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クズの分別~五代夫妻は度し難い~  作者: 梨千子
第四章

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第二十四話 拾った女

 春日?


 どこかで聞いたような気がするが、思い出せない。女性の顔をよく見ようとしたところ、さっと横に五代の腕が広がって遮られた。五代の横顔が、厳しい表情を浮かべている。


「春日さん、どうしてここに……」


 五代の言葉に、女性は驚いたような声を上げた。


「ええと、どなたですか?」

「は?」


 五代は戸惑った様子だった。


「春日さん、だよね?」

「ええ。春日と書いてハルヒと読みますが……」


 女性が認めたところで、横から声がかかる。


「あら、なな。元気になったの?」


 母の声。ななは、隙をついて五代の腕の下をくぐった。「ちょっと、ななちゃん」という声を無視する。


 ハーフアップの女性の顔をもう一度確認したが、やはり見覚えはない顔だった。母がその隣に並ぶ。顔を隠すためにかサングラスをかけていた。てっきり帰ったと思っていたが、そうではなかったらしい。


「突然吐いて倒れるからびっくりしちゃった。あなたのことだからまた食べすぎたのかしら。大したことなくてよかったわ」


 母はサングラスの縁に指をやって位置を調整すると、五代が春日と呼んだ女性に目をやった。


「ななの元気な顔も見れたし、春日(はるひ)ちゃん、そろそろ帰りましょう。明日のスケジュールに影響が出ちゃうわ」

「はい、咲さん。すみませんが急いでいますので、失礼します」


 二人は知り合いのようだった。春日は素直にうなずき、歩き出した。

 五代が慌てた様子で声をかけた。


「ちょっと待ってください。咲さん、その人は——」


 反応したのは母の方だった。春日の肩に手を置き、五代にふふっと笑いかける。


「かわいいでしょう。私の付き人をやってもらってるの。五カ月くらい前に拾ったのよ」

「拾った? 付き人?」

「ええ。泥だらけ、傷だらけで山の中をふらふらと歩いていたのよ。着の身着のままで、ハルヒって名前しか覚えていなくて。かわいそうだから、付き人に雇ったのよ」


 つまりは記憶喪失ということだろうか。ななは春日を見た。彼女は二十代後半くらいに見えた。若い身空で気の毒な話だ。


「咲さんに拾っていただかなかったら、あのまま死んでいたかもしれません。私の身元がわかるまで保護してくださっただけでなく、雇ってもくださって。とても感謝しているんです」


 恐縮した様子の春日の隣で、母は微笑んでいた。サングラスの下の目は見えなかったが、ぎらぎらと輝いているんだろう。記憶喪失の人物なんて、母にとったら絶好の観察対象だ。

 春日は五代に目をやると、頭を下げて言った。


「そういうわけですので。もし過去の私と知り合いでしたら大変申し訳ありません。よかったら後日お話をさせてください」


 五代は何も返さなかった。珍しい。基本、この男は他人には社交的なはずなのだが。フィリピン料理が控えているので、できるだけ早く無難に別れたいのに。


 ななは彼の顔を見上げた。その横顔は相変わらず硬い。


「五代さん?」


 声をかけると、五代はわずかに身じろぎして、ななに視線を流した。なんだか少しだけ顔色が悪い。


 もしかして。ななは春日に再度目をやった。なかなかの美人さんだ。五代は記憶を失う前の彼女のことを知っているらしい。となれば……。


 ななは五代だけに聞こえるようにそっと囁いた。


「もしかして、五代さんの昔の恋人だったりしますか」


 一夜の相手だのヒモだの、とにかくこの男には女の影がついて回っている。その中の一人だったのかもしれない。だとすれば、記憶喪失と聞いてショックを受けるのもわかる。


「いや……恋人じゃないよ」


 しかし、五代は首を振った。彼はひとつ息をつくと、春日に再度顔を向けて、彼女にも聞こえるように言った。


「春日さんは、僕のマンションを燃やして心中しようとした人だよ」


 おお……なるほど。


 ななは、五カ月前の冬の夜を思い出した。五代を拾った日だ。たしかに彼は言っていた。女に放火された上、包丁を向けられて殺されかけたと。あのエキセントリックな犯人がまさか目の前の人だとは。


「え?」


 ただ、春日は五代に言われたことを理解できないようだった。記憶喪失だというから、それはそうなのだろう。


「心中? まあ、春日ちゃんが? 本当なの?」


 母が声を上げた。きっと今ので、春日は確実に、さらに興味をそそる観察対象として認定されたことだろう。お気の毒だ。


「えっ、ええ? マンションを燃やして、心中——私がですか?」


 春日の顔から血の気が引いていく。その混乱した様子は真実味があった。もし記憶喪失を演じているのだとしたら、母顔負けの大女優だ。

 五代はじっと彼女の様子を探るような目で見ていたが、やがてふと右手の腕時計を確認して、ななに呼びかけた。


「……ななちゃん。そろそろ出ないと間に合わないかも」


 はっとした。いけない。フィリピン料理の危機だ。


「急ぎましょう五代さん。フィリピン料理……じゃなかった、鞠子との約束に間に合いません」


 ななは五代の腕をつかむと、廊下に出た。駐車場はどっちだ。現在位置がわからず辺りを見回すと、五代の手が肩に回って進む方向に向かせてくれた。


「すみません。先約があるので失礼します。また後日、連絡しますので」

「ええ、また会いましょう、五代先生。次に会うときは法医学のお話を聞かせてくださらなきゃいやよ」


 五代は母と言葉を交わすと、ななの背中を押した。


 地下の駐車場まで最短距離で辿り着く。車に乗り込んでから、五代は思い出したようにレザートートからななのバッグを取り出した。預かってくれていたらしい。すっかり忘れていた。


 早速かばんからスマホを取り出した。時刻は六時前だった。シートベルトを締めてから、鞠子に少し遅れるかもしれないとメッセージを打つ。


「春日さんのこと、どうするんですか?」


 ななは隣の運転席を見た。五代がカーナビの操作をしている。あらかじめ目的地の住所は登録してあったらしい。すぐに案内が始まった。


「警察に通報するよ」


 彼の回答はあっさりしたものだった。

 以前マンションを燃やされたと聞かされた時に思ったが、この男はどこか危機感が欠如している。普段はとても高スペックな男なのに、女関係だけ突然IQが低くなるのは、やはりクズだからだろうか。


 車が動き出す。ななはそっと胃のあたりを撫でた。すべて吐き戻して空っぽなせいか、急にお腹が空いてきた。何か軽く食べられるものを買ってくればよかった。


 駐車場の出口は、数台の車が列を作っていた。最後尾に車をつけると、五代がトートバッグをななに差し出してくる。


「中にチョコレート入ってるから、食べていいよ」

「チョコ!」


 即、鞄に手を突っ込む。一口サイズのミルクチョコレートがいくつか出てきた。ガサガサと個包装を破って、口の中に入れる。暑さで少し柔らかくなっていたが、気にならなかった。うまし。


 しかし、なぜチョコレートなんて持っているんだろうか。家でお菓子を食べる五代は見たことがないが。


「まさか女を口説くアイテム……」

「違うからね? 低血糖対策で持ち歩いてるだけだから」


 なんだ、違うのか。

 二つ目の包装を開けて、口に放り込む。


 駐車場を出た後は、市街地を走る。カーナビが、目的地の到着時間を七時ちょうどと予想していた。やはり少し遅れそうだ。スマホを見ると、鞠子からメッセージが返ってきている。


『了解。こっちは大丈夫。安全運転で、気をつけて来てね』


 ななはそれに既読をつけてから、横目で五代を見た。


「記憶喪失でも春日さん、捕まるんですか」


 三百メートル先、交差点を右折です。カーナビのお姉さんの声が割って入る。


「そうだね。取り調べされるんじゃないかな」

「五代さんのことだから、『記憶がないなら、もういいです』って言うと思いました」


 交差点が見えた。信号は赤だ。カチカチと右折のウインカーの音がして、一番右側のレーンに入る。そのまま最前列で車が停止した。


 三つ目のチョコレートの包装を開ける。もぐもぐと食べながら、四つ目がないかどうか鞄の中を探った。残念ながら今のが最後のひとつだったらしい。あとは財布と名刺入れ、スマホ、試写会でもらった非売品のパンフレット、そしてミネラルウォーターのペットボトルしかない。水は、さっきななが救護室で飲んでいたやつだった。どこかに置いてきたと思っていたが、ちゃんと回収してくれていたようだ。五代雅通、便利だ。


「……確かに、今までの僕なら『もういい』で終わってたかもね」


 ペットボトルのキャップを開いたところで、五代がつぶやいた。なんだか少しだけ、しおしおとした声だった。


 もしかしたらようやく自分のクズ度がわかったのかもしれない。だとすると大きな成長だが……。


「何か心境の変化でもあったんですか?」

「ななちゃんのせいだよ」

「私?」


 水を一口飲んで、首をかしげる。はて。五代に何かしただろうか。記憶がない。


「言ったでしょ。『だからクズなんだ』って」

「……ああ」


 五代と結婚したとわかって、鞠子がうちに遊びに来たときか。懐かしい。


「そういえばそんなことがあったような気がします」

「人の口に噛みついといて、忘れないでくれる? 切れて一週間は食事しづらかったんだけど」

「ファーストキスはレモンの味なんて嘘ですね。とんだ血の味でした」


 もう一口水を飲んでから、キャップの蓋をした。視線を感じて隣を見れば、五代と目が合った。なぜか顔をしかめている。


「なんですか」

「いや……」


 ふいと目を逸らされた。ちょうど信号が青になった。車が前進する。対向の直進車が次々と走ってきて、交差点の半ばで停まる。右折できるまで時間がかかりそうだった。


 しばらくして、五代は苦々しく言った。


「……普通、女の子にとってファーストキスって、一大イベントじゃないの? あんなあっさり、やっちゃっていいの?」

「五代さん。普通なんて存在しないんです。固定観念ですよ。おじさんくさいからやめましょう」


 五代は黙った。


 カーナビの到着予想時刻が、七時一分に伸びた。

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