第三十七話 普通の結婚
ななの疑問に、五代は大きなため息で応えた。
「ほんと、きみって嫌な女だよね」
わずかにその唇の端が上がる。呆れているのか怒っているのかわからないが、心からそう思って言っているのがわかった。
変なことを聞いてしまった。かっと顔が熱くなって、慌ててマグカップをつかんだ。カプチーノを飲む。もうバラの形はだいぶ崩れて、温度もぬるくなっていた。半分ほど一気に飲んだ後、契約書の一部文言が目に入って、何とはなしに聞く。
「……この第二条の一般的効果に準ずるってなんですか」
「夫婦になることで生じる法的な権利や義務のこと。相互扶助義務、同居義務、生活費分担義務、貞操義務」
「貞操?」
淡々と説明する五代の顔をまじまじと見つめる。この男、本気で言っているのか。
「五代さんが、貞操義務を課すんですか」
「おかしい?」
「いや、だって……」
ななは口ごもった。
この半年の間に、何度も家に女を連れ込んでいた。そんな男が貞操を主張するとは。
「僕からすれば、きみの論理こそわからない」
五代がななの背後、リビングの方に視線を流した。
「僕がいなくなったら家事はどうするの? また西山さんに頼む? 彼女だって高齢だし、十年もしたら通えなくなるかもしれない。健康的で美味しい料理も出てこない。アンディだって自分で洗えない。離婚したらやっていけないと思うけど」
先ほど考えていたことをすべて当てられている。
「承知の上です。頼もうと思えばそれぞれ別の業者に頼むことだってできるし……」
「それで問題ないって? 到底そう思えないけど」
「なんなんですか、いったい」
思わず剣呑な声が出る。
「さっきからずっと、責めるような言い方。何をそんなに怒ってるんですか!?」
眦を決して叫んだ。
先ほど下げたはずの血が、また頭に上ってきていた。胃がむかむかしてくる。
そもそも二択のうち、ななは離婚の方を選択しただけだ。むしろ、不平等な契約を解消しようとしている。それでなぜこちらが怒られなければならないのか。外で繋いだ彼の手は温かかったのに、今は嘘みたいに冷たい。
「だってきみ」
五代は、かすかに笑ったようだった。短く吐いた息の音が聞こえる。
「もう僕のことが好きでしょう」
一瞬、何を言われたのかわからなかった。
否。音はきちんと耳に入っていた。ただ、意味を持つまでに時間がかかった。
「ああそうだよね。きみは気づいてなかった。男女間の恋愛は、自分には関係ないものと扱ってきたから。でも一年も夫婦やってきたんだよ。さすがに結婚当初と違うことくらいわかる。あの頃のきみはまかり間違っても、アンディを僕に任せなかっただろうし、不公平なんて理由で離婚を申し出るなんてしない」
とても自己本位で嫌な女だった、と五代は補足した。
「もう代替不可能でしょう。でもきみは、家族になるっていう曖昧な契約は嫌だと言った。今の契約じゃ不公平だから離婚だと言った。そうかわかった、今度はすべて明文化して再契約しよう。僕がしているのはそういう話」
五代は婚前契約書に手を当てる。契約書の紙に皺が寄った。
「何に怒ってるかって? 一方的なジャッジで僕を手放して、以前の生活に戻れるなんて簡単に思ってるきみの身勝手さに怒ってる。前に言ったよね。僕がおかしくなったのはきみのせいだって。今の契約が不公平だというのなら、きみはそんな契約を僕に結ばせた責任を取るべきだ」
ペン先が出たままのボールペンを、五代は再度差し出してきた。
「新しく契約しよう。今度は僕が持ってきた条件で。これで公平でしょう」
ペン先をじっと見つめた。深く切られた男の爪が目に入る。息が詰まる。
一歩も引かないという強い姿勢があった。不満があっても最後は受け流すことを選択していた男が、初めて自分の要求を露にした。
クズ。便利。まめ。今までずっと当てはめてきた評価が浮かんでは消えていく。
ようやく、ななは失敗に気づいた。
五代雅通を、契約夫に選ぶべきではなかった。
拾った日のことを思い出す。あの夜この男を拾わなければ、父の用意した釣書の中から適当に夫を選んでいただろうか。貴仁に事情を話して、夫になってもらう世界線があったかもしれない。
すっと指先の温度が下がるような錯覚を起こして、ななは慌てて立ち上がった。椅子が床に擦れる嫌な音がする。
五代に名前を呼ばれたのを無視して、リビングに入った。定位置に座っているアンディを抱きしめて、顔を押し付ける。とてもいい香りがする。アンディを洗うために五代が買ってきたヘアコンディショナーの匂い。
つんと鼻の奥が痛くなった。滲みだす涙を、アンディの胸が吸い込んでくれた。
ソファが沈んだ。五代が隣にやってきたのだと思う。ななは顔を上げなかった。
いつもソファに足を上げるなと口うるさいのに、こういうときに限って、彼は何も言わない。ななはぎゅっと目をつむったまま、五代がいるだろう場所めがけて足を繰り出した。足裏に、どんと人を蹴った感触がした。ざまあみろ。
途端、足首をつかまれた。すぐに引いたが、ぎゅっと押さえつけられていて抜け出せない。そして——
「ふはっ、や、やめっ、やめてっ」
足裏を思い切りくすぐられた。我慢ができず、アンディから顔を上げる。手足をばたつかせたところもう一度五代を蹴ってしまい、更にもみくちゃにされた。
ひとしきり笑わされた後で、ぜいぜいと大きく息をつけば、五代の顔が至近距離にあった。
男のくせに睫毛が長い。目が細められる。ふっと笑う気配があった。ななは仕方なく目を閉じた。
好きなのかというこちらの問いは誤魔化したくせに、ななの気持ちは自信満々に断定する。
クズめ。本当に度し難い。
触れあわせた唇が震えた。
背中を受け止めているのはアンディだった。するっと頬から耳を撫でてくる指の感触に、ななは身をすくませて、口を大きく開けた。
がぶっ。
「……ななちゃん?」
五代が体を離した。すごい目でこちらを見ている。
「この雰囲気で、なんで噛みつくわけ? 信じられないんだけどこの女……」
口元を押さえる男を置いて、ななは立ち上がった。ぺろっと唇を舐めると、わずかに血の味がする。
そのままダイニングテーブルに戻ると、椅子に座って冷めきったカプチーノの残りを飲んだ。
婚前契約書に署名する。丁寧に書かれた夫の名前の隣に、妻の名前を殴り書きした。ぽいとペンを放る。コロコロ転がって、五代のマグカップに当たって止まった。
キッチンでお風呂の給湯器の操作をする。軽快なメロディが流れた。
振り返ると、リビングのソファでアンディに抱き着く夫の姿があった。
「ちょっと五代さん、やめてください。アンディが潰れちゃうじゃないですか!」
「いつもきみがやってることじゃないか。こっちは噛みつかれて傷心なんだけど」
「私と五代さんじゃ体重が違うでしょう。アンディがへたれちゃったらどうするんですか」
「新しく綿を入れたら戻るよ」
五代の体を引っ張って、アンディを救い出す。ああ、リボンがよれよれになってしまった。五代のせいだ。丁寧に皺を伸ばしてから、結び直してやる。
ぐうっとお腹が鳴った。そういえば、夕飯の途中だったことを思い出す。
「……お弁当、温め直そうか?」
二回目の加熱に、あの幕の内弁当は耐えられるのだろうか。常温で放置した時間も長い。さすがに味が落ちるのではないだろうか。
少し悩んでから、ななは五代を見た。
「五代さん」
さっき噛みついた唇が赤くなっていた。きっとまたしばらく痛むに違いない。ざまあみろ。
「ごはん作ってください。簡単なものでいいです。コロッケとか」
「それ全然簡単なものじゃないんだけど?」
五代は文句を言っている。でも、数分後にはきっとエプロンをつけてキッチンに立つに違いなかった。
ななが契約書に署名したことに、もう気づいているのか、気づいていないのか。気づいていないならいつ気づくのか。
まあ、どうでもいいか。
五代をキッチンに送り出すと、ソファをアンディと二人で独占した。テレビをつける。
お風呂が沸くまで、次に観る映画の選定をしようと思った。




