第二十三話 完璧な母親
天道咲は、完璧な母親だった。
少なくともななの知る咲は、美しく教養にあふれ、慈愛に満ちていた。欠点といえば多忙で家にほとんどいなかったことと、帰ったかと思えばシアタールームにこもっていたことだろう。
「初めまして、天道咲です」
試写会と舞台挨拶の後に会った母は、子供が二人いるとは思えないくらい綺麗だった。透け感のあるロングスカートのワンピースがとても似合っている。もう五十代のはずだが、衣装と化粧のせいで三十代に見えた。母にしろ西山さんにしろ、若作りしすぎだ。
母は待機部屋を一室まるごと与えられていた。キャスター付きの大きな姿見や、ポットとティーカップセットまで用意されている。さすがは大女優だ。忖度されている。
「初めまして、五代雅通です」
母は五代を見て、目を丸くした。
「まあ……」
開いた口を手で隠し、五代を見上げる。
「なな、こんないい男、どこで捕まえたの?」
母は五代の周りをぐるぐる回りながら、じっくりと彼を観察している。
今日の五代はスーツではなくジャケットスタイルだ。白シャツに濃紺のテーラードジャケット、チャコールのスラックス、腕時計はいつものスイス製のやつだ。シャツはそのへんの店で数千円で買ったやつだが、五代が着ると数万円くらいのものに見えた。やはりイケメンは正義なのだろうか。
「ゴミ捨て場で拾いました。野生育ちです」
「五代さん、あなた芸能界に興味はない?」
「残念ながらまったく」
「惜しいわ。その顔なら天下を狙えるのに」
片頬に手を当て、彼女はため息をつく。
「にしても、なな。あなた面食いだったのねえ」
違う。拾った男が美形だっただけだ。拾った当初は煤まみれで、顔の造作なんてわからなかった。断じて面食いではない。
……とはいえ、美しくて悪いことは何もない。見ていて楽しい方がいいのはその通りである。五代が目の保養になるのは事実だった。
なながそう考えているうちに、五代は名刺交換と手土産を渡して、母の連絡先を手に入れていた。
「美形の息子ができたわー。五代さん、また改めて連絡させてもらうわね」
母は手土産をテーブルに置いてから五代の名刺に視線を落とし、「あら」と首をかしげた。
「あなた、お医者様?」
わずかに声の高さが変わった。
「はい。臨床医ではありませんが」
「すばらしいわね。ぜひ、お話をうかがいたいわ。もっと静かな場所で、この後、どうかしら?」
ななは、足元に視線を落とした。母のまとうロングスカートは黒で、裾から同じ色の、エナメルの靴先が見えている。光を反射してぴかぴか光っていた。スカートがひるがえって、その靴先が、五代の黒い革靴と触れ合うほど近づく。香水の匂いが届いた。
「法医学者の先生のお話に大変興味があるの。お仕事の内容や、考え方や……あとはプライベートの過ごし方もかしら。ななとの生活はどうなの、五代先生?」
ななはそっとむき出しの右腕をさすった。立っている場所が、ちょうど冷房の風が吹きつけるところだった。右腕が冷たくなっている。
急に距離を詰めてきた母に、五代が戸惑ったように後退した。しかし、あの状態に一度入った母はとてもしつこくなる。案の定、五代の足の間に靴先がついていった。
「天道さん。ちょっと、近い——」
「そんな他人行儀な呼び方。あなたは私の息子になったんだから、遠慮しなくていいのよ」
「いえ、息子の距離じゃないですから」
「ええ、そうね。血は繋がっていないものね。こんなに綺麗な顔をしていて、お医者様なんて。素敵だわ、運命かしら」
「すみませんが、本日これから先約がありまして」
五代の言葉に、この後の鞠子との約束を思い出した。部屋の壁に備え付けられた時計を見ると、四時半を指し示していた。待ち合わせは七時だ。
そっと胃のあたりを撫でる。隣のショッピングモールの中にあるレストランで、昼食に食べたステーキが、まだ胃の中に残っている感覚がした。夕食までに消化しきれればいいのだが。
「ああ、そうなの。残念だわ。毎日山のように色んな役の脚本が来るの。私、医師本人と、医師の妻の役は演じたことがあるけれど、法医学者は経験がなくて。ぜひ協力していただきたいと思ったのに」
「……すみません。またの機会に」
「本当ね? 約束よ。息子は約束をしても平気で破って、全然会ってくれないの。五代先生は破らないでね」
ななは顔を上げた。
「お兄ちゃんがどこにいるか、わかったんですか?」
母の美しい顔が目に入る。その目は、五代に対する興味で輝いている。甘い香水の匂いがしていた。彼女はあっさりとうなずいた。
「あの子なら今ニューヨークにいるわ。言ってなかったかしら?」
ななは、とっさに口を覆った。母の横にいる五代の表情がさっと変わった。
「ななちゃん!」
ななは体をくの字に折った。駆け寄った五代の腕に支えられたが、堪らずそのまま、喉の奥からこみ上げてきたものを吐き出した。
「おえ」
なんてことだ。百グラムのステーキごときで胃もたれを起こして吐いてしまうとは。床に吐き出した肉の塊を見て、もったいなさに顔を歪める。嘔吐は止まらず、咳き込みながら何度も吐き戻した。
五代が母に何かを言って、母が慌てて部屋を出ていく。五代は目の前にいたから、ジャケットもシャツも、ななの吐いたもので汚れてしまっている。吐くのが苦しくて、自然と涙が出た。
「大丈夫だよ」
五代が何度もそう言って背中をさすってくれた気がするが、よくわからなかった。
***
気がつくと、ななはどこか知らない部屋のベッドで寝ていた。少し背中が痛い。マットレスが安物だ。
ぼんやりと辺りを見回すと、ベッドの脇で五代が椅子に座って、スマホを操作している。
「ななちゃん、起きた?」
ななが目を開けたことに気づいて、五代はスマホを仕舞った。手を伸ばして、こちらの首筋に手を当てたり、下まぶたを下げたり、まるで病院にいる医者のようなことをしてくる。
「気分は?」
そう言って、五代はペットボトルの水を差し出してきた。
「最悪です」
起き上がってそれを受け取る。キャップを開けようと力を入れたが、なぜか上手く回せなかった。代わりに五代が開けてくれた。便利だ。
「ここは? どのくらい寝てました?」
「施設の救護室。寝てたのは一時間未満だよ。今は五時半過ぎ」
五代は、腕時計の時間を見せた。七分袖の真新しい白いシャツを着ている。ななは水を一口飲んでから、手元に目を落とした。
「……服は?」
「気にしなくていいよ」
また買えばいいし、と軽く言われる。そうか、処分したのか……。ジャケットはなかなかのお値段がするブランド物だったと思うので、申し訳ないことをした。
ちびちびと水を飲む様子を、五代がじっと見ている。そんなに見つめなくても、もう吐くものは残っていない。
救護室は、さっき母に用意されていた部屋と同じような造りだった。ベッドが二台部屋に詰め込まれているが、片方は無人だ。母の姿はなく、五代と二人きりだった。
あの人のことだ。五代に任せられるとわかって、次の仕事のために帰ったのだろう。
「お母さん関連で吐いたのは初めて?」
五代はゆっくりと聞いた。まるで問診みたいな聞き方だ。
「先月、久世さんの家に僕が迎えにいった日。あの日も吐いて、熱を出して寝込んだ。きみは食べ過ぎたって言ってたけど、翌日に天道咲に会う予定があった」
ななは言葉に詰まった。何となくペットボトルで口をふさぐ。しかし、五代の視線は厳しい。どうやら許してくれなさそうだった。
「さらにその日、睡眠導入剤を飲んでいる。ななちゃん、かかりつけ医に聞いてもいいんだけど、まずはきみに確認させてほしい。母親とのイベントが近づくと、嘔吐や睡眠障害の症状が出ることがある?」
無視をしたかった。しかし、怖い顔でにらんでくる五代のシャツが地味にまぶしい。お亡くなりになったジャケットとシャツに黙祷をしてから、ななは息をついた。
「……はい」
「そっか。わかった」
五代が立ち上がった。黒いレザートートを持つと、もう一度腕時計で時間を確認する。
「動ける? ならそろそろ帰ろう」
あれ。ななは目を丸くして五代を見上げた。
「何も聞かないんですか」
てっきり根掘り葉掘り、事情を聞かれるのかと思っていた。
「話したいなら聞くけど、話したくないなら話さなくていいよ」
五代はそう言うと、ベッドの下からななのサンダルを引き出した。
「でも、次からお母さんに会うときは相談して。会いたくないなら会わなくていいし、会いたいけど一人が不安ならついていく」
目が合った。ふっと笑われた。
「一人のときに吐いて倒れたら大変でしょ」
ななは一度口を開きかけて、結局閉じた。頭の中で、よくわからない何かがぐるぐると回っていた。叫び出したいような、むずむずする感じだ。
勢いよく掛け布を蹴って、サンダルに足を突っ込む。
「五代さん、猛烈におなかが空いてきました」
「え」
「鞠子との待ち合わせ、まだ間に合いますよね。あ、勝手にキャンセルしてないですよね?」
先ほど五代が五時半過ぎと言っていた。待ち合わせ場所は少し離れているが、間に合わないこともないはずだ。
「キャンセルはしてないけど、食べられるの?」
「あのステーキにはとてもかわいそうなことをしました。せっかく私の血肉になるために美味しく調理されたのに、悔やんでも悔やみきれません。せめてフィリピン料理は食べてあげないと」
何せ初めて食べる料理なのだ。絶対にこの機会を逃すわけにはいかない。鞠子にまた心配をかけるわけにもいかないし。
五代は苦笑した後、部屋を出ようと扉に向かった。
「じゃあ早く出よう。道が混むかもしれないから」
そして扉を開けて——動きを止める。
「五代さん?」
ななは五代の背中に声をかけた。
五代は凍りついたように、その場から動かなくなった。突然なんなのか。ななは首をひねって、五代の体の横から扉の先を覗き込んだ。
扉の先の廊下に、女が立っていた。
長い髪をまとめ、ハーフアップにしている。ピンク色の口紅が特徴的だった。フェミニンなシアーブラウスに、すっきりしたベージュのパンツ。
「……春日さん」
五代が低く呟いた。




