第三十三話 五代雅通がおかしい
五代雅通がおかしい。
今年駅前にオープンしたお弁当屋は、安くて早くて美味しい。個人経営で、以前近くにあったフランチャイズのチェーン店よりも気に入っていた。
店内に入ると、ななはまっすぐレジに向かった。
「幕の内弁当をひとつと……」
メニューに目を落とす。一昨日は焼肉弁当にした。その次に書かれているお弁当は、親子丼だった。
「親子丼ひとつでお願いします」
お金を支払うと、番号札を渡される。店内にある長椅子に座って、出来上がりを待った。
暇つぶしにスマホを取り出して情報をチェックしていると、メッセージが来た。五代からだ。
『急な話でごめん。知り合いと飲むことになったので、今夜の夕飯はいりません』
なんだと。ななは目を見開く。
バッと顔を上げたところで、レジの店員さんがにこやかに、ななの番号を呼んだ。
ななはお弁当が入ったビニール袋を持って外に出た。
どうするんだ、この親子丼。なぜもっと早く言わないのか。
文句を言ってやろうとキーボードを表示させたところで、着信があった。鞠子からだ。つい一時間前に別れたばかりだった。何か伝え忘れたことでもあったのか。通話ボタンを押した。
『なな、大変!』
前置きもなかった。電話口からは、ガヤガヤとした音が聞こえる。どうやらまだ家に帰っていないらしい。
「何、鞠子。どうしたの?」
吹き抜ける風が冷たい。少しでもお弁当の熱を奪われないように、ななは道の端に寄った。
『い、いま貴兄と待ち合わせしてるレストランに来たところなんだけど、五代先生がいるの』
「ああ。さっき、知り合いと飲むって連絡があったよ」
『咲さんなの』
ん?
ななは眉をひそめる。
「お母さんがどうしたの?」
『だから、五代先生が咲さんと食事してるんだって』
「……本当にお母さん?」
『化粧で雰囲気変えてたけど間違いないわよ。ななと約束してたわけじゃないのね?』
「うん。知らない」
思わずビニール袋を提げる手を握りしめてしまった。あの男。いったい何をしているのか。女と遊ぶのはいいが、さすがに母はスキャンダルが過ぎる。
それに……。
ななが思い出す天道咲の顔は、どれも笑顔だ。菩薩のように優しげで、女神のように美しい。
しかし同時に知っていた。その笑顔の下で行われる要求は、苛烈で容赦がないということ。
五代は女に対して強く出られない性質のクズだ。昨夏の試写会で、母の押しの強さにたじたじになっていた光景を思い出す。いくら五代でも、母のあの毒に対抗できるとは到底思えない。
「鞠子。ごめん、一旦切るね」
『え、ちょっとなな——』
通話を切って、ななはすぐに連絡帳を開いた。目当ての人物の名前を見つけて発信ボタンを押す。ほどなく電話は繋がった。
『もしもし』
「貴仁さん、ななです。ちょっとお願いがあるんですがいいですか」
電話で交渉すると、貴仁はすぐに承認してくれた。
そのまま少し待っていると、一台の車が近くに停まる。運転席で手を振っているのは貴仁である。ななはすぐに駆け寄って、その助手席に収まった。
「突然すみません」
「全然いいよ。どうせ今からそこに向かうところだったからね」
シートベルトを締めて、膝の上にお弁当の入ったビニール袋を置く。お弁当はもうほとんど冷えてしまっていた。
「咲さんが来てるって?」
「鞠子が言うにはそうです」
ななは、スマホの画面に目をやる。メッセージアプリのチャット履歴画面。五代に何度かメッセージを送ったが、既読は一向につかない。
急に貴仁が笑った。
「ななさんは、五代さんのことが心配なんだね」
「心配ですか?」
ななは少し考えてから、スマホを鞄に仕舞った。
「いい大人なので、そこまで心配していません」
「少しは心配しているってことだ」
「……まあ」
貴仁はまた笑った。
少し先で、赤信号が青信号に変わった。停まることなく車が進んでいく。
「よかった」
彼がぽつりと漏らした言葉に、ななは首をかしげた。
「何がですか?」
「心配していたから。五代さんとの交際は鞠子にも内緒にしていたみたいだし、突然結婚して、何かあったんじゃないかって気にはなっていたんだ」
「それは……」
鞠子にも同じことを言われた。水くさいとか、せめて結婚する前に知らせてほしかったとか。貴仁にもそう思われていたのか。
右折のウインカーの音が鳴った。信号が赤になったが、同時に右折の矢印が青く光る。右折レーンに停まっていた車の列が動き出した。
「ななさんとは旧知の仲で家格も合うし、お互いに映画が好きだし、結婚に必要な面倒事が全部省略できるなあと思って、実は密かに狙っていたんだけど」
「狙ってたんですか」
それは初耳だ。
「安心して。今のは過去の話。五代さんは君のこと大事にしているみたいだし、ななさんもそうみたいだから」
邪魔する気はないよ、と貴仁は言ってハンドルを切った。右折の波に乗る。
ななは膝の上に置いたお弁当を押さえた。
「貴仁さんって、もし私がアンディを洗ってってお願いしたらどうします?」
「アンディって、テディベアの?」
「はい」
貴仁は少し記憶を探っているようだった。たぶんアンディがどのくらいの大きさか思い出しているんだろう。
「アンディは、二メートルくらいありますね。横は、私が三人分くらい」
「そんなに大きかったっけ。そのアンディを洗濯するならってこと?」
「はい」
貴仁は困った顔になった。
「うーん。どうやって洗うんだろう。そこまで大きいと、専用の洗濯機じゃないと入らないような気がする。大型のクリーニング業者にお願いするのが一番いいんじゃないかと思うよ」
「……なるほど」
「いったい何? どういう質問?」
「いえ。なんでもないんです」
家を出る前も出た後も、アンディはいつも専門業者にクリーニングを頼んでいた。一度頼むと二週間くらいは帰ってこないので、幼いときはアンディと離れるのが嫌でたまらなかった。たしかに専門業者に頼むと、アンディは綺麗になって帰ってくる。だからきっと間違いではない。
ないけれど。
三か月に一度、疲労でソファに沈んでいる五代の姿がよぎる。毎回、もう二度とやりたくないと言いながら、彼はアンディをお風呂に入れるのだ。この間はついに、アンディの中の綿まで洗って日陰に干していた。大変まめである。
その五代が差し出す離婚届と、契約条件変更の話が、何だか急に目の前に迫ってくるような錯覚がした。
運がいいことに、一度も信号に引っかからずに目的のレストランについた。入り口近くに鞠子が立っている。貴仁は先にななを降ろして、駐車場に入っていった。
「なな」
鞠子の鼻先は赤くなっていた。寒空で待っていたせいだろう。先に入っていればよかったのに。そう思って、もしかしたら二人に見つかるかもしれないと思ってここで待つしかなかったのかもしれないと思い直す。
「鞠子、五代さんとお母さんは?」
鞠子は入り口の透明なドアから、奥を指さした。
「ほらあれ。あの奥の席」
指し示された方を見ると、男女が対面で席についているのが見えた。たしかに五代と母である。
ななは鞠子の手をつかむと、レストランの扉を押し開いた。手が冷たい。別に見つかってもいいから先に入っておいてもらえばよかった。
案内に現れた店員に「待ち合わせです」と断り、ななは鞠子を残して一人で奥の席へと突き進んだ。
壁際に母。五代はこちらに背を向けている。もちろん、母が先にこちらに気づいた。あら、と口が動くのが見えた。遅れて五代が振り向く。ななを見た目が大きくなった。
「ななちゃん。いったいどうして」
まったく度し難い。それはこちらの台詞なのだ。




