第二十五話 相性
約束の店に着いたのは、七時十五分頃だった。
「なな、こっち!」
ちょうど夕食時だ。店は混んでいる。奥のテーブル席についていた鞠子が手を振っていた。その隣で控えめに手を挙げたのは貴仁だ。彼が来るとは聞いていなかったが、今までも何度か、急に合流することがあった。今回もそうなのだろう。
「鞠子、遅れてごめん。貴仁さん、こんばんは。仕事帰りですか?」
「こんばんは、ななさん。そう、自分も五分くらい前に着いたところなんだ」
貴仁はクールビズのビジネススタイルだった。涼やかでよろしい。五代のスリーピースは見ているだけで暑苦しいから、貴仁の格好は好感が持てた。
ななは鞠子の対面に座った。テーブルには久世兄妹の飲み物が既に置かれている。自分も飲み物を頼もうと、メニューを手に取った。
「なな、五代先生は?」
「駐車場探してる。近くの駐車場が全部埋まってたから」
離れた場所に停めることになるかもしれないからと、先に降ろしてもらった。道も混んでいたし、少しかかるのではないだろうか。
「今日、咲さんの試写会に行ったんでしょう? ななが咲さん出演の映画を観に行くの、珍しいわね」
鞠子がストローで、グラスに入った飲み物をかき混ぜた。氷がカラカラと音を立てる。柑橘系だろうか、薄い黄色の飲み物だ。
「五代さんが来てくれるって言ったから。鞠子、それ何?」
「カラマンシーのジュース。フィリピンの柑橘類よ」
「飲んだことない。私もそれにする」
初めてのものは、まずは味わってみるのが鉄則である。店員を呼んで、カラマンシージュースを注文した。
「五代さんと仲がいいんだね」
貴仁に言われて、ななは一回瞬いた。
仲がいい?
「普通だと思いますけど」
特別なことは何もしていない。五代とは契約通りの関係だった。大変便利な存在であることは認めるが。
「ななは五代先生と喧嘩したりするの?」
「よくするよ」
「えっ、たとえば?」
「床にこぼした牛乳をそのままにしてて叱られたし、ポケットにティッシュ入れたまま洗濯物に出しちゃったときは後始末の手伝いさせられたし、寝てる五代さんをベッドから蹴り落としてしまったときはだいぶ怒られた」
「喧嘩っていうか、やらかしじゃない……?」
鞠子と貴仁が微妙な顔をしていた。
ちょうどカラマンシージュースが運ばれてきた。ななは早速ストローを突っ込んでかき混ぜ、それを飲んでみた。酸っぱい。でもサッパリして美味しい。夏の味だ。
先ほど挙げたような小さなものではなく、一度だけ本気で喧嘩したことはあった。あのときは一週間ほど冷戦状態になったが、なぜかいつの間にか雪解けしていたように思う。
……そういえば、五代の態度がおかしくなったのは、それ以降だ。いったい彼に何があったのだろうか。
「幸せそうだね。ちょっとうらやましいな」
貴仁の言葉に、隣の鞠子がうんうんとうなずく。
「相性良さそうだよね、五代先生となな」
相性。
ふむ、とななは最近の生活を振り返った。
五代との間に愛はないが、言われてみると相性はいいのかもしれない。彼はななの生活を脅かさない。細かくて口うるさいのは瑕ではあったが、それ以上に便利さが勝つので気にならない。
先日はアンディの入浴までこなしてしまった。業者に頼むと最低でも十日はアンディと離れなければならないところ、五代に頼めばたった二日で済んだ。奇跡である。
「……たしかに、五代さんがいないと、もう生きていけないかも」
ズズッとストローを吸い上げる。カランと氷の音が鳴った。
顔を上げると、再び久世兄妹がなんともいえない顔をしていた。いったい何なのか。
五代が店に入ってくるのが見えた。ななは料理のメニューを広げる。知らない料理名が多い。どんな味がするのか、今から楽しみだった。
***
マンション放火事件の容疑者は逮捕された。容疑者の女性は記憶喪失を主張しており、精神鑑定や裁判の手続きが面倒なことになっているらしい。
……ということを、ななは五代から聞かされていた。
今宵の夕飯はイタリアンだ。マルゲリータピザと、ペンネ・アラビアータ、そして茄子のパルミジャーナとサラダ。すべて五代が作った。何となくイタリアンが食べたい、と朝のうちに言っておいたら、夕方にはキッチンのオーブンから香ばしい匂いが流れてきていた。週末だから暇を持て余していたのかもしれないが、すばらしく便利な夫である。
「春日さんを咲さんが保護したのが火事の当日夜中。いつ怪我をしたのかは不明だけど、頭部に傷があって、それが原因で記憶喪失になったみたいだね。……ななちゃん、聞いてる?」
ピザにかぶりつきながら、ななはうなずいた。嘘だ。あまり聞いてない。トマトソースの酸味とバジルの爽やかな香りがたまらない。モッツァレラチーズのコクと、サクサクの生地の相性が抜群だった。うまし。
五代は息をついて、空になったななのグラスに炭酸入りのミネラルウォーターを注いだ。
「まあ、僕が知ってる春日さんとは全然雰囲気が違ってたし、それは彼女の家族からも証言が出てるから、記憶喪失って鑑定は出そうだけど……」
五代はサラダを一口食べる。考え事をしているのか、食べる速度は遅い。このままではピザがすべてななの胃袋に収まってしまうが、構わないのだろうか。さすがにそれは怒られるかなと思いながら、ななは五ピース目を口の中に入れた。せめてもの情けだ、残り三ピースは残してあげることにした。
指についたソースをなめていると、五代がウェットティッシュの蓋を開けて寄越した。一枚引き抜き、手を綺麗にする。
ちらと五代の方の皿を見てから、ななはフォークを手に取った。ななは前菜のサラダをとっくに食べてしまったが、五代の皿にはまだ半分も残っている。食事時に考え事だなんて、料理に不誠実である。
「何か気になることでもあるんですか」
取り皿にペンネ・アラビアータをざっと分けてから、早速口の中に入れた。ピリッとした刺激が舌を刺したが、辛すぎるほどではなかった。好みの味付けだ。
五代がうーんと唸った。
「整合性が取れないと思って」
「整合性?」
水を飲んで、またペンネの食事に戻る。瞬く間に取り皿分のペンネがなくなったので、再び盛り皿に手を伸ばした。五代のペンネが半分未満の量になってしまったような気がするが、目の錯覚かもしれない。
「火事の夜から記憶喪失なら、ななちゃんと僕を盗撮してたのは春日さんじゃない。でも、彼女以外にあんなことをする動機を持つ人物もいない」
五代がサラダのきゅうりをフォークで刺した。ななはそれを見ながら、柔らかなペンネを二本一気に刺して、口に吸いこんだ。もちもちしつつも、つるっとした食感。いくらでも食べられそうである。
「やっぱり大学の裏サイト関係者が犯人かな。そっちも通報してはいるけど。……ななちゃん、ちょっと食べすぎじゃない?」
五代の目が細められた。
「今朝起きるのが遅かったせいで、一食しか食べてませんから。大丈夫です、まだ食べられます」
「そんなこと聞いてないんだけど。僕の分まで食べないで」
「五代さんがよくわかんないこと言って、食べるの遅すぎるのがいけないんです」
「わからないことはないでしょ。あっ、待って、グラタンは僕が分けるから!」
パルミジャーナ用のスプーンを奪われた。ななの取り皿に、きっちりと分けられていく。計りを使っているわけではないが、目視ではどう見ても等分だった。なんて細かい男だ。
「五代さん。私の分、もうちょっと多くてもいいんですよ」
「ピザもペンネも多めに食べたでしょ」
五代は譲らなかった。狭量だ。ななはスプーンですくったチーズと茄子をぱくりと口に入れた。トロトロでほくほくだ。幸せな気分になる。
ななの食事風景を見ながら、五代が食べるスピードを上げた。最初からそうしておけばいいのに。大体、変なことを色々と考えすぎなのだ。もっと単純に考えればいいのに。
自分の分のパルミジャーナをほとんど食べきってから、ななは五代の分をじっと見た。
「あげないよ」
「まだ何も言ってません」
「言う気だったんでしょ」
「ちょっとだけください」
「あげないって」
「あとちょっとだけ! くれたらいいことを教えてあげますから」
「いいこと?」
五代は片眉を上げる。よし釣れた。
ななは空になった自分の取り皿を五代の方に寄せた。
「盗撮の犯人、私知ってますよ」




