第一話 五代雅通はクズ
五代雅通はクズである。
玄関のモザイクタイルに脱ぎ捨てられたハイヒールを見て、ななは目を細めた。
揃えられた男物の革靴の横で、ハイヒールの片方がコロンと転がっていた。
またか。またなのか。
ななは玄関を閉めて、鍵を小物入れに入れた。靴を脱いでそれを揃え、少しだけ考えてから、転がったハイヒールも綺麗に揃えてやる。オートロックの鍵が閉まる音が響いた。
廊下の先、リビングにつながる透けガラスつきの扉からは、白い明かりが差し込んでいた。人の気配がする。
どうか服は着ていてくれますように。
ななはそう祈りながら、勢いよくドアを開いた。
「——あ。おかえり、ななちゃん」
十二畳のリビングだった。モスグリーンの重そうなカーテン。グレーのソファはL字で、寝そべることもできるタイプだ。壁一面を占拠する巨大なテレビの正面に設置されている。映画を観るのが日課のななのために、父が買ってくれたものだった。
そのソファに、男が座っていた。
黒髪に伶俐な切長の瞳。通った鼻筋は高く、薄い唇は淡く微笑んでいて優しげだ。それぞれのパーツが、極めて繊細なバランスで配置されている。とても美しい男だった。
顔だけはいいのだ……顔だけは。
その顔だけいい男は半裸で、女を膝の上に乗せていた。
「ただいま帰りました。……ところで五代さん、何をしているんですか?」
「何って」
五代は笑って、肩をすくめた。
「……昔一度だけ寝た女に、押し倒されそうになっているところ?」
ななはため息をついた。
とりあえず服を着ていてよかった。全裸だったら目のやり場に困るところだから。
「夕ご飯、買ってきました」
持っていたビニール袋を掲げる。駅前にあるお弁当屋のロゴが入っている。個人経営で、値段は手頃で味は美味しい良心的な店だ。お気に入りだった。
「またそこのお弁当? そろそろ普通の家庭料理が食べたい」
「今日の夕食当番は私です。出されたものに文句言うのは失礼ですよ」
「まあそうだけど、さすがにずっと店屋物は飽きない?」
五代は首を緩く振って、上に乗る女を押し退けて立ち上がった。床に落ちていた白いシャツを拾い上げて、ボタンを留める。
ななは、リビングと続きのダイニングキッチンに入って、テーブルにビニール袋を置いた。
「きみ、もう帰っていいよ」
背後で五代の冷たい声が聞こえる。ななは冷蔵庫を開けてお茶を取り出した。
「わかるでしょ? これから晩餐なんだ。……まあ、お弁当なんだけど」
お弁当の何がいけないのだ。ここの幕の内弁当は絶品なのに。
ななはグラスに冷たいお茶を注ぐと、テーブルに持っていく。
「そ、そんな……嘘よ!」
これまで固まっていた女が叫んだ。
綺麗な人だった。緩く毛先をカールさせた髪は艶々していて、ふんわりと肩に流れている。ワンピースはハイブランドのもの。思わず守りたくなってしまうような、儚げで透明感の高いメイク。はっきりした年齢はわからないけれど、二十代後半から三十代くらいだろうか。
この間の人とは違うタイプだ。まったく節操がない。
「嘘って言われてるみたいですよ、五代さん。何を言ったんですか」
ダイニングテーブルにやってきた五代を、ななはジト目で見やった。
「事実を言っただけだよ」
す、と彼の左手が上がる。左手の薬指に、きらりと光る結婚指輪。
「結婚したって」
なるほど。ななは息をついた。またこのパターンか。
「五代先生、嘘でしょ? 誰とも結婚しないって言ってたじゃない! なのに——」
わなわなと震える女が、ギッとななを睨みつける。
「なのに、そんな女と結婚するなんて……!」
ななは、テーブルの上にあるビニール袋に目をやった。まだ温かいけれど、帰宅までに十分程度かかっているし、これから押し問答が繰り広げられるとさらに時間がかかる。冷えたお弁当ほど不味いものはない。特にこのお店の幕の内弁当は、ちょうどいい焼き加減の鮭が肝なのだ。レンジで温め直したら、あの鮭の本来の美味しさが失われてしまう——。
ななは息を吸った。それからニコッと微笑む。五代の側に寄り添って、さりげなく彼女の目に入るように、左手を五代の腕に絡めた。——結婚指輪をした左手を。
「初めまして、五代の妻です。二十歳です。すみません、うちの夫が、誤解を招くことをしでかしてしまったみたいで。お詫びします。あ、よかったら夕飯召し上がっていかれます?」
隣で五代が呆れたように見てきたけれど、無視をした。まったく、誰のせいで、こんなことをしなければいけないと思っているんだろう。
女は顔を真っ赤にした。
「……っ、そういうこと。結構よ! 最低、このロリコンッ!」
床に散らばっていたカーディガンとバッグを掴むと、女はドタドタと足音を立てて出ていった。
ガチャン、と玄関が閉まる音がした。
「ロリコンだって、五代さん」
ななは五代の腕を離すと、早速お弁当屋の幕の内弁当をビニール袋から出した。
「確かに十四も離れてるけど、別にロリコンじゃないでしょ。きみ成人してるし。それより言い方。二十歳ですって、完全に狙って言ったね?」
「手っ取り早いと思って。前の人は揉めて面倒くさかったので」
椅子に座ると、ななは幕の内弁当の蓋を開けた。よかった、まだホカホカだ。割り箸を割ると、お気に入りの鮭からいただくことにする。いただきます。
前を見ると、五代はまだ弁当の蓋も開けていなかった。
「食べないんですか」
「これ、一昨日も、四日前も食べたんだよね」
「美味しいですよね、ここの幕の内弁当」
「……そうだね。でも次からは僕の分だけ、違うやつにしてくれないか。幕の内以外なら何でもいいから」
どうやら幕の内はお気に召さなかったようだ。こんなに美味しいのに。
「それで、なんでまたあの女の人がうちに上がる羽目になったんですか」
途中でお茶を飲んで一息ついたとき、ようやく五代が幕の内弁当の蓋を開けた。彼は割り箸を割ると、悪びれもせずに答えた。
「街でたまたま会って、お誘いを受けたんだよ。結婚したんだって指輪見せても信じてもらえなくてね。それで逃げてきたんだけど、尾行されて押し入られて、押し倒されてた」
「へえー、街で、たまたま」
「信じてないね」
「さっきの女の人の胸元にキスマークが見えたんですけど、あれ誰の仕業ですかね」
「それは僕だなあ」
「浮気者」
「求められたから応えただけ。脅されて仕方なく」
棒読みである。本当にこの男は。
五代が笑った。ななも笑った。
「五代さんって本当にクズですね。一応新婚なんですから、そういうのはやめてください。近所の人に見られたらどうするんですか。ここは私の家なんですよ」
「ああ、それなんだけど、今度ウェディングフォトを撮りに行かない? 結婚したって証拠があれば、相手も納得しやすいし、こっちの面倒も減る」
「えー、いやです。五代さんの日頃の行いが悪いから信じてもらえないんですよ」
休みの日は、観なければいけない映画が山のようにあるのだ。余計なことをしている暇なんてない。
「……ななちゃんって変わってるよね。女の子はみんな、ウェディングドレスを着たい生き物だと思ってたよ」
「固定観念です。おじさんくさいですよ、五代さん」
五代は黙った。
「ごちそうさまでした」
空の容器をゴミ箱に放り込む。
「お風呂、先にいただきますね」
キッチンでお風呂の給湯器の操作をする。軽快なメロディが流れて、湯船を張る音声がした。
五代も食べ終わったのか、シンクでお弁当の容器を洗い始めた。ななが先ほど捨てたものをゴミ箱から戻して、それも綺麗に洗ってから、プラスチック専用のゴミ箱に捨てる。そういえば、結婚した当初、五代に何度も叱られたことを思い出す。最近は今みたいに、彼が勝手に処理している。結婚には妥協も必要だと知ったのだろう。
そう、結婚。
ななは寝室に入ると、衣装ケースからパジャマと替えの下着を取り出す。
仕方がなかったとはいえ、ななは五代雅通と結婚してしまった。
はあ、とため息をつく。
左手の薬指に輝く指輪を見て、あの凍えるような冬の日を思い出した。
——五代雅通を拾ってしまった日を。




