第三十話 平行線
友成ななは異常である。
エンドロールが流れている。エンディングテーマの音楽と一緒に、画面の上に人名の一覧が吸い込まれていく。
五代は、一時停止ボタンを押した。画面中央の名前に、勝手に目が細くなった。
天道咲。
ため息をつく。
ブルーレイディスクのパッケージを手に取ると、映画賞を受賞したという宣伝文句が目に入る。天道咲は、産休後に復帰したこの映画で主演女優賞を取っていた。
——娘と一緒に雪山で遭難する母親役。
「はー、すごかったなあ、天道咲」
隣にいた藍田が素直な感想を漏らした。
無言で映画を停止すると、ディスク取り出しのボタンを押す。ブルーレイを仕舞い、パッケージの蓋を閉めた。
「ありがとう、藍田。助かったよ」
「どういたしまして。この間飲みに付き合ってくれた礼だし、気にすんな」
金曜だしな。と、藍田は軽く言って背伸びをした。
とはいえ、幼児がいる家庭持ちの男の家に、夜上がり込んでしまったのは事実である。時計を見ると、九時を回っていた。
「もう帰んの?」
「さすがにこれ以上は奥さんに悪いからね。お礼言っといてくれる?」
来た時に挨拶した藍田の妻は、一時間くらい前に、娘の寝かしつけのために二階へ上がってしまっている。急に五代が訪ねることになって、きっと迷惑したに違いない。今度お詫びの代物を贈ろう。
「おい五代、忘れ物」
立ち上がって玄関に向かうと、藍田が映画のパッケージを掲げた。少し考えてから、首を振る。
「それ、あげるよ」
「はあ? 新品だろこれ」
「ちょっと事情があって持ち帰れないから」
革靴に足を突っ込んだ。
「えー、何だそれ? 奥さんが映画嫌いとか?」
「まあそんなところ」
藍田に挨拶をして別れた。
途中でコンビニに寄った後、帰宅する。
玄関のドアを開けたところで、脱衣所から出てきたななと鉢合わせた。
「あ」
入浴後だったらしい。水色のルームウェア姿だった。石鹸の香りがしている。濡れた髪から水が滴り落ちて、ルームウェアの襟口や床を濡らしていた。
「ただいま」
「おかえりなさい」
扉を閉めて、鍵を締める。その間にも、廊下にポタポタと水が落ちていく。
「ななちゃん、廊下。濡れてるんだけど」
ななは一度足元の水滴を確認したが、すぐ顔を上げた。
「この時期ですからすぐ乾きますよ」
「そういう問題じゃないよね。ちゃんと拭きなさい」
「仕方ないですね」
そう言いながらも、ななは実行せずにそのままリビングに入っていった。もちろん廊下を濡らしながら。
帰宅早々、雑巾がけをした。
リビングに入ると、ななはソファでアンディに体を預けていた。絶対に水が染みこんでいる。カビ臭くなったらどうするつもりなのだろう。まさかまた、入浴をせがまれるのだろうか。
ベストを脱ぎ、ネクタイを緩めた。冷蔵庫から氷を取り出し、グラスに酒を注ぐ。
「コンビニ寄って来たんですか」
「ちょっと飲みたくなって。プリン食べる?」
「食べます」
がばりとななが起き上がり、嬉しさを隠し切れない顔で寄ってきた。コンビニのプリンとスプーンを渡すと、礼も遠慮もなく食べ始める。まるで餌をせがむ雛鳥である。
席について、ななが食事する姿を眺めながら酒を飲む。リビングのテレビは、映画のメニュー画面が映っていた。これから観るところか、あるいは観終わった後なのだろう。
「五代さんってホラー映画平気ですか」
視線を戻せば、なながもぐもぐ口を動かしながらこちらを見ていた。
「ホラー映画?」
「結構グロ多めのサイコホラー。グロいの見慣れてますかね」
ななはテレビ画面を指さす。なるほど、メニュー画面の背景が血に濡れた手術室なのはそのせいか。
「そうだね。どっちも平気」
「じゃあ流しても大丈夫ですね」
ななは「よかった」とプリンに注意を戻した。怖いから一緒に観て、というわけではないらしい。
視聴を開始される前に、五代は鞄を引き寄せた。茶封筒を取り出す。そこから三つ折りにした紙を引き出して、テーブルの上に広げた。
「ななちゃん、これ」
スプーンをくわえたまま、ななは不思議な顔で紙を自分の方に引き寄せた。
それを見て、彼女はどう思ったのだろうか。一瞬目を見開いて、ななはこちらと目を合わせる。
くわえたスプーンをゆっくりと手に取り、
「本気ですか?」
と、うかがうように聞いてきた。
「本気じゃなかったら、わざわざ用意しないよ。離婚届なんて」
夫の欄は五代の名前で埋めてある。捺印もしてあるので、ななが記入して提出すればいいだけの状態だ。
ななは渋い顔をした。
「契約違反です。結婚期間は私の大学卒業までのはずです」
「そうだね。でも契約書には、双方の合意があれば契約内容の変更や解除は可能って書いてあったよね」
「それは……」
ななはぐっと言葉に詰まったようだった。
「……契約書ってそういう風に書いてあることが多いじゃないですか。それを参考にして作ったので」
眉を寄せると、ななは離婚届を突き返した。
「とにかく、合意はしません。五代さんには大学卒業までいてもらわないと」
想定通りの答えに、離婚届を折り目に沿って畳み、茶封筒に入れた。それをテーブルの中央に置く。
「じゃあ離婚はしなくていいから、この間言った条件変更、受け入れてくれない?」
ななはさらに渋い顔になった。
「嫌です」
頑なである。
「別にそこまで難しい変更じゃないと思うけど。ななちゃんは何が嫌なの?」
言いながら、酒を飲んだ。グラスを置いていた場所に、結露した水が溜まっている。
ななは食べかけのプリンをテーブルに置くと、スプーンをバシッとテーブルに叩きつけた。
「五代さんこそ、どうして今まで通りだとだめなんですか? 今のままでも、回ってるじゃないですか」
「たしかに」
食事と掃除の当番制なんて、今ではほとんど形骸化している。なながやることと言えば、夕飯を店屋物ないしはケータリングで用意することと、リビングの隅に転がっているロボット掃除機の電源を入れるくらいだ。
まあそれでも、何とかうまく回っていた。
「家事は今まで通り担当するし、ななちゃんの夫としてふさわしい行動をするって約束するよ。何が問題?」
「問題だらけです。契約の条項を全部撤廃して、『家族になる』なんて。曖昧過ぎます。五代さんおかしいですよ」
たしかに、おかしいのは自分の方かもしれない。その自覚が五代にはあった。
「でも僕をおかしくしたのは、ななちゃんが原因なんだけどな」
「意味がわかりません」
「奇遇だね。僕にもわからない。わからないけど、ななちゃんのせいなんだよ」
「なんですかそれ」
五代は酒を飲み干すと、茶封筒をずいとななに押し付けた。
「これ預けておくから。契約変更か、離婚か。どっちか選んで」
「極端すぎます」
ななが目を吊り上げる。
「大体、おかしいですよ。『家族になろう』って言いながら離婚を要求するなんて!」
ななが、茶封筒を平手でぺいっと払った。離婚届が返ってきた。
……なるほど。
平行線だった。
封筒をつかむと、キッチンカウンターのダイニング側にある棚にそれを仕舞った。
「ここに入れておくから、ななちゃんの好きなタイミングで出して」
「……絶対嫌です。大学卒業までは、このままです」
ななはぷいとそっぽを向いて立ち上がると、アンディの元に行ってしまった。
テレビが音を流し出す。映画が始まったようだった。
食べ残しのプリンがテーブルの上に残されている。
五代はため息をついた。




