第三十五話 もう一枚
落ち着いたところで話をしよう、という五代の言葉にうなずいて、タクシーを拾って自宅へ帰った。車内では無言だった。
先に夕飯にしたいと言うので、持ち帰ったお弁当を温め直す。五代がお湯を沸かして、湯呑に熱いお茶を淹れた。
いつも通り、幕の内弁当の鮭を割って食べた。できたてよりも、ちょっとパサパサしている。
「それで、本当に離婚するの?」
ななは唇の端を下げた。
「離婚しようって言い出したのは五代さんからじゃないですか」
「まあそうなんだけど。……どうして急に心変わりしたのか聞いていい?」
「五代さんの希望通り離婚するんですよ。理由なんて、どうだってよくないですか?」
ななは卵焼きを口に入れた。こちらは少し硬い。
「よくない。僕は契約条件の変更か、離婚のどちらかって言ったんだから。そっちを選んだ理由が知りたい」
幕の内弁当から向こうの親子丼に目を移すと、ほとんど口がつけられていない。せっかく温め直したのに、また冷めてしまいそうだ。
「なんで理由にこだわるのかわかりません。そもそも五代さんだって、突然『家族になるか、離婚するか』って言い出した理由を教えてくれてません」
「だって聞かれなかったから」
なんだそれは。煮物の椎茸を半分かじった状態で、ななは動きを止めた。
つまり、聞いたら理由を教えてくれるということだろうか。
でも理由を聞いたら、こちらも理由を答えなければならなくなる。
「……」
ごくりと唾を飲みこむ。口の中の椎茸ごと。
ぐっと喉が詰まる感覚に、ななは慌ててお茶に手を伸ばした。湯呑をつかんで、ぐびっとお茶を喉に流し込む。
「あっつ!」
「なな!」
熱々のお茶ということを忘れていた。反射で体が動いて、つかんだ湯呑がひっくり返る。残りのお茶が腕にかかる。
大惨事になった。
口の中と腕がビリビリとしびれた。箸と湯呑が転がる。思わず腕を押さえる。火傷した——そう認識した瞬間、身体が浮き上がった。
椅子を蹴飛ばすようにやってきた五代に半ば抱き上げられて、キッチンに連れていかれた。全開の水道に、服ごと腕を突っ込まれる。肌に当たった水の冷たさに腕を引っ込めそうになったが、許されなかった。五代の手がななの腕を押さえつけて、腕全体が冷水に当たるようにぐっと伸ばされる。
「痛い。五代さん、痛いってば」
「我慢して。火傷の方がまずいから」
シンクの奥へと腕を引っ張られているせいで、つま先立ちである。顔や胸元までびしょびしょに濡れた。何度か「もういい」と訴えたが、離してくれなかった。
腕の感覚がなくなりそうになった頃に、ようやく解放された。キッチンの作業台や床、ダイニングテーブルなど、広い範囲が濡れている。もちろんななと五代の服も、絞れるくらいに水を吸っていた。
「疲れた。冷たい。寒い。最悪です」
手当をされてから服を着替えた。すぐにでも入浴したかったが、悪化する可能性があるからと止められた。文句を言うと、床の掃除をしていた五代が不満そうな顔をした。
「あのねえ、火傷って怖いんだよ。ひどいときは命に関わるんだから」
「わかった上で言ってます」
お弁当はまた冷めてしまっていた。まだ半分も食べていなかったのに。親子丼に限ってはほとんど手がつけられていない。ため息が出た。
五代は転がった湯呑を片付け、もう一度湯を沸かし、お茶を淹れた。先ほどよりもだいぶぬるめだった。ななは、すするようにお茶を飲んで、身体を温める。
五代はキッチンの掃除に戻っている。ななは、ぼんやりその様子を眺めた。それから、手元の湯呑を見る。新しく淹れられたお茶。ななのための、一人分。
もう無理だな、と思った。
居心地が良すぎる。
「五代さん。やっぱり離婚しましょう」
彼が顔を上げた。その口が開きかけたのを見て、先に告げた。
「今の契約は不平等です。五代さんの奉仕に対して、私は十分返せていません。五代さんのメリットがありません」
五代雅通は「嘘の夫」として優秀すぎる。女性問題というリスクはあるものの、それ以外は文句のつけようがない。だからこそ、もはや「便利」「まめ」などという言葉の枠内に収めることが難しくなってしまった。
母の問題にも巻き込んでしまっている。これ以上は、契約範囲を超過してしまう。
「——なるほど」
五代は静かにそう言うと、キッチンシンクで布巾を洗った。そのまま掃除をやり切ってから、ダイニングテーブルへ戻ってくる。
彼は、幕の内弁当と親子丼を脇に寄せる。キッチンカウンターの棚から茶封筒を取り出すと、その中から三つ折りの紙を取り出してテーブルに広げた。
「なら、そうしよう」
半年くらい前に見せられた離婚届だ。すでに五代の名前は記入されている。
ボールペンを手渡されて、ななは拍子抜けした。てっきり、さっきの反応ではもう少し何かあると思っていた。でも、もともと五代は契約の条件変更か、離婚の二択を迫っていたのだ。当然かもしれない。
五代の目の前で、離婚届の妻の欄を埋めていく。記入しながら、今後のことを考えた。
父はまた結婚するように促してくるかもしれない。新しい夫を用意すべきだろうか。
久世の兄妹にはなんて説明しようか。大変気まずい。
とりあえず西山さんには再度、週一の仕事をお願いすべきかもしれない。
五代と結婚する前の生活を思い出す。掃除と洗濯は西山さん。毎日のご飯は、ケータリングかお弁当、あるいは外食。アンディの洗濯は三~四カ月に一度、専門の業者。全部、あの頃に戻さなければ。
少しだけ、書く速度が遅くなった。
「ああ、そうだ。ななちゃん、これ」
途中で、五代が白い紙を指し出してきた。アルファベットと数字が並んでいる。
「なんですか?」
読むと、地名だというのがわかった。アメリカ合衆国、ニューヨーク州。
「お兄さんの住所と電話番号」
「え?」
「咲さんから聞きだした」
目を見張った。離婚届から顔を上げて、五代を見る。
「お兄さんのこと、本当は結構気にしてたでしょ。咲さんが言うには、お兄さんの方もななちゃんのことを気にしてるってことだったから。会いに行けば、歓迎してくれると思うよ」
「なんで……」
もしかして母に会っていたのは、それを聞きだすためだったのだろうか。そんなこと、頼んでもいないのに。
「たまたま今日咲さんに会う予定ができたから、ついでに聞いただけ。どうするかは、ななちゃんが決めたらいいよ」
ななは、紙に書かれた英語の住所に目を落とした。両親が離婚した後しばらくして、突然いなくなった兄。ななにすら、何も告げずに出て行った。
「もしかしてお母さんに、私たち『家族』について聞いたんですか?」
母が発した言葉がよみがえる。「愛している」。何を言っているのかと疑問だったが、そういうことなら、理解はできないが納得できる。
五代は目を伏せてうなずいた。
「勝手に聞いてごめん」
「別に怒ってません。どうせお母さんが勝手に話したんでしょう?」
母のやりそうなことだ。
「ななちゃんは、咲さんのことをどう思ってるの?」
住所が書かれた紙を丁寧に折りたたむと、ポケットに入れた。ボールペンを手に取って、ゆっくりと続きを書き始める。
「どうも思ってません。ただ私と血が繋がってる人、それだけです」
「……お父さんのことは?」
わずかに五代の声が低くなった気がした。
よくわからなかった。それを聞いて何が知りたいのだろうか。
一文字ずつ丁寧に書くボールペンの先に、彼の視線を感じる。
「お父さんはお父さんですよ。血は繋がってない、私を育ててくれた人」
両親が離婚したときも、その後で兄が出て行ったときも、ななは幼かった。真実を知ったのはしばらく経ってからだ。まるで世間話のように、母から教えられた。
それでも、父が愛してくれていることはわかっていた。血が繋がっていないのに、実の娘として育ててくれた人だ。だからこそ、もう守ってくれなくても大丈夫だと彼に証明したかった。
ふと疑問に思って顔を上げる。
「もしかして血の繋がってる方の『父』の話をしてます?」
五代は戸惑った様子で首を振った。
「いや……」
「よかった。聞かれても、本当の父のことは知らないので。聞きたくもないですし」
氏名と住所欄を埋めて、父母の氏名欄と続柄の記入に移った。
全部埋めてから、全体を見渡して間違った箇所がないかどうか確認した。うん、完璧だ。
五代に渡して、確認してもらう。
「それ、いつ出しに行きます?」
「うん。もう一枚書いてほしい書類があるんだけど、いいかな」
「もう一枚?」
ななは首をかしげた。離婚に必要な届けは離婚届一枚だと思っていたが、もしかして他にもあったのだろうか。
五代が自身の鞄を引き寄せて、紙が入ったクリアファイルを出した。ファイルごと手渡される。
そこに書かれている文字を読んで、目を疑った。
婚姻届。
「……は?」
思わず変な声が出た。




