第三十一話 今まで通り
「五代先生?」
マンションのエントランス前でかけられた声に、一瞬身構える。
秋が深まって、そろそろ冬になろうとしている。空はすでに暗く、エントランスの明かりが植木の影を伸ばしていた。
振り返ると、女が立っていた。ショートカット。上品な化粧。耳元で銀のピアスが光っている。グレーのジャケットに、花柄のフレアスカート。名前は思い出せなかったが、何度か関係を持った女に間違いない。
女は五代の顔を認めると、パッと笑顔になって近づいてきた。
「やっぱり五代先生だわ。お久しぶりですね」
こちらの腕に、手をするりと伸ばしてくる。
「最近ずっと、お店に顔を出していないって聞いて心配していました。お忙しかったんですか?」
「ええ……そうですね」
甘ったるい声だ。わずかに腕を引いた。
「結婚して夜に出歩かなくなりましたから」
「結婚?」
女の笑顔が固まる。ちょうど彼女が触れていたのは左腕だった。そろりと視線が下がって、薬指の指輪を確認する。
「……いやだわ五代先生。嘘がお上手ね。結婚なんて、まったく興味がおありでないくせに」
ひきつらせた笑みを浮かべて、女が顔を上げた。
どうやら嘘だと思われているらしい。以前の自分はそんなに結婚に向かない男だったのだろうか。勤務先にすら、口頭報告では信じてもらえなかったことを思い出した。
「それとも何か事情があってご結婚されたのかしら。それはそれで、とても興味があります」
あと数歩でマンションのエントランスである。今夜は食事当番だ。リクエストは麻婆茄子かオムライス。脳内でリスト化された冷蔵庫の中身と、処理手順、調理時間の概算が流れていった。
その時、内ポケットのスマホが震えた。「失礼」と断って取り出すと、ななからメッセージが来ている。久世鞠子と遊んでいて、少し帰宅が遅くなるらしい。
「五代先生?」
スタンプを押してスマホを戻すと、女がこちらの顔色をうかがうように視線を送ってきていた。頬にかかる髪を耳の後ろへかき上げる。
「もしお時間あるようでしたら、この後、お茶いたしません?」
少しだけ計算する。いつもなら既に帰宅済みか、そろそろ帰宅するであろう妻の帰宅予定が一時間遅延。夕食を作る時間が、付け合わせのスープとサラダを入れて四十分前後。洗濯物を回収して畳む時間に十五分。
……まあ、ちょうどいいか。
判断を下すと、五代は女ににっこりと笑いかけた。
「いいですよ。お茶するだけなら。この上になりますけど」
マンションのエントランスを指さす。
女は満面の笑みで、意気揚々とついてきた。
***
ダイニング側のカウンターキッチンの棚の一番上を開く。動かした形跡のない茶封筒が、一番上にあった。
今日も提出されていない。
無言でまた、引き出しを閉める。
「五代先生?」
呼びかけに顔を上げると、女がそわそわした様子でリビングを見回していた。
「ああ。どうぞ、おかけください」
ソファを指し示してから、五代は上着を脱いだ。ダイニングチェアにかけて、客用のティーカップを出す。滅多に飲まない茶葉の缶を奥から引っ張り出す。賞味期限的に、そろそろ廃棄しないといけないかもしれない。半分以上残っていたが、誰も飲む人がいないので仕方がない。
一人分の紅茶を淹れて出す。
女はダイニング側のソファの端に座っていた。L字の中央には、巨大なテディベアが堂々と座っている。心なしか、毛並みがつやつや輝いているように見える。先週末に風呂に入れたせいだろうか。
「ええと……五代先生?」
キッチンに戻ってエプロンをつけると、女が戸惑ったように声をかけてきた。
「すみません。今日食事当番なんですよ」
手を洗ってから、米を炊飯器にかけた。冷蔵庫の扉を開けて野菜を取り出す。
「食事当番?」
「ええ。僕のことは気になさらず、ゆっくりお茶していってください」
女は無言になった。
ねぎとにんにく、しょうがをみじん切りにしてから、茄子を乱切りにする。
その間にも女はリビングを見渡し、ソファに我が物顔で座るアンディに目をやっていた。
「あの、五代先生。さきほどご結婚されたって仰っていましたが……」
「はい。結婚しましたね」
フライパンを取り出すと、油を引いて火をかける。換気扇のスイッチを入れた。
「奥様はどちらに?」
「帰宅が遅くなるみたいです。……その熊」
茄子をフライパンに投入してから、顔を上げる。今にも彼女がアンディに触れようとしていた。
「すみませんが、あまり触れないでいただけると」
「あ、ごめんなさい」
女が手を引っ込める。しかし気になるようで、何度もアンディに目をやっている。たしかに、大きな熊のぬいぐるみがあれば、つい触れてみたくなるものなのかもしれない。
「このテディベアは」
「妻のです」
キッチンペーパーを敷いた平皿に、焼き色がついた茄子を取り出す。
麻婆茄子を作る傍ら、スープとサラダを作る。女はほとんど無言だった。暇だろうからと、途中でテレビをつける許可を出したが、ぽちぽちと番組を変えるだけで見ている様子はない。
フライパンと鍋に蓋をして、サラダはボウルのままラップをかけ冷蔵庫に入れる。テレビのニュース番組を流しながら、女はスマホをいじっていた。エプロンを外しながら、自分のスマホを確認する。メッセージが来ていた。六分前。
『貴仁さんに車で送ってもらえることになったので十分後くらいに着きます。お腹空いてるのですぐ夕飯食べたい』
スタンプを押そうとして、手が止まった。
画面上のデジタル時計を見る。さすがに風呂場に干した洗濯物を取り込んでいたら、途中でななが帰ってきそうだった。エプロンをハンガーにかける。
そのままスマホをスリープモードにして、女の元へ向かう。彼女は顔を上げた後、ぱっと嬉しそうな顔になった。
一言断りを入れて、アンディをソファ中央から向こうの端へ移動させる。女を中央寄りに導くと、五代はダイニング側の方に腰かけた。
「僕がいない間も、バーに通ってたの?」
リビングの壁掛け時計を見ながら優しく言うと、女は勝手に身を寄せてきた。
「だって五代先生、来られるのはいつも気が向いたらで、決まった日がないでしょう?」
「まあ、夕食がてら気分転換に行ってたから」
「マスターや他の女の子たちも、ずいぶん寂しがっていましたよ」
「きみも寂しかった?」
時計から目を外して、女の目を見つめる。すぐにその瞳がうるみ始め、頬が赤く染まっていった。
「ええ、それはもちろん」
五代は唇の端を上げる。女にはそれがどう見えたのか。彼女も微笑んで、更に体を寄せてきた。その腕が五代の首に回る。香水の匂いが鼻についた。あまり好きな香りではないやつだ。
「五代先生——」
そのときだった。
玄関の開錠の音が耳に入った。はっと女が身を引いた。離れていく体を、咄嗟に押し留める。
「ご、五代先生?」
戸惑う彼女を安心させるように微笑み、口で息をする。
廊下を歩く足音がした後、まったく躊躇なく廊下に繋がるドアが開いた。
「おかえり、ななちゃん」
「ただいま帰りました」
ななは、ちらと五代に目をやった。女の存在を確実に認識したはずだったが、彼女は表情のひとつも変えず、キッチンの流し台で手を洗い始めた。
「おなかすきました。五代さん、ごはん」
いつも通りだった。恐ろしいまでにブレない。
五代は一度だけ瞬くと、女の体から手を離して立ち上がった。
あっけにとられている女をそのままにして、キッチンに向かう。
「貴仁さんは?」
「帰りましたよ。送ってくれただけですもん」
「そう」
「何か用事があったんです?」
「いや別に」
麻婆茄子の入ったフライパンとスープが入った鍋を、再度火にかける。温め直している間に、茶碗と皿を食器棚から取り出した。
ななはダイニングテーブルの椅子を引いた後、ソファに残された女を見た。
「えっと……誰だか存じませんが、夕飯召し上がっていかれます?」
呆けていた女が、その言葉でかっと頬を赤らめる。こちらに視線を寄越してきたが、五代はそれを無視した。冷蔵庫からサラダを取り出す。
「帰ります。お邪魔しました!」
女は短く言うと、足早に部屋を出て行った。部屋を出て行く間際、怒りの眼差しが五代の方に向けられる。バン、と扉が大きな音とともに閉まった。
米をよそい、温め直した麻婆茄子とスープ、サラダを出す。たった今の出来事がなかったかのように、ななが瞳を輝かせた。
「いただきます」
がつがつと麻婆茄子に箸を入れるななを見て、五代も着席して箸を取った。料理はおいしい。自分が作ったのだから当然ではあったが、なぜだか喉の奥がつっかえるような感覚がある。思わず箸の先を噛んだ。
「あ。そうだ五代さん」
ふと思い出したように、ななが料理から顔を上げる。
「何?」
「今度、鞠子を泊めてもいいですか? 泊まりに来たいって」
「いいけど……ごはんと寝る場所はどうするの?」
「ごはんはカレーがいいです。鞠子、カレーが好物なので。私が鞠子と寝るので、五代さんがリビングかな」
すでに五代が夕飯を作って、リビングで一人寝をすることは決定しているらしい。
思わず笑ってしまった。
「ななちゃんって、嫌な女って言われない?」
「そういう五代さんはどこから見てもクズですよね」
じっと見つめ合った。
しばらくして、どちらからともなく笑う。
食事に戻った。
背後にあるキッチンカウンターの棚。一番上の引き出しの茶封筒の存在を、ひしひしと感じる。
目の前では、なながごはんを頬張っていた。




