第二十二話 待てができない
滅多に連絡してこない母親から、連絡があった。
珍しい。思い出したように一年に一度くらい連絡があって、その時に会う。いつも美味しいご飯をおごってくれるので、食事目当てだ。今年も先月に会って、ブラジル料理を食べたばかりだった。
メッセージアプリで送られてきたメッセージを見て、ななはたっぷり十秒考えてから、無視することにした。
大きなテレビ画面には、十年ほど前の映画が流れていた。女優を目指す女とピアニストの話だ。テストが終わって夏休みに入ったので、積み映画を消化しているところだ。
スマホをスリープモードにして、映画に集中する。が、どうもうまくいかなかった。スマホが気になって仕方がない。
時刻は午後の三時を回ったところだ。ななはリモコンを手に取ると、映画を一時停止して立ち上がった。
まっすぐお風呂場に向かい、扉を開ける。敷物のようになったアンディの皮が、浴槽のハンガーに吊るされていた。天井からは浴室乾燥機の温風が吹き付け、足元ではサーキュレーターが回っている。午後に一度裏返すようにと五代から言われていたので、アンディをよいしょとひっくり返した。もうほとんど乾いていたが、五代がいいと言うまで下ろさないように言われている。
扉を閉めると、脱衣所の端にたくさんのゴミ袋が寄せられていた。中身はすべて綿——アンディの中身である。
アンディをお風呂に入れるにあたって、五代はまず「そのままでは不可能」だと言った。全長二メートルほどもある巨大なテディベアだ。綿が水を吸って、一人では持ち上げられない重さになると。大昔にななが軽い気持ちで浴槽に沈めたときは、まさにそうなった。さすが法医学者だ。賢い。
五代が休みの日に、アンディに断りを入れて背中の縫い目を解き、中身の綿をすべて抜いた。皮だけになったアンディを五代が洗ったわけだが——五代曰く、それだけでも大変な重労働だったらしい。おしゃれ着用の洗剤と酸素系漂白剤を混ぜてお風呂の浴槽で足踏み洗いをし、ヘアコンディショナーをまるまる一本使ってすすぎを行ったのだとか。彼は二時間ほどお風呂場にこもっていた。浴室乾燥機とサーキュレーターを使って乾かし、毛並みがごわごわになってはいけないと、スリッカーブラシ——五代が買ってきたペット用のお手入れブラシ——で一時間ごとにアンディの毛を解きほぐしていた。実にほぼ丸一日をアンディで使った形だ。「次は業者に頼もう。二度とやりたくない」と、昨夜彼はソファに沈んでいた。数か月後に頼むときは、報酬の選定が重要そうだ。
小腹がすいたので、キッチンの冷蔵庫に向かう。五代が焼いた二種類のカヌレの残りをタッパーから出し、オーブンの中に放り込む。エスプレッソマシンの電源を入れた。カップを注ぎ口にセットして、スタートボタンを押す。チルド室に入っている別のタッパーを取り出して開けた。残り少ない生クリームが入っている。カヌレと一緒に食べよう。
冷たいままのミルクをドバドバと注ぎ込んでカフェオレにした。すっかり五代の淹れるカプチーノの味に慣れてしまい、たとえ暇を持て余していても自分で淹れようとは思わなくなってしまった。煙草やアルコール依存症になる人の気持ちが今ならわかる気がする。恐ろしい。
カフェオレとカヌレをリビングのテーブルに運ぶ。映画の一時停止を解除しようとリモコンに手を伸ばしたときだった。
ぽこん、とスマホから音が鳴った。メッセージアプリの通知。鞠子からだった。
『フィリピン料理のおいしいお店見つけたんだけど、明後日の夜、食べに行かない? よかったら五代さんも一緒に』
フィリピン料理?
ななは記憶を総動員した。インドネシア料理、タイ料理は数多く食べた記憶があったが、フィリピン料理は食べたことがないかもしれない。フィリピン……。
スリープモードを解除して、鞠子にスタンプを送る。アンディに見立てたテディベアのスタンプで「OK」と送ってから、鞠子からの最後の一文に気づいた。しまった。慌てて追加でメッセージを送る。
『私はOK。五代さんに今から聞いてみる』
アプリ内のトークの中から五代を探した。鞠子を除けば、なながメッセージのやり取りを頻繁に行っているのは彼と西山さんくらいだ。すぐに見つかった。母の名前の下に五代の名前がある。母から先ほど送られてきたメッセージがよぎった。返事をすべきか……。
ひとまず五代とのトークルームを表示させると、鞠子からのお誘いの内容を打ち込んで送った。
カヌレを食べる前に、カフェオレを一口飲む。ミルク温めるという手間を惜しんだせいで、とてもぬるい。フォークを握ったところで返信が来た。早い。
仕事柄、五代はなかなか返事ができない時がある。朝にメッセージを送っても、返ってくるのはお昼か、遅いときは夕方だ。そういう時は、解剖当番日と呼ばれる日らしい。五代が言うには、ほとんどずっと解剖室にこもっているのだとか。よくわからないが大変な仕事である。
五代からのOKスタンプを見て、ななはカヌレをつついた。母からのメッセージが、頭の隅でちらちらと点滅し続けている。とてもうざい。
「……五代さんに聞いてみる? 義理の母親だから関係なくないって言われちゃったしなー、どう思うアンディ?」
隣を見た。アンディはいなかった。そうだ、アンディは今お風呂場でリフレッシュ中だ。フォークでカヌレを突き刺した。そのまま一口分割ると、生クリームをつけて口に入れる。カヌレのカリッとした外側の部分と、中のふわっとした食感。そこに生クリームの冷たく甘い、口の中で溶けていく様子が混ざり合って、何とも言えない美味しさだ。これはリピート必須だ。ぜひまた作ってもらわねばならない。
もぐもぐと口を動かしながら、五代にメッセージを打った。とりあえず聞くだけ聞いてみるか、という精神である。
『さっき母から連絡が来たんですが』
続きの文章を打ち込んでいたところで、電話が鳴った。五代からだった。仕方なくスピーカーモードで応答ボタンを押す。
「はい」
『どんな連絡が来たの?』
開口一番、それだった。ちょうど今送ろうとしていたところだったのに、おとなしく「待て」ができないとは。
「試写会に招待されました」
『試写会?』
「母が出演している映画です」
『行くの?』
ななは、カヌレの残りをフォークで割った。一口サイズに刻んでは、皿の端っこへ寄せていく。プレーン味のカヌレは見事に千々になった。
『ななちゃん?』
黙り込んでいると、五代が声をかけてきた。ななは息をついて、口を開いた。
「試写会に招待されるなんて、初めてなんですよ。私が邦画あんまり見ないの知ってるのに。この間、結婚したって報告したからかなぁ……」
『行かなくていいよ』
五代が強く言った。
『いくら母親の出演映画だからって、無理して行くものじゃない。調子を崩すならなおさら』
「え……」
次につついていたショコラ味のカヌレが、ころんと転がった。電話口からため息が聞こえる。
『ななちゃん。一応僕は医師だよ。臨床医じゃないけどある程度はわかる。一緒に暮らしているんだから。睡眠導入剤を飲み始めたのは、天道咲さんと会ってからでしょう』
まずい。ばれていた。ななは思わず通話を切った。
もちろんすぐに、再び着信があった。ななはじっとスマホの画面を見つめた。なんだか手汗が出てきた。おかしい。五代雅通がなんだか怖い。彼はこんな男だっただろうか。
隣を見る。アンディはいない。それがとても恨めしい。お風呂なんて頼まなければよかった。
着信はある程度のところで、留守番電話に切り替わった。それで諦めてくれたのか、五代の着信は切れた。代わりにメッセージがぽこんと送られてくる。
『電話に出て』
もうひとつ、ぽこん。
『出なかったならアンディ元に戻さないから』
なんてクズだ! もはや電話に出るしか道はなかった。
静かに再び着信音が鳴って、ななは応答ボタンを押す。
『その試写会はいつ?』
また開口一番に、五代の質問があった。
「……明後日の午後二時」
ソファの上に足を上げ、体育座りをするような姿勢になる。
『明後日って水曜? 久世さんとの食事もその夜だよね』
五代は確認するように言うと、少しの間黙った。
彼の声が聞こえなくなると、小さなざわめきをマイクが拾い始めた。複数人の声、それから足音と風を切る音。はっきりとはわからないが、どうやら移動中らしい。
『その試写会の招待って、お願いしたら僕も行ける?』
「……それは、はい。というか、五代さんもぜひ一緒にって、二席確保してるみたいです」
『そう。なら手間が省けたね。ななちゃんが行くなら僕も行くよ』
「え? でも水曜ですよ」
祝日でもなんでもない平日だ。仕事があるはずだった。
五代はまた黙った。いや、通話口を遠ざけたらしい。少し小さくなった声で、誰かと会話している。アイダ、と呼びかける声が聞こえた。
ややして五代は通話に戻ってきた。
『その日有給取るから。お願いだから、行くとしても一人では絶対に行かないで。いいね』
「あ。……はい」
電話越しだというのに、強い圧力を感じた。ななは素直に頷いた。
その後電話は終わったが、なぜかとても落ち着かない気持ちになった。アンディがいないせいかもしれない。少なくともアンディが隣で応援してくれていれば、もっと戦えたはずだった。
生クリームが柔らかくなっていた。ななは、ショコラ味のカヌレを割った。一口サイズにしてから、生クリームをつけて食べる。美味しい。ショコラ味の方が好みだ。でもプレーンも飽きがこない味で好きだ。冷めたカフェオレを飲む。
母からのメッセージを表示した。試写会の案内と、映画紹介のURL。それから簡潔なメッセージ。
『夫くんとぜひ二人で観に来なさい』
よく使うスタンプ一覧を表示した。鞠子に送ったのと同様、「OK」のスタンプを送った。
一時停止していた映画の視聴を再開した。




