第二話 とても寒い日の夜
とても寒い日の夜だった。
「それではお嬢様。明日午前中に、西山を伺わせますので」
梶井がそう言ったけれど、いつもの事務連絡だろうとあんまり聞いていなかった。
自宅マンションのエントランスで、ななは必死に鞄の中を漁っていた。
ない。ない。……スマホが、ない!
——忘れてきた。
ななは眉を寄せた。後ろを振り返ると、梶井が車に乗り込むところだった。今引き止めれば、忘れ物を取りに戻ってくれるだろう。
車が発進していく。ななは結局、声をかけなかった。
「まあいいか」
どうせ明日、家政婦の西山さんが来る。ななが実家にスマホを忘れたことはすぐわかるだろうから、届けてくれるはずだ。
腕時計を見ると、午後十一時近かった。ずいぶん長いこと父と話していたらしい。まったく生産性のない話だった。
はあ、と息を吐くと、途端に白く凍った。今にも雪が降ってきそうなくらいに冷え込んでいる。さっき梶井が車の中で、明日の早朝は積雪する可能性があると言っていた。
帰ってお風呂に入ろう。この間、友人が薔薇の入浴剤を誕生日プレゼントにくれたから、それを使うのもいいだろう。十分温まってから、アンディに今日あったことを話すのだ。
エントランスのドアをくぐろうとしたときだった。ふと、目の端に何か異様なものが映った気がした。明らかにいつもと違う何か。
そのまま数歩後退して、それを確かめる。
「……ん?」
ななは目をキュッと細めた。
なんだあれは。
エントランスの脇道は、ゴミ捨て場につながっていた。ななのマンションは各階にダストシュートがあって、そこに放り込めば済むタイプだ。脇のゴミ捨て場は、隣接する賃貸棟の住人用だった。
そのゴミ捨て場に、何やら人の形をしたものが置き去りにされているのが見えた。
ま、まさか……。
ななはごくりと唾を飲んだ。
ミステリー映画や刑事ドラマの世界でよく見るような、凄惨な現場が……!?
一瞬緊張が走ったけれど、その人影はわずかに動いていた。
なんだ違うのか。
ななは鞄から防犯ブザーを取り出して、その正体を確かめるべく、そっと近づいた。
それは男だった。ゴミ袋の中に上半身が半分埋もれるような格好で座っている。いや、座っているというよりも、寄り掛かっているといった方が正しいかもしれない。なぜか服はボロボロだった。まるで泥の中を泳いできたみたいだ。
「……もしもし、生きてますかー?」
ななは男に話しかけてみた。
一応、意識はあるらしい。うめく声が聞こえた。
顔を覗き込んでみたけれど、こちらも泥人間のような有様だ。泥というか、これは煤……? なんだか焦げ臭い匂いまでする。
どうしようか、とななは悩んだ。
スマホがないので、警察も救急車も呼べない。かといって放置したら、低体温症で死んでしまいそうだ。さすがにそれは寝覚めが悪い。パトカーと救急車のサイレンで目が覚める朝はいくらなんでも嫌だった。
誰か助けを呼んでこようか。
これが女の子なら手を貸すのはやぶさかではないけれど、薄汚い大人の男に手を伸ばす気にはなれなかった。まあまあデカい人なので、仮になんとかしようとしたところで手に余る。
「……きみ……」
踵を返そうとしたところで、男がかすれた声を出した。
声をかけられてしまったのなら仕方がない。ななは、人命救助だと割り切って、彼の前にしゃがみ込んだ。
「大丈夫ですか。立てます? 誰か人を呼びましょうか」
男は額を押さえながら、ゆっくりと呼吸している。助けを呼んだ方がいいかもしれない。
「……大丈夫だ。呼吸は正常、意識レベルは……一……いや、二くらいか」
「えーと。……自分で帰れます?」
マンションの間を通る風で、ここはとても寒い。早く帰って薔薇風呂に入りたかったけれど、一応常識人としての対応を繰り返す。
ななの言葉を聞いて、男が反応した。
「……帰る……ああ、思い出した。最悪だな」
彼はゴミに埋もれていた体を起こすと、辺りをぐるりと見回してから、ななをじっと見た。
「すまないが、きみ、僕を助けると思って、一晩泊めてくれないか?」
ななは首を傾げた。
「え、いやです」
男は黙り込んだ。
もしかして泊まれると思ったのだろうか。百歩譲って同性同士ならまだしも、異性にそれを頼むのはいくらなんでも非常識すぎるだろう。
よし、さっさと帰って薔薇風呂に入ろう。ななは立ち上がった。
「なんか大丈夫そうですし、私、帰りますね」
「待って」
慌てた様子で男が立ち上がる。だが、すぐに動きを止めて額を押さえた。立ちくらみを起こしたらしい。
「……今、無一文で……」
絞り出すように彼は言った。
「……体中痛くて、あんまり動けなくて、帰る家もないんだ。明日になったらどうにか知り合いに連絡してみるから、今夜一晩だけ泊めてもらえないだろうか」
「警察に行けば、相談に乗ってくれると思いますよ。呼びましょうか?」
ななは防犯ブザーを手の中で転がした。
「……警察は、ちょっとまずいなあ。何を言われるか……」
男は乾いた笑いを浮かべる。
怪しい。明らかに不審者だ。そもそも、ゴミ捨て場にゴミみたいに捨てられているところからしておかしい。
ななは防犯ブザーを握りしめて、じりじりと下がった。
「待って。僕は本当に怪しいものじゃない。何もしないし、なんでもするし、お礼なら後でいくらでもする!」
犯罪者は皆そう言うものだ。ななはそれを知っていた。映画の中でだけれど。
「……せめて電話を貸してください」
男は弱々しくそう言った。顔はひどく汚れていてあまりわからなかったけれど、唇は紫色に近かった。どのくらいここにいたのかは知らないが、この寒さだ。このまま放置したら死ぬかもしれない。
「……まあ、そのくらいなら」
ななはうなずいた。スマホを取り出そうと鞄に手をやって——思い出した。
——そうだった。スマホないんだった。
初歩的なミス。今、貸すことに同意をしてしまったばかりなのに。
唇をぐっと噛み締める。ななの頭の中で、天秤が左右にぐらぐらと揺れるのが見えた。
この男を、助けるか助けないか。秤は何度も左右に揺れて定まらない。
助ける選択をして家に上げた場合、もれなく明朝にやってくる西山さんと鉢合わせてしまう。父に連絡がいって、ますます今日の話がこじれるだろう——。
ななは、はた、と思い当たった。
そういえば今さっき、この男は「なんでもする」と言った。
ななは、この汚い男を再度、上から下まで観察してみた。
映画のシャーロック・ホームズばりに——とはいかなかったけれど、男はなかなかに仕立てのよいスーツを着ているのがわかった。カフスボタンが既製品のものではないし、何より上着の内側にベストを着ている。オーダーメイドの三つ揃いのスーツを着る男は、なかなかに限られる。会社勤めなら役職持ち、あるいは士業だろうか。
そのまま腕時計に目を走らせた。汚れていたけれど、一目でスイスの最高級ブランドだとわかった。資産家、あるいは安定した年収がある。左手の薬指に、指輪なし。独身。
天秤が大きく傾く。
「……さっきなんでもするって言ってましたけど、本当になんでもするんですか?」
最後の確認をする。
男は震えながらうなずいた。
「常識の範囲内で、僕にできることなら」
「常識の範囲内?」
「……範囲外でも同意できるなら」
よし。天秤の皿はガコンと下まで落ちきった。
ななは鞄を持ち直して、マンションのエントランスを指し示した。
「自力でうちまで歩いてこられるなら、泊まってっていいですよ」
「……手を貸してくれると嬉しいな」
ななはにっこりと笑った。
「ばっちいから、いやです」




