第二十九話 ごはんをくれる人
西山さんの視線は、五代に向けられていた。
条件と聞いて、彼が身構える。五代のことだ。きっと瑕疵がある側が条件を出すなんてとか何とか、理屈っぽいことを考えているのかもしれない。
「条件って?」
「ななちゃん」
先回りして聞くと、案の定、不満を漏らしてきた。無視する。大体それで、彼は黙る。仕方なしにという感じではあるが。
「……咲様のことです」
西山さんの声が少しだけ低くなった。申し訳なさそうな気配がする。別にそんなこと思わなくてもいいのに。
母の名前を聞いて、また五代の態度が変わった。不満そうにしていたのに、一気に話に興味が出たらしい。よくわからない。
ななはカプチーノを飲んだ。
「五代様、私が以前にお願いしたことを覚えていらっしゃいますか? それが条件です」
「……なるほど」
五代がうなずいた。
何をどう納得したのかさっぱりわからなかった。ななを抜いて、二人はいつの間に仲良くなっていたのだろうか。
「もともとお嬢様の写真は、咲様のために撮っていました。一ヶ月に一度、咲様と会って写真を渡していたんです」
「え。そうなの」
ななは思わずカプチーノを口から離す。初耳だ。
「はい。申し訳ありません。そうすることで、咲様のお嬢様への興味を紛らせていました。そうしなければ、お嬢様への接触がもっと多くなっていたはずです」
実際、咲は一月に一度はこの周辺まで来ていたようだ。火事に遭った五代を拾った日にも、西山さんは母と会っていたらしい。売れっ子女優のはずなのに。暇なのか、それとも……。
しかし腑に落ちた。西山さんは母に、ななが結婚したことを黙っていたのだろう。言ってしまうと絶対に接触しに来ると知っていたから。なのにななが自分で、年に一度の面会で結婚の事実を伝えてしまった。だからあの後すぐに、母からまた連絡があったのか。普段ほぼ連絡がないのは、西山さんが防波堤になってくれていたわけだ。やり方は褒められたものではないが、ななは到底、西山さんを責められなかった。
「ななちゃん」
五代に突然、名前を呼ばれる。見ると、彼は難しい表情をしていた。
「この間の試写会で、僕が言ったことを覚えてる?」
「覚えてません」
なぜかショックを受けたような顔をされた。毎日何かしら会話をしているのに、そんな特定の話を覚えているわけがない。
「ほら、『言いたくないなら言わなくていい』って言ったでしょ」
「ああ。そんなことがあったような気がします」
夜に食べたフィリピン料理のことははっきりと覚えている。鞠子がおすすめだと言ってくれたカラマンシージュースや、シニガンというスープは絶品だった。絶対にまた食べに行こう。
五代は明らかに肩を落とした様子だった。目をつむって少しだけ沈黙してから、また普通の顔に戻る。
「あれを少し撤回する。話せる部分だけでいいよ。何があったのか教えてほしい」
「えー」
視線を西山さんに移す。彼女は下を向いている。代わりに応じてほしいくらいだったが、唇は固く引き結ばれていた。
「別にたいしたことじゃないですよ」
「それならそれでいいんだよ」
五代は引き下がらなかった。ななは息をついた。
「じゃあ話しますけど。本当にたいした話じゃないですからね」
あとでつまらないと文句を言われても困るので、ちゃんと前置きをしておく。
「お母さんと一緒に泊りがけの旅行に行ったんです。そこで、ごはんが出ませんでした」
そう言うと、五代は微妙な顔をした。きっとつまらなくて驚いたのだろう。だから言ったのに。
しかし、ややして表情がやけに真剣になる。
「待って。それ何泊の旅行で? おやつや飲み物は?」
「水だけ。他は何も出ませんでした。多分一週間くらい」
当時の記憶を思い出す。母は、雪山遭難の映画を撮ると張り切っていた。食料を何も持たずにロッジに引きこもり、自らも飲み食いを制限していた。ななが「おなかすいた」といくら泣いても、水しかくれなかった。最後の方はずっと寝ていた気がする。気がつくと病院にいて、西山さんが泣きながら看病をしていた。両親が離婚したのはその後である。
「西山さん」
五代はななから視線を流す。
「あなたが知る事実と相違ないですか」
「はい」
西山さんは五代の問いに、顔を上げなかった。ただうなずいて、下を向いている。肩に力が入っている。テーブルの下にある手に力を込めたのかもしれない。
「警察には」
「……事故ということで、収めました」
「なぜ」
「当時、咲様は産休から復帰した大事な時期でしたから、旦那様や事務所の方々と話し合ってそうなりました」
「彼女のしたことを把握しながら、隠蔽したと?」
西山さんはそれ以上応えなかった。五代も黙る。
ななは隣にいる男の横顔を見た。その顔は青ざめている。奥歯を噛みしめているのか、顎の筋肉がこわばっていた。ななは思わず、その腕を引いた。
「五代さん。西山さんは悪くないですよ」
父と母が離婚した後、ななの世話をしてくれたのは彼女だ。血のつながらない、友成家と雇用契約を結んだ家政婦という立場ではあるが、母よりも母らしい行いをしてくれている。
「西山さんも。もう過ぎたことだから、あんまり自分を責めないでほしい。西山さんのせいじゃないから」
そう言うと、西山さんはまた肩を震わせる。ぽたりとうつむいた顔から、水が落ちていった。
ロッジで過ごした一週間の間に、彼女は母に一度だけ電話をしている。泣くななの声まで聞いていたのに、異常に気づけなかった。西山さんはずっとそれを悔いているのだろう。だから、ななが一人暮らしを始めた時、家政婦としてついてきてくれたのだと思っている。
五代がコーヒーが入ったマグカップを持ち上げ、それに口をつけた。湯気は出ていなかったが、そんなことはもうどうでもよさそうだ。気難しい顔をして、黙り込んでいる。
触れるとなんだか危険な気がして、ななはわずかに座っている位置を五代から離した。
西山さんが落ち着いたのを見計らって、雇用契約を見直す。すぐに月一にするわけにはいかないので、一旦来月から隔週に切り替え、三か月後から月一で来てもらうことになった。
話し合いから随分時間が経ってしまったが、西山さんはその後、最低限の家事仕事をこなしていってくれた。帰る間際、西山さんは何かを言いたげにしていた。結局、何も言わずに「五代様にもよろしくお伝えください」と頭を下げてから帰っていった。
リビングに戻ると、五代がソファで座っていた。アンディの真横。ななの特等席だった。リモコンを操作して、映画の配信サイトのラインナップを見ている。
「何してるんですか」
五代が見ているのは邦画のジャンルだった。アンディから離れろという念をこめて、ソファの後ろに回って肩を押す。
「天道咲の映画を観ておこうと思って」
五代が上を向く。後頭部をソファの座席に乗せると、ななを見上げてきた。前髪が乱れて額が見えている。そうすると、年齢より少し上に見えた。
「なんでですか」
「少し知っておいたほうがいいかなと」
意味が不明だ。ななは額を軽く叩く。ぺちりと可愛い音が鳴った。
「だめです。今から私が映画を観るんです。積み映画がたくさんあるんですから」
「あまり邦画を見ないのは、天道咲の影響?」
「洋画の方が好きだからです」
リモコンを渡せ、と手を出す。ついでにアンディの横からどいてほしい。
「ねえななちゃん」
五代は要求を無視して、リモコンを渡さなかった。テレビ画面には、邦画のパッケージが並んでいる。母が表紙に写っているものもあった。
「僕との契約結婚なんだけど——条件を見直さない?」
ななは目を見開いた。
五代が真顔で、ななを見上げていた。




