第二十七話 五代なな
朝のニュースが流れていた。
天道咲の出演する映画が、公開から一週間も経たないうちに大ヒットになっているらしい。ななも試写会で観たが、たしかに良かった。何よりも天道咲の演技が冴え渡っていた。
しかし大ヒットしたのは、映画の出来だけが理由ではない。
『それでは本当に記憶喪失だと?』
テレビ画面では、リポーターがマイクを天道咲に向けていた。咲は「ええ」とうなずいて、頬に手を当てしおらしい表情だ。
『一時は普通の生活に関することも忘れていたんです。シャワーやお箸の使い方がわからなかったりだとか。彼女が記憶喪失だったというのは、私が保証しますわ』
いったいどこから情報が漏れたのかは知らないが、天道咲の付き人が放火事件の容疑者として逮捕されたというのが公に知れ渡った。普通はスキャンダルになる可能性が高いが、咲はその状況を利用して、世論を味方につけた。映画での彼女の配役が、非行少年を更生させる慈愛に溢れた教師だというのも関係しているだろう。この一件が追い風になって、映画は瞬く間に話題になった。
「我が母ながら恐ろしい」
ななはつぶやくと、カプチーノをズズッとすすった。
「まあたしかに、すごいお母さんだね。どこまでが本当でどこからが嘘か、全然わからない」
五代がコーヒーを飲みながら、ソファの隣に座った。
「ななちゃんの嘘はわかりやすいのにね」
「なんですか。いつ私が嘘をついたと」
「お父さんに挨拶に行ったとき。めちゃくちゃどもってたよ」
半年近くも前のことである。よくもそんなことを覚えているものだ。
「五代さんはまるで息をするように嘘ついてましたもんね」
「そういう契約だったからね」
時計を見る。そろそろ時間だ。
マグカップをテーブルに置いて、アンディにもたれかかった。アンディは何も言わずに体を受け止めてくれた。もふもふだ。
「ななちゃん、足」
「スパッツ履いてます」
「そういう問題じゃない」
まったく口うるさい男である。仕方なくソファに上げた足を戻そうと足を動かす。その際につい五代の腰を蹴ってしまった。
「ななちゃん?」
「不可抗力です」
にっこり笑った五代が、ななの足首をつかむ。
リビングのドアが開いたのはその時だった。
部屋に入ってきた西山さんは、いつも通り、すでにエプロン姿だった。ななと五代の姿を見て、彼女が一瞬目を見張る。
「失礼しました」
西山さんは素早くドアを閉めた。
五代はななの足から手を放して立ち上がると、さっとそのドアを開いて西山さんを迎え入れる。
「おはようございます、西山さん。どうぞお入りください」
「いえ、その……お取込み中のところ失礼いたしました」
「大丈夫です。どうぞ」
五代がにこやかに応対しているのを聞きながら、ななも立ち上がった。テレビの電源を切る。緩んでしまったアンディのリボンを結び直して、五代と自分の分のマグカップをダイニングテーブルに運ぶ。
五代はななに目配せをすると、西山さんと入れ違いに廊下に出た。
「ななちゃん、先に始めてて」
リビングの扉が閉まる。五代の足音が遠ざかっていった。
西山さんが振り返る前に、ななは彼女の注意を引き、ダイニングテーブルに座るように言った。
「西山さん、ちょっと契約の見直しをしたくて」
「契約ですか?」
「うん。今まで週一回だったけど、月に一回にしようかなって」
「それは……」
キッチン側の椅子に座った西山さんは、顔を曇らせる。
いつも通り、西山さんは綺麗なメイクをしている。ななが幼い頃からずっと世話をされてきたが、昔からほとんど容姿は変わっていないように思える。
「急に月一にしたら西山さんも困るだろうから、まずは隔週に一回くらいにさせてくれると嬉しい」
「……五代様にそうしようと言われたのですか?」
「五代さんは関係ないよ」
西山さんは、ななの様子をじっと見つめた。その目が一瞬だけ、廊下に繋がる扉に動いた。擦りガラスに人影は見えない。
「お嬢様は、五代様を信用しすぎではないでしょうか。たしかに見目が良く、ご職業も大変立派な方ではありますが、お嬢様を任せるに足る方だとは思えません」
だから、五代は関係ないと言っているのに。
テーブルに置いたマグカップの片方を見る。ブラックコーヒーが半分ほど残っていた。
「どうしてそう思うの?」
カプチーノを一口飲む。そういえば、この味が決め手で五代に契約結婚を持ちかけたことを思い出した。西山さんが淹れたカプチーノよりも美味しかったから。
質問したことで、西山さんの表情が少し明るくなった。
「簡単なことです。五代様が結婚する前から、複数の女性と不誠実な関係を結んでいらっしゃるからです」
「え。五代さんのこと、前から知ってたの?」
「はい」
なんと。ななは驚いた。でも、そうか——初めて西山さんが五代と会った時、彼女は五代を見て苛烈なことを言ったのだ。まだ彼と挨拶も交わしていなかったのに。職務に忠実なだけだと思っていたが、五代のクズさを以前から知っていたというのであれば、当然な対応をしていたのかもしれない。
「いったいどこで?」
「孫の一人が県警の第一課に勤めておりまして」
孫? 県警の第一課?
「まだ新米ですが、先輩の刑事と一緒に、五代様とお仕事をすることが多いようです」
西山さんは以前から孫を通じて、五代の容姿や仕事ぶり、派手な女性関係について聞いていたらしい。そんな男をななが彼氏として紹介してきた時には驚いたのだという。その日のうちに孫へ確認を取り、あの五代雅通で間違いないと確証を得たそうだ。
「失礼ながら、五代様の過去の女性関係を調べさせていただきました。ななお嬢様が交際を開始したと主張する時期、少なくとも五代様には三、四人程度、他に女性の気配があります」
よく調べたものである。
ななは内心で五代に唾を吐いた。あのクズめ。おまえのせいで話が少しややこしくなってきたぞ。
「私は強く、お嬢様が騙されているのではないかと疑いました。ですので、旦那様にご報告に上がろうとしたのですが……」
西山さんが大きくため息をつく。
「それよりも早く、お二人が結婚してしまわれて……」
ななは、過去の自分たちの早急な動きを褒めたたえた。あと少しでも遅かったら、先に西山さんの調査報告書が父に上がっていたわけだ。もしそうなっていたら、ななは今頃、こんな自由な生活はできていなかったかもしれない。
「ななお嬢様。五代様は、お嬢様にふさわしくありません。もしも私との契約を見直すように五代様に言われたのだとすれば、どうかご一考してください。ななお嬢様を友成家から引きはがそうとしているとしか思えません」
「西山さん」
ななは声をかけた。西山さんは真剣な表情をしている。強い視線だった。ななはテーブルの上で手を組んだ。
「五代さんがクズなのはとっくに知ってた。その上で、私が結婚を申し込んだんだよ」
それを聞いて、西山さんの顔色が変わる。
「ななお嬢様、どうして」
「まあ便利だったし」
少しの間、無音だった。三秒……四秒。たっぷりと五秒挟んで、西山さんの口が開く。
「……便利、でございますか?」
「うん。家事なんでもできるし、美味しいごはん作ってくれるし、アンディをお風呂に入れてくれる。カプチーノのラテアートも上手だよ」
ななはスマホを起動すると、「ほら」と今までに五代が描いたラテアートの写真集を見せた。
「話も面白いよ。一緒にいてストレス感じることもない。時々口うるさいと思うときはあるけど」
固定観念が強いところはマイナスではあるが、それも個性だと思えば、まあ我慢できる。結婚には妥協も必要だと言うし。
「西山さん。私はもう友成家のななじゃない。五代さんと結婚して、五代ななになった。自分勝手に生きることに決めたの」
「お嬢様、旦那様は」
わかっている。ななはうなずいた。
「お父さんが私のことを愛してくれてることは知ってる。だから余計に、友成から出たかった。私は大丈夫だって証明したかったから、結婚したんだ」
相手が五代だったのは偶然で、開けてみたらクズだったけど。
でもななは、五代と結婚したことを後悔していない。
言葉を失った西山さんを見た後、ななは廊下に繋がるドアに目をやった。
「それで、そろそろ入ってきたらどうですか、五代さん」
磨りガラスの扉なのだ。少し前から、そこに姿が映っているのは見えていた。
五代はバツが悪そうな顔で入ってきた。手に郵便物を持っている。それをテーブルに置くと、彼はななの隣に座った。
郵便物の中に、白い封筒があった。
西山さんの顔色が青くなった。




