきたことを思い出して、肩を落とす。無言で判定欄の「C」を「B」に上書きした。
「ありがとうございます。もしかしてご職業はバリスタだったりしますか」
「いいや? 公務員みたいなものかな」
ななは、エスプレッソを飲む五代を見た。彼はブラックのようだった。ミルクをスチームしたりラテアートを描いたり、ななのためだけに手間をかけられるということか。それでいて公務員。
カプチーノを一口飲むと、泡がしゅわっと舌の上で溶けて、まろやかな味がするりと入ってきた。家政婦の西山さんよりも淹れるのが上手い。
判定を「A」に上書きした。
「五代さん。年齢は?」
「三十三。誕生日は十月十日」
誕生日までは聞いていない。……三十三?
「……三十代?」
「見えないってよく言われるよ」
確かに、五代はとても三十代のおじさんには見えない。せいぜい二十代半ばから後半だと思っていた。今日見たお見合い写真に写っていた三十代の男たちと比べると、その差は明らかだ。
「僕も聞いていいかな。さっき挙げたのって、なんだかまるで、お見合いで結婚相手にする質問みたいだったけど、目的はなんだろう」
ななは答えずに、カタカタとキーボードを打った。今聞いた答えを、評価シートに埋めていく。備考欄に「カプチーノ:味◎ ラテアート◎」と書いておくのも忘れない。
ななの目的に対して、五代はある程度の条件を満たしていると言えた。ならば最後の確認をして、手っ取り早く合意を得た方がいいかもしれない。
「ねえ、きみ。聞いてる?」
「はい。五代さん、借金はありますか」
「ない」
「恋人は」
「特定の恋人はいない」
「なるほど」
「で、この質問の目的は?」
カタカタとキーボードを鳴らして、ななは評価シートを埋めた。まだ聞いていない項目があったが、まあいいだろう。嘘をついていたらその時はその時だ。ななは割り切った。
判定を「A⁺」にして、ななはパソコンを閉じた。
「五代さん。なんでもするって、言いましたよね」
ななは、にっこり笑った。五代もふっと笑った。
「無理難題じゃなければね」
よろしい。ななは、評価A⁺にした自分の勘を信じることにした。失敗したときはその時だ。
「五代さん」
ななは笑みを消して、まっすぐ五代を見た。
「——私と契約結婚しませんか?」




