第二十一話 関係ない
五代の茄子の味噌辛炒め弁当の湯気が消えかけている。
ななはそれを見て、眉尻を下げた。まだほとんど口をつけていないのに、なんてもったいないことを。熱々で食べるのが美味しいのに。
「あの日相談したいことっていうのは、もしかしてそれだったの?」
五代が何かを聞いてきた。そんなことはいいから、さっさと残りを食べてほしい。
「……ななちゃん?」
「はい?」
ななは顔を上げた。五代が目を閉じて、眉間に手をやっていた。
「僕に、相談したいことがあったんだよね?」
ああ……、とななはうなずいた。
「それはもういいんです」
「よくない」
五代が食い気味に言った。
ななは思わず黙った。慌てたように、五代が言葉を重ねる。
「もともとは、僕への相談だったんでしょ。その、久世さんのお兄さんに相談してもう解決済みかもしれないけど、やっぱり気になるっていうか……」
なるほど。
ななは「わかりました」とうなずいてから、お弁当を指さした。
「それ。ちゃんと食べたら考えてあげてもいいです」
食べずに捨てるなんて許せなかった。
五代がおとなしく食事をしている間に、ななはリビングのソファの隅っこに寄せられているアンディを定位置に戻した。首元の緑のリボンが少し乱れている。かわいそうに。綺麗に整えてやった。
彼はお弁当を食べ終わった後、生ごみのゴミ箱に空容器が突っ込んであることに文句を言った。プラ用のゴミ箱に捨てなさいということらしい。律儀にななの捨てた容器をゴミ箱から拾って、綺麗に洗って分別していた。床に散らばったお新香の掃除もしている。まめである。
ノートパソコンの電源をつけた。パスワードを入力してログインする。
ソフトを立ち上げている間に、コーヒーの芳醇な香りが流れてきた。リクエストをしたわけではないが、カプチーノが運ばれてきた。今日のラテアートは、アンディがハートを差し出している絵だ。どんどん実力が上がってきている気がする。スマホで写真を撮った。
それからパソコンの画面を、隣に座った五代に見せる。
「相談したかったのは、これです」
五代はその画面をのぞき込んで、目を細める。
「……何これ」
彼の声は少し硬かった。嫌悪感によるものかもしれない。たしかにこれを見れば、そうなるのも仕方がない。
ブラウザの一番上には、五代の写真がでかでかと載っていた。上着を脱いで、ネクタイとベストだけになった講義中の姿だ。その直下に、
『今日も顔面つよつよだった。ごちそうさまでした』
と文字が表示されている。
『四年のS先輩、また最前列に来てたよ。あの人とっくに単位取ってるのに三年連続来てるってw』
『美しすぎた。結婚したい』
『既婚者定期』
次々と下に埋まっている文字の羅列。チャットだ。
それは会員制のウェブサイトだった。サイト名は『N大学(裏)』——いわゆる裏サイトである。開いているのは『法医学と現代社会——五代先生を愛でるスレッド』。
投稿のほとんどが五代の顔を褒めるもので、誹謗中傷など悪意のあるものは見られなかったが、五代の隠し撮り写真が多くアップロードされていた。講義中の姿から、構内を歩く姿、講師控室でコーヒーを飲む姿。実に様々な角度で撮られている。
「ブロマイドも売られてるみたいです。取引場所は個人的なやりとりで指定されるみたいなんで、ここには載ってないんですけど」
ななは、画面にとある書き込みを見せた。五代の写真の販売価格と連絡方法が記された投稿だ。
「ちょっと、貸して」
五代は何かに気づいたようだった。ノートパソコンに手を伸ばすと、その投稿の直後にある書き込みの流れをスクロールしていく。
『五代先生の奥さん見た人がいるってマジ?』
『車に乗せてるの見たらしいよ。顔はわかんないらしいけど』
『なんで奥さんってわかったの?』
『同じマンションに五代先生が抱えて入ってったらしい。さすがに奥さん以外にしなくね?』
五代の眉が寄って、どんどん顔がこわばっていく。ある程度のところでノートパソコンから顔を上げると、彼はななに視線を流した。
「ななちゃん。あの日、写真を受け取っていたね。白い封筒に入った盗撮写真。まだ持ってる?」
それを聞いて、ななはぷいと顎を逸らした。隣のアンディに抱きついて、ぎゅうと腕に力を入れる。「スカートでそれをやるのはやめなさい」と、いつもの癖で足をソファに上げたのを即座に注意される。まったく小うるさい男だ。
「やっぱりもう一度鮫島さんに……」
五代が何かをつぶやいている。ちらと見やれば、彼は口元に手を当てて、真剣に何かを考えている様子だった。
パソコンの画面を再び注視するその横顔は、張り詰めていても大変美しい。美人は三日で飽きると言うが、黄金比のような繊細なバランスで配置されている顔は、何度見ても新しい発見がある。学生たちが騒ぐのもわかるような気がした。
その形のいい眉が、ふとひそめられる。彼は口元から手を離して、ななと目を合わせた。
「待って。ななちゃんの相談したいことって、これ? これを久世さんのお兄さんにも相談したの?」
「そうですよ。契約上とはいえ夫の写真販売っていうプライバシー侵害は、由々しき問題じゃないですか。貴仁さんには、そっちの専門家を紹介してもらおうかと思って」
「……相談っていうから、てっきり盗撮写真とかお母さんのことだと思ってた」
「そっちは五代さんには関係ないです」
「あるよ」
前回そう伝えたときは、まるでゼンマイが切れた人形のように止まってしまったのに、今日の五代は引き下がらなかった。むしろ険しい目でななをにらんだ。
「学生の間で僕の写真が勝手に出回っているんだとしたら、盗撮写真は僕絡みの可能性がある。それに天道咲さんは、僕の義理の母親。これはきみと婚姻関係を結んでいる以上、覆せない事実だ。まったく無関係で、知らなくていい存在じゃない」
法医学者というものは皆こういう理屈屋が多いのだろうか。あるいは五代だけだろうか。言い負かされた気がして、ななは唇を引き結んだ。
アンディを抱く手に力を込めて、顔を押し付けた。もこもこした感触が頬に当たる。少し臭かった。前回クリーニングに出したのは五代と出会う前だ。そろそろ洗ってあげないと。
彼がため息をついたのがわかった。その後で彼が言ったのは、盗撮写真と母親のことではなかった。
「ななちゃん、この裏サイト。僕が自分で対応するから、IDとパスワード借りていい? あるいは新規発行ができるならやり方教えて」
それで、ななは少しだけ顔を上げた。
「新規発行には学生証と一緒に撮った顔写真を運営に送る必要があります。私のでよければ貸しますけど、変なことはしないでくださいね」
IDとパスワードを教える。IDは学生証の番号と記号が組み合わさったものだし、自由に設定できるパスワードは数字四桁にしていたので、伝えるのは簡単だった。五代は微妙な顔をしている。六十四文字のパスワード設定をしている男から見れば脆弱極まりなく見えたのだろうが、これが一番忘れないし楽なのだ。
「あと盗撮写真。あの封筒ごと貸してもらえるなら助かるよ。警察の知り合いに調べてもらうから」
見逃してもらえたと思っていたのに、全然忘れてくれていなかった。ななは再度、アンディに顔を突っ込んだ。
「ななちゃん」
アンディの匂いが気になる。いつもは本格的に夏になる前にクリーニングに出すのだけれど、食べ過ぎで熱を出したり、母親に会ったりして忘れていた。クリーニングに出す場合、頼んでから帰ってくるまで十日以上かかってしまうのが瑕だ。その間は一人寝する羽目になるので、いつも涙で枕を濡らしている。
ななはピンとひらめいた。そうか。その方法があった。
ななは起き上がって、五代に向き直った。
「いいですよ、写真渡しても」
五代は急にしゃっきりと背筋を伸ばしたななを、驚いたように見た。
「本当?」
「はい。ただし条件があります」
ななは、アンディのお腹をぽんと優しく叩いた。
「アンディ。お風呂に入れてください」
アンディは大きくて重いので、洗うのは大変なのだ。大昔に一度やってみたけれど、大変すぎて結局業者を呼ぶ羽目になった。だが、今は五代がいるではないか。とても便利な夫が。
五代がアンディの顔を見て、半目になった。




