第三十六話 婚前契約書
ふざけているのか。
クリアファイルを持つ手に力がこもる。ファイルに入っていなかったら、紙がぐしゃぐしゃになっていただろう。
五代はもう一枚クリアファイルを鞄から取り出した。同じように白い紙が挟まっている。
「最初に言っておくけど、別にふざけてないから」
そう言いながら、二枚目のクリアファイルを渡してくる。
納得いかなかったが、彼のわずかも緩まない唇や、怖いくらいまっすぐな目の勢いに押されてしまった。新たに受け取ったものに視線を落とす。
今度こそ意味不明だった。
「なんですかこれ」
「契約書だよ。ななちゃん大好きでしょ」
なぜそうなるのか。
反論しようと背筋を伸ばす。顎を引いて前を見据えたところで、五代の冷たい視線とかち合った。
そこで初めて、五代が怒っていることに気がついた。
「文句は後で聞くから。まずはそれ、読んで」
おかしい。先ほどから支離滅裂なことをしているのは、明らかに五代の方だ。しかし、彼の態度は一貫して堂々としている。まるで、間違っているのはななだとでもいうふうに。
ぐっと唇を噛み締めると、ななは仕方なく二枚目の紙を見下ろした。クリアファイルから取り出すと、それは数枚の紙を左側で綴じた形——薄い冊子になっている。
『婚前契約書』
表紙にはそう印字されていた。
すごく嫌な予感がする。読んだら終わりな気がしたが、目の前で五代がじっと睨んでいる。なぜか臨戦態勢だ。きっとななが読むまで、解除されないだろう。
突然の展開に頭の中がぐるぐるする。ただ、読まないという選択肢はなさそうだというのがわかった。記載済みの離婚届は五代の手元にある。なながこれを無視したら、提出しないつもりだろう。じっとりと手のひらがべたついた。手汗だ。
そろりと五代の顔を確認すると、彼は頬杖をついて、ななが読むのを待っていた。
読めばいいんだろう、読めば。
開き直って、ななは表紙を開いた。
それは本格的な契約書だった。ななも五代と結婚するとき、適当にネットで拾い上げてそれらしく作ったものがあったが、それよりもっときちんとした文書だ。甲や乙といった呼称の定義や、条文がずらっと並んでいる。
昨年、民法についての基礎講義を履修したので、最低限の意味はわかる。ななは条項を順番に読んでいった。
「契約期間が……無期限?」
第一条から不穏な一文が入っていた。卒業したら離婚という、当初の契約とは大きく異なる。
「意味がわかりません。どうして無期限なんですか」
五代は答えなかった。ただ視線で、契約書を示す。続きを読め。そういう圧を感じる。胸がざわざわした。
第二条は『法律婚における夫婦の義務、および一般的効果に準ずる』と書かれている。どういう意図で書かれているのか、まったく想像できなかった。そもそも一般的効果とは? 質問したくてたまらなかったが、五代は答えてくれないだろう。
そう判断して、ななは契約書を最後まで読んだ。
読み進めるたびに紙を持つ指先に力がこもったが、対面の五代はどこ吹く風といったふうに平然としていた。
最後に署名欄が作られていた。すでに五代の名前と押印がある。
テーブルの上に契約書を置いたと同時に、五代が立った。
「五代さん」
「待って。先にコーヒーを淹れよう」
やっと話ができると思っていたのに、彼はキッチンへ入っていく。エスプレッソマシンの電源ボタンが押される。
食器棚から取り出される、ななと五代それぞれのマグカップ。芳醇な豆の香り。新鮮なミルクと、それをスチームする音。ラテアートをするときの真剣な横顔まで、キッチンでいつも繰り返される光景だ。
やがて運ばれてきたカプチーノには、バラの花が描かれていた。
「……」
眉間に皺が寄った。なんだか五代の掌の上で、いいように転がされている気がした。
彼はコーヒーを一口飲むと、テーブルに転がっているボールペンを取った。ペン先を出してからくるっと回転させて、こちらに差し出してくる。
「納得できたら署名して」
「できるわけないでしょう!」
机を叩く。カプチーノがマグカップからこぼれ、テーブルを汚した。さっき一口飲んでいたためか、五代のコーヒーはぎりぎりこぼれていない。
「なんなんですか。いったい何がしたいんですか!?」
「結婚」
「け……」
短くそっけない返答。揺らがない瞳に一瞬呑まれそうになったが、負けるものかと睨み返した。
「さっき離婚届を書いたじゃないですか」
「うん。だから一度離婚しよう」
「はあ?」
「僕たちの間で結んでいた契約結婚はそれで終わり。その後でもう一度結婚しよう。条件はそれ」
「無理です!」
「どうして?」
どうして、だって?
ななは婚前契約書なるものを再度開いて叫んだ。
「生活費や家事、育児の分担について書いてあるじゃないですか!」
「第三条ね。生活費は折半。家事におけるきみの負担は今とほとんど変わらないけど、何が不満?」
「それだともっと不公平になります。だから今、離婚しようって言ってるんですよ!?」
「今の契約には負担の割合が書いていないから不公平と思ったわけだよね。明文化したら問題ない」
「家事だけじゃないです、育児って何ですか」
「第三条の第三項。『甲と乙は子どもをもうけるか否か、もうける場合は時期について協議し、決定する』。もうけないなら、育児は発生しないよ」
「そういうことを言っているわけじゃありません」
「第四条『甲と乙はそれぞれの親族に対して敬意を持って関係を築くよう努める。ただし他方の意思を尊重し、無理に積極的な関わりを求めたりしない』。親の介護についても付随事項で定めているし、その次の第五条財産分与についても——」
「だから、そういうことじゃなくて!」
ななはもう一度、テーブルを叩いた。さっきこぼれて減ったせいだろうか。今度はカプチーノはこぼれなかった。
「いったい何の目的があるんですか。こんなのまるで普通の……」
まるで普通の婚前契約書ではないか。
「そうだよ」
五代は、契約書の最後のページにある署名欄の上にペンを置いた。
「別に特別なことを条件にしてるわけじゃない。世間一般の普通の結婚をしようと言ってる」
彼は唇を一度舐めてから、署名の上にある最後の条文を指し示した。
「まあ、『追加や変更がある場合はその都度話し合う』って書いてあるから、何か必要な条件があるのなら今から盛り込むことは可能だよ。きみが納得する条件で契約しよう」
ななは、眉間を指で押さえた。
話が通じない。こちらはそういうことを言っているわけじゃないのだ。
急に五代がよくわからない生き物になってしまった。なんだかんだ、彼は社会的で常識人だったはずなのに。
「意味がわかりません……何のメリットが……」
「今まで通り美味しいご飯が食べられて、家は綺麗で、アンディも定期的にふかふかサラサラになる。十分なメリットだと思うけど」
「それは私のメリットです。五代さんのメリットが皆無です」
「あるでしょ」
五代が表情を崩した。ふっと苦笑するように笑う。
「きみを妻にしておける」
「——」
言葉にならなかった。
それこそ、何を馬鹿なことを、と叫び出したかった。
しかし、笑みを浮かべながらも、五代の顔は真剣だった。そのひたむきさに、声が喉の奥に張り付いて、空気だけが唇の間から出ていった。
数度、瞬いた。
言いたいことを勝手に述べた男は、コーヒーをゆっくり飲んでいる。その後で、こぼれたカプチーノが気になったのだろう。キッチンカウンターから布巾を取り寄せ、ななのマグカップを持ち上げて掃除をした。綺麗になったテーブルに、カプチーノを戻す。
バラのラテアートは徐々にその輪郭がぼやけ始めていた。泡同士がくっついて、ぽつぽつとした穴が姿を見せている。あと少し放置しておけば形が崩れて、バラだとはわからなくなってしまうだろう。
布巾を持つ彼の左手。薬指には、結婚指輪がはまっている。契約結婚をした際、式も挙げず指輪もしないのではさすがに怪しまれてしまうのでは、と彼が言ったため、その辺のジュエリーショップで適当に買った物だ。
二人の間にある新たな契約書には、結婚指輪の新調についての記述もあった。
夫の署名欄に直筆で書かれた「五代雅通」の名前を見ていると、崖っぷちに立たされているような気持ちになった。
まさかそんなはずがない、と思いながら口を開いた。
「五代さんって、私のことが好きなんですか?」




