第三十四話 状況が変わった
四人用のテーブルだ。
前菜の盛り合わせとお酒が入ったグラスが二脚あった。たしかにこれだけを見れば「知り合いと飲んでくる」というのは嘘ではない。嘘ではないが……。
「五代さん。連絡が遅いです」
ななは、提げていたお弁当の入ったビニール袋を見せた。
「夕飯を買った後に、いらないって言われても困ります」
五代は呆気にとられた様子だった。
「えーっと……ごめん」
ちょうど、店員がななの分の水を運んできた。
「ななちゃん。とりあえず座る?」
彼は隣の席を引いた。仕方がない。一応入ってしまったのだから、何も食べずに出て行くわけにはいくまい。水も運ばれてしまった。
なながコートを脱いで腰を下ろすと同時に、母がころころと笑った。
「久しぶりね、なな。相変わらず面白い子ねえ」
身バレ対策だろう。母は伊達メガネをかけていた。化粧もいつもの華やかなものとは違い、地味目のナチュラルメイクだ。とはいえ、元々のオーラは隠すことができない。五代も美しい男なので、自然と周囲の興味を引きつけてしまう。鞠子がそうだったように、すでに何人かに特定されていてもおかしくはなかった。
「ちょうど、五代先生から法医学のお話を聞かせてもらっていたのよ」
膝の上にお弁当が入ったビニール袋を抱える。もう熱は残っていない。レンジで温め直しても美味しくないだろう。
「何か飲む?」
五代がメニューを取って、ななに開いて見せた。
「生ハムの詰め合わせとラザーニャを頼んでるけど……あんまり食べない方がいいかも」
最後の方は、そっと声が潜められた。ななは無言で、ホットのカモミールのハーブティーを指した。五代が手を上げ、やってきた店員にそれを注文する。
その間に店内を見回すと、鞠子と貴仁が別の席についているのが見えた。こちらをうかがっていた鞠子と目が合う。大丈夫だよ、とうなずいておいた。
「そういえばなな、あなた春から三年生でしょう? 卒業後の進路はもう決めたの?」
母は、いかにも母親らしいことを言った。
「特に決めてないです。株取引で稼げていますし。会社経営はちょっと面白そうですけど」
出された水を少し飲む。
「会社経営ねえ。宗一郎さんの影響かしら。友成の会社を継げばいいんじゃない?」
「それは、責任が大きいからやりません」
「宗一郎さんは、あなたに継いでほしがってるんじゃないかしら」
コップをテーブルに置いた。比較的大きな音が鳴った。母が黙った。しかし、口元にうっすらと笑みが残っている。
生ハムの詰め合わせと一緒に、ハーブティーが運ばれてきた。ふわりとカモミールの爽やかな香りが鼻をつく。
「そんなに怒らなくても」
母はフォークを手に取って、生ハムを一切れ、くるくると巻いて口に入れた。
「宗一郎さんがあなたを愛しているのは事実なんだし——」
「だとしても、あなたが言うのは違うと思います」
つい、母の声を遮るように言葉を重ねていた。彼女はやはり笑みを崩さないまま、「ななったら、冷たいんだから」と流した。
ハーブティーを飲む。温かく優しい味がする。飾り気のない真っ白のティーカップから白い湯気が立ち昇っていく。ゆっくり息を吸って吐いた。
「ななちゃん。帰ろうか」
突然、五代から声がかかった。思わず顔を上げる。まじめな顔をした彼と目が合った。
口を開いたところで、注文していたというラザーニャが運ばれてくる。チーズとミートソースがとろりと重なって、食欲がそそられる匂いが漂った。
しかし、五代は料理に見向きもしなかった。
「すみません咲さん。僕たちはお先に失礼します」
「あら。せっかく料理が来たのに。私一人だと食べきれないわ」
「申し訳ありません。また今度、機会があれば」
「さっきの質問への回答。聞かなくていいの? それが聞きたくて、私に連絡してきたんでしょう?」
「ええ」
五代は立ち上がると、コートを羽織る。
「状況が変わったので、そちらもまたの機会にお願いします。——ななちゃん、帰るよ」
五代が手を差し出してきた。
ななは、テーブルの上の料理の山を見た。少し減った前菜の盛り合わせ。母が一切れだけ食べた生ハムの詰め合わせ。一口も食べられていない熱々のラザーニャ。五代が頼んだ酒は、半分も減っていない。左手で支えている膝の上のビニール袋が、がさりと音を立てた。
ぎゅっと握り返されて、気がついた。いつの間にか、差し出されたそれに手を重ねていた。
熱い。
いや、自分の手が冷たいのか。
ななが立ち上がると、五代がななのコートを広げて着せてきた。腕を通し、前でコートのボタンを閉める。「あらあら」と母が笑っている。お弁当のビニール袋と鞄を奪い取られて、ななの両手が空いた。
「では咲さん、よい夜を」
最後に五代は、テーブルに伏せられていた伝票を取って、母に背中を向けた。背中を押されて、ななはレストランの出口に促される。
「五代先生」
別れ際、母は笑いを含んだ声で言った。
「さっきの質問の答えだけど——イエスよ」
五代が振り向く。ななは振り向かなかった。
「嘘偽りなく、本当よ。誰に理解されなくても。心から愛しているわ」
まるで眠る前の幼子に、絵本を読み聞かせるような声色だった。
五代は返事をしなかった。無言でななの手を引き、その席から離れる。代金を支払って、外に出た。
途端に息が白く凍る。来た時より、気温が下がっていた。
「代行……は、今から呼ぶと待ち時間が長すぎるか。タクシーで帰ろう」
五代がそう言って、駅の方角へ歩き始めた。
「……車は?」
「あそこの立体駐車場。明日取りに行くよ」
指し示された有料駐車場の看板には、それなりの料金が表示されている。明日取りに行くとなると、結構な出費額だ。
前を行く五代の背中を見た。右肩に自分とななの鞄を抱え、手にはお弁当の入ったビニール袋。左手はななの手で塞がっていた。薬指の指輪が目に入る。
「良かったんですか。お母さんとの話」
「うん、まあ」
「……邪魔をしましたか」
「いや? 欲しい回答はもらえたし、あまり長く一緒にいてもまずい人だからね」
「あまり、母の話は鵜呑みにしないほうがいいと思います」
「うん。そうする」
五代はゆっくり歩いている。歩くたびに、ガサガサとビニール袋の音が鳴った。彼の膝がどうしても袋に当たるらしい。繋がれた手が邪魔なのではないかと思ったが、温かかったので黙っておいた。
「……今日の夕飯、五代さんの分は親子丼です」
なぜかそんなことを口にしていた。
「僕、好きだよ。親子丼」
「もう冷たくなっちゃいました」
「レンジでチンしたら大丈夫」
ここの幕の内弁当の鮭は焼き加減が命で、レンジで温め直したら美味しさが損なわれてしまうのだが——。
口には出さなかった。
「五代さん」
その代わり、ななは別のことを提案した。
「離婚。しましょう」




