第三十二話 嫁に効く言葉
今年度いっぱいで、研究所内で唯一残っていた喫煙可の休憩室が禁煙になるらしい。愛煙家は大変だろう。
告知文の張り紙を見てから、五代は長椅子に座って煙をくゆらせている鮫島に目をやった。
「春日さんの判決、出ましたね」
「ああ」
自動販売機が甲高い機械音を鳴らす。取り出し口から挽きたてのコーヒーを取り出すと、五代は鮫島の隣に少し間を空けて座った。
「その顔じゃ予想してたか」
「記憶と責任能力は別問題ですから。控訴は?」
「しなかった」
鮫島は加糖入りの缶コーヒーをあおると、小難しい顔をした。
「鮫島さんは、何か気になることがあるんですね」
コーヒーを一口飲んでから促すと、鮫島が「いや……」と更に顔の皺を増やす。
「ほら、あんたが言ってただろ。前に見つかった男女の心中事件、ホトケさんの女と放火犯が知り合いだったってやつ」
もう解決済みだと整理した事件だ。記憶を辿るのに少し時間がかかった。たしかにそんなことを鮫島に報告した気がする。
鮫島は短くなった煙草を灰皿に押し付けると、すぐさま新しい煙草を取り出して火をつけた。
「男が薬を入手した経路が、どうやら放火犯だったらしいってのがわかってな。それも死ぬ半年も前に引き渡されてる」
「……男の方ですか?」
「そう。聞き込みとバーの監視カメラの照合したところ、間違いない。崎田南と春日もバーでよく一緒に飲む仲だった、これも裏が取れてる」
「それは、興味深い結果ですね」
心中事件の被害者である崎田南は、春日の知り合いだった。その南に執着する男に春日が薬を融通し、結果的に南が殺されたということか。
単なる偶然。あるいは。
「鮫島さんは、殺人教唆を疑っているんですね」
「記憶を失っちまったから、本当のところは何にもわかんないんだがな」
白い煙が、休憩室の空気を染めていく。鮫島は、煙草を吸っては吐くを数回繰り返してから、
「これは俺の個人的な想像なんだが」
と前置いてから言った。
「春日は南を殺したかった。加害者の男は、たまたま利用されたのかもな。だが順番が逆転した」
「順番?」
「あんただよ、五代先生」
鮫島が灰皿に、煙草の灰を落とす。
「以前の春日はあんたにずいぶんと執着していたんだろ。だから同時期にあんたと関係のある崎田南を排除したかった。しかし唆した男は犯行に及ぶまで半年もかかった。我慢がきかなくなった春日が、あんたの家に放火する方が早かった。……ま、全部勝手な想像だ」
なるほど。一応、筋は通っている。たとえそれが真実だったとしても、もはや誰にも証明できないが。
五代はコーヒーを飲むと、左手の薬指を見た。シンプルな結婚指輪。
彼女に契約の条件変更、あるいは離婚を迫って、もう半年近く経ってしまった。依然として条件は変更されず、離婚届はキッチンカウンターの棚にある。
ななとの生活は変わらず穏やかだ。先月は彼女の二十歳の誕生日で、ケーキを焼いてお祝いをした。条件変更と離婚、この二つの単語を持ち出さなければ、普通の平穏な夫婦として暮らせる。
二年後、ななが大学卒業するとき——彼女は何のためらいもなく離婚届にサインするのだろうか。
「自業自得かな」
「ん? 何がだ?」
「ああ……すみません。独り言です」
「珍しいな」
たしかにそうだ。以前なら、そんなふうには思わなかった。五代は唇を歪め、誤魔化すようにコーヒーを飲んだ。
そのとき鮫島が休憩室の時計を見上げて、慌てて煙草の火を消した。缶コーヒーをゴミ箱に捨て、コートを着始める。五代はつられて時計を見た。午後の三時。
「もうお帰りですか」
つい二十分ほど前にやってきたばかりなのに、慌ただしいことだ。
「娘の誕生日なんだ。今夜だけは絶対に定時退社しなきゃならないんだよ」
彼は深刻な顔でそう言った。よほど娘の好感度稼ぎに必死らしい。
「鮫島さんって、結婚されて何年でしたっけ」
「十六年だよ。それが?」
コーヒーを飲み干して、五代も立ち上がった。
「夫婦円満の秘訣をぜひご教授いただきたいと思いまして」
「なんだ、もう倦怠期か? 昔の女遊びでもバレたのか」
「そういうわけじゃないんですが」
むしろ、ななには過去の女性関係は普通に受け入れられているし、好きに恋愛してきてくださいといったスタンスを取られている。
つい先日も、家に上げた女を見てまったく心を動かされた気配がなかった。こちらはななの帰宅時間に合わせて、半裸にまでなったのに。
鮫島は歩き出した。五代もそれに続く。
「いいか五代先生。俺も職業柄、家内とすれ違いが続いてヤバい時期があったんだがな。嫁と別れたくなかったら、素直になるしかないんだよ」
「素直?」
階段を二人で降りる。鮫島はコートのポケットに手を入れて、めんどくさそうに言った。
「好きとか愛してるとか。嫁に効く言葉だよ。あるだろ、そういうやつ」
思わず立ち止まった。
鮫島は気づかず、そのまま降りていく。数段分の差ができる。五代は慌てて追いかけた。
「惚れてるなら素直に気持ちは伝えておけよ。いざってときに後悔するからな」
研究所の出口まで、鮫島はそのように繰り返した。
相槌を打ちながら、ななの顔が思い浮かんだ。ざわりと胸が騒ぐ。
——好きとか愛してるとか。
それは、とても縁遠い言葉だった。
駐車場に繋がる扉を開けて、鮫島は帰っていった。それを見送った後、五代はしばらくの間立ち尽くしていた。
天井のライトを見上げる。
「嫁に効く言葉、か」
独り言が漏れる。出入口に立っている警備員が不思議そうにこちらを見た。首を振って、踵を返す。
白衣の内ポケットからスマホを取り出す。連絡先の一覧を表示させると、かな順の上の方にその名前があった。
天道咲。
ためらいなく、発信ボタンを押した。




