第二十六話 知っている
五代が固まった隙に、ななは身を乗り出した。皿に半分残ったパルミジャーナをガッとすくい、自分の取り皿に乗せてサッと自席に座る。五代の分は最初の四分の一程度になってしまったが、仕方がないだろう。さっさと食べなかった五代が悪いのだ。
「犯人を知ってるって、どういうこと?」
残り少なくなった皿は目に入っているだろうに、五代は何も言及せずななを見た。
ななは少し冷め始めたパルミジャーナの最後の一口を味わってから、ミネラルウォーターを飲み干した。口の中はすっきりしたが、胃が重く感じる。立ち上がると、はち切れそうなくらいにぽっこりお腹が膨らんでいる。食べすぎた。料理が美味しすぎるのがいけない。
ななはよろよろとリビングのソファまで歩くと、腹を上にして、アンディにもたれかかった。テレビには、夕飯前まで見ていた映画が一時停止のまま映っている。
「ななちゃん」
追ってきた五代に、ななは無言で腹をさすって見せた。彼が呆れたようにため息をつく。
「だから言ったのに。自業自得だよ、まったく」
彼はキッチンまで戻ると、水を入れたコップを持ってきた。テレビ台の下の救急箱から胃薬を取り出して、「落ち着いたら飲んで」と水と一緒にテーブルに置く。
なながふうふうと苦しんでいるのを見て、五代は先に食事を終わらせることにしたようだった。ダイニングに戻って、もうほとんど冷たくなっているであろうピザを一切れ食べる。しかし集中することができなかったらしく、残りは片付け始めた。なんてもったいないことを。五代が食べないなら自分が全部食べてあげたいくらいだったが、胃はもう無理だと訴えていた。
五代はサランラップで残ったピザを一切れずつ包んで冷凍庫に入れた後、ペンネ・アラビアータやパルミジャーナの残りもすべてラップして冷蔵庫へ押し込んでいる。テーブルの皿が全部引かれて、ジャーと水を流す音が聞こえてきた。
腹をさすりながら、天井を見上げる。だめだ、しばらく一歩も動けそうにない。
うんうん唸っている間に、五代はキッチンの後片付けを終えたようだった。エスプレッソマシンの起動音がしている。やがてコーヒーのいい香りが流れてきた。
「ななちゃん、大丈夫?」
リビングに戻ってきた五代は、マグカップをひとつしか持っていなかった。
「私のカプチーノは……」
「そんなお腹で飲めないでしょ」
その通りではあるが、食後にカプチーノを飲むのが習慣になっている。コーヒーを飲む五代を恨めしく見ながら、胃薬を水で流し込む。早く効いてくれますように。
「それで、犯人を知ってるって話だったけど……」
五代はソファに座った。ななの足が乗っている方が沈む。
「もしかしてななちゃん、犯人を最初から知っていた?」
ほう、と五代と目を合わせる。怜悧な瞳が、じっとななを見下ろしていた。
「そうですね」
うなずくと、五代は「そう……」と視線を落として、何かを考え込むように黙った。
リビングに沈黙が落ちる。映画を一時停止したままなので、五代が黙ってしまうと全くの無音だった。なんだか落ち着かない。
「何も聞かないんですか」
ななは思わず聞いていた。
五代の考えていることはよくわからない。以前は、ななに「外に出るな」と言い父に連絡して管理してこようとした。なのにこの間は、母のことは「無理に話さなくてもいい」と言う。ななの嫌がることを理解したということなのか、それとも別に何か狙いがあるのか。
頭の回転が速い男だからこそ、思考回路が見えないことが不気味だった。
「ん? うーん、そうだね……」
五代は一口コーヒーを飲んでから、言葉を選ぶようにゆっくりと言った。
「じゃあ、どうして今まで黙ってたの?」
じゃあ、ってなんだ。何となくそれに苛立つ。
「だって、私の事情ですし」
「僕を頼ろうとか、巻き込もうとか、考えなかったの?」
頼る? 巻き込む?
眉をひそめると、五代とまた目が合った。彼は苦笑していた。
「僕ってそんなに信用なかったんだ」
「知り合ったばかりの人を信用できると思います?」
しかも、女関係でトラブルを起こして家を失った男だ。
「まあそれはそうか」
五代は納得しながらも、
「でもそんな男に契約結婚持ちかけたのはきみだからね」
と釘を刺してくるのも忘れなかった。それもその通りだ。
ただ、そろそろ半年になる共同生活を経て、ななもある程度は五代のことがわかってきた。当初よりは、少し信用できると思う。
「まあいいや」
五代が話を区切るように、マグカップをテーブルに置いた。
「それでどうしようか。僕としては、さっさと犯人と話をして片をつけたいと思うんだけど、ななちゃんはどうしたい?」
「片をつける?」
五代は「そう」とうなずいて、キッチンの方をちらと見る。作業台の上の卓上カレンダーに目をやったようだった。
「問題がないなら、その日に有休を取るよ。僕も同席するから、事情を聞いて盗撮をやめてもらおう。場合によっては契約を見直して——」
「ま、待ってください」
ななは声を上げた。アンディから身を起こす。
「急に何を言い出すんですか。まだ犯人だって教えてないのに」
「西山さんだよね」
五代はさらりと言った。そのあまりの抑揚のなさに呆然とする。
「……知ってたんですか」
本当は最初から知っていて、からかっていたのか。目を吊り上げると、そこで初めて五代は慌てたように首を振った。
「いや、知らなかったよ」
「じゃあなんで」
「きみが最初から犯人を知っていたって言ったから、推測した」
意味がわからない。目を細めてにらみつけると、五代は肩をすくめた。
「半年近くきみと暮らしてきたからね。ある程度ななちゃんのことは知ってる。生活力が皆無なこと。父親からの管理を嫌っていること。アンディに依存していること。対人関係が狭いこと」
彼の視線が、アンディに向く。何となくかばうように、アンディにしがみついた。
「きみは盗撮写真を、僕だけじゃなく、信用の置ける親友の久世さんにも、もちろん警察にも相談していない。最初から犯人を知っていたのなら、話は簡単だ。他の誰にも相談しなかった。あるいは、できなかった。きみの生活を幼い頃から支えてきた人物。家政婦の西山さん以外に、僕は当てはまる人物を知らない」
ぎゅうっとアンディを抱きしめる。
五代はそれ以上追及してこなかった。コーヒーを飲んでいる音が聞こえる。
正直、五代という男をなめていた。医師免許を取りながら、臨床ではなく法医学という分野に進んだ男だ。もっと警戒してしかるべきだった。
ふいにソファにかかっていた重みがなくなる。五代が立ったのだ。ななはアンディに顔を突っ込んだまま動かなかった。
やがて、キッチンの方で機械音が聞こえてきた。エスプレッソマシンの音、それから冷蔵庫の開け閉め。液体を注ぐ音、スチーム音——カプチーノを作るときの音だ。
ななは顔を上げた。ふわりと濃厚な香りが漂ってくる。ソファに座り直す。胃薬が効いてきたのか、腹の苦しさはずいぶんましになっている。テーブルには、五代の飲みかけのコーヒーが置かれたままだった。
キッチンで五代が作業をしている。ラテアートをしているときの手つきだ。ななはそれを見て、ひとつ息をついた。アンディの肩に頭を寄せ、彼にだけ聞こえる声でつぶやく。
「アンディ……私、だいぶ毒されているのかなあ」
今日はどんなラテアートが描かれるのだろう。
アンディの黒々とした目が、止まった映画の画面を映し出していた。




