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クズの分別~五代夫妻は度し難い~  作者: 梨千子
第四章

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20/23

第二十話 演技

 五代雅通はクズである。


 玄関のモザイクタイルに、脱ぎ捨てられたパンプスがあった。

 揃えられた男物の革靴の横で、パンプスの片方がコロンと転がっている。


 これはなんだ?


 ななは玄関を閉めて、鍵を小物入れに入れた。靴を脱いでそれを揃え、転がったパンプスの片方を手に取る。二十四センチ。明らかに自分のサイズではない。オートロックの鍵が閉まる音が響いた。


 廊下の先、リビングにつながる透けガラスつきの扉へ目をやると、白い明かりが差し込んでいた。人の気配がする。何かを話す声だ。


 少しだけ考えてから、転がったパンプスを綺麗に揃えてタイルの上に戻した。


 そういえば、最近は五代の帰宅が早い。先週までの彼は、夕食当番でない日は日付が変わってから帰ってきていた。寝るときもベッドには来ずにリビングのソファで寝ていた。今週に入ってからは元の生活に戻ったが、どういう心境の変化があったのだろう。


 リビングの扉を開く。すぐ脇のキッチンは無人で、電気はついていなかった。奥のリビングのソファに、男女の姿がある。


「おかえり、ななちゃん。遅かったね」


 先週まで午前様に帰宅していた男のセリフではない。ななはドアを閉めてから、ダイニングキッチンの明かりをつけた。


「鞠子とテスト勉強してたんです。明日のテストが最後ですけど、一番厄介なやつなんですよね」


 ダイニングテーブルにお弁当が入ったビニール袋を置く。いつも購入していたお弁当フランチャイズ店が来月にも閉店するらしく、特売セール価格になっていた。ラッキーだ。しかし、あそこが閉まってしまったら夕飯の選択肢が狭まってしまうので、全体的にはアンラッキーだ。


「それで、そちらはどちら様ですか?」


 ななはリビングに目をやった。五代の隣、ぴったりと寄り添うようにして、女が座っていた。アンディが定位置からソファの隅っこに寄せられている。それだけで目がつり上がってしまう。


 清潔感のあるショートヘア。耳たぶよりも大きい真珠のピアス。フェイクパールかもしれない。柔らかなベージュのパンツスーツ。インナーの黒いブラウス。年齢はおよそ三十代。化粧も格好も雰囲気も、いかにも仕事ができる女の装い。


「こちら、僕が一年くらい前にバーで出会った……まあ、そういう関係の人」

「そうですか。今日はどうしてまたうちに?」

「別れ話中」


 別れ話? ななは、五代の膝に置かれた女の手を見た。


「まあいいです。私はごはんにします。お二人は、乳繰り合うなら外でお願いしますね」


 シンクに向かうと、水を出して手を洗う。ため息が聞こえた気がしたが、男女どちらからなのかはわからなかった。


「……というわけで、彼女が僕の妻。ほら、実在したでしょ?」


 五代が女に向かって何かを言っている。ななは手についたハンドソープを流した後、タオルで水をぬぐった。


「納得できません。数カ月連絡がつかないと思ったら、急に結婚しただなんて。しかもあの人が奥さんって言われたって——」


 ななはダイニングテーブルに置いたビニール袋から、お弁当を取り出した。今夜は茄子の味噌辛炒め弁当を買ってきた。味噌のいい匂いがしている。


「全然、五代先生に無関心じゃないですか。本当に結婚してるんですか?」


 テーブルに着席すると、リビングの様子が一望できる。揉める男と女。まるで映画みたいだ。ななはお弁当の蓋を開いて、割り箸を割った。


「何か弱みでも握られているんですか? 教えてください、私、協力します」

「うーん」


 五代は苦笑いして、こちらを見た。ななは口を開けて、大きめの茄子にかじりついた。彼と目が合う。五代がわずかに目を細めた気がした。

 彼は立ち上がった。まだスーツだった。さすがに上着は脱いでいるが、ネクタイはそのままで緩めた形跡もない。彼も帰ってきてあまり時間が経っていないのかもしれない。


「そうだね、弱みは握られてる」


 彼はななと目を合わせたまま言った。ほう。茄子を咀嚼(そしゃく)して飲み込む。ななは少しわくわくした。男はこの後、何を言い出すのだろう。


「やっぱり! それは何ですか?」


 女も次いで立ち上がった。その手が男の腕に伸びる。けれど男はさらりとそれをかわして、ダイニングに近づいてきた。

 彼はななの背後までやってくると、肩に両手を置いた。大きな手に両肩が包まれて、ななは一瞬動きを止めた。


「結婚してるのは本当だよ。僕が彼女を口説き落としたんだ」


 ん?


 思わず口を開きかけた。しかし、五代の肩をつかむ手に力がこもって、ななは口を閉じた。


「僕が一方的に、この子に惚れてるんだよね。やっと結婚してもらえたんだ。これ以上、邪魔してもらいたくないな」


 ななの後頭部に軽く触れる何かがあった。何をされたのかはわからないが、リビングにいる女の顔が青ざめたので、まあそういうことなのだろう。クズめ。


 女はソファに置いていたバッグをつかむと、足早に部屋を出て行った。その横顔は半泣きだった。やがて、玄関のオートロックが閉まる音がする。


「……五代さん」


 ななは肩に置かれた男の手をぺちっと払った。


「私をだしにしないでください。あと、昔の女性をうちに連れ込まないでください。ご近所さんに見られたらどうするんですか」

「言っておくけど、不可抗力だよ」


 何が不可抗力なんだ。


 対面の席に回った五代をじとっと見つめる。彼はネクタイを首元から抜いて隣の席の背もたれに掛けると、ななの真正面に座った。いつもは彼がキッチン側、ななはリビング側に座るので、今日は逆だ。


「彼女、保険の外交員なんだよね。たまたまこのマンションに訪れてたみたい。エレベーターで会ったんだよ」


 本当だろうか。今さっき、息をするように嘘をつかれた身としては信用できない。

 五代は自分の分のお弁当を取り出すと、ふと思い出したように立ち上がり、キッチンに入った。冷蔵庫を開けて、冷えたお茶を取り出す。


「ななちゃんもいる?」


 ごはんを噛みながらうなずく。相変わらずよく気がつく男である。

 お茶が入ったグラスを受け取って、ななはそれをぐびっと飲んだ。すっと冷たい水が喉を流れていく。

 五代はまだお弁当の蓋を開けていなかった。椅子に座って、グラスを手に持ったまま、こちらを見つめてきている。


「なんですか」

「……いや。昨日はよく眠れた?」

「またそれですか? 快眠ですよ」


 ななは眉を寄せた。最近の五代はそればかりを聞いてくる。いったい何を気にしているのか。

 グラスを置いて、食事に戻る。


「それより五代さん、さっきの『惚れた』ってやつ、二度と私に使わないでくださいね」

「どうして? あれが一番手っ取り早いんだけど」

「不快だからです」

「……不快」

「昔、母が父に言ってたんです。『好き』とか『愛してる』とか」


 茄子をかじる。じゅわっと味噌が染み込んだ茄子の味に、わずかに苦みがあった。


「全部演技だったんですよね。普通の温かい家庭がどういうものかを、実践してたみたい。だから愛の言葉は、あんまり好きじゃないです」


 茄子を飲み込んでから、はたと思い出した。


「あ。母は女優なんです。娘の私から見ても、天才です。知ってますか、天道咲っていう……」


 顔を上げると、五代は真面目な顔でこちらを見ていた。ななは言葉を切った。なんだろう。本当に最近、彼はおかしい。よく目が合うし、変なことを聞いてくる。不気味だ。

 五代は目を伏せ、ようやく茄子の味噌辛弁当の蓋を開けた。割り箸を割る。


「うん、知ってる。有名な女優だよね。ななちゃんの母親だったんだ。その言い方じゃ、あんまりいい思い出じゃない感じかな」

「……そうですね。私と兄に対して、演技のために産んだのよ、って堂々と言うくらいには狂ってましたから。兄は母を憎むようになりました」


 離婚が成立した後は、家庭内で母親の話はタブーになった。父と兄の仲もあまり良好とは言えなくなった。兄が消息不明になったのはその後だ。


 とはいえ、母には感謝していることもある。家には新旧関係なく、世界中の名作映画があふれていた。一人で過ごすななは、暇つぶしで映画を流していた。彼女が残していったのは映画と、テディベアのアンディだけだったが、どちらもななの友達と言えるものだ。もっともアンディも、『テディベアを大事にする娘がいる母親を演じるから』という理由でプレゼントされたものだったが……。


「その人は、今もななちゃんに連絡してくるの?」


 最後の一口を食べ終わって、ななはお茶を飲んだ。


「まあ。あんなでも母親なので、一年に一度くらいは会います」

「最近会ったのはいつ?」

「……なんでそんなこと、言わなきゃならないんですか」

「ごめん。でも大事なことだから教えてほしい。最近会ったんだね? いつ?」


 ななは空になったグラスとお弁当の容器を持って、立ち上がった。グラスをシンクに置いて、お弁当の容器はゴミ箱に捨てる。しょっぱすぎて残したお新香のいくつかが、パラパラと床にこぼれた。


「ななちゃん」


 なおも五代が追及してきて、ななは唇を歪めた。そんなこと、聞いてどうしようというのか。


「じゃあ僕が質問するから、イエスかノーでいいよ。答えてくれたら、次のななちゃんの夕飯当番、僕が代わる。どう?」


 ……。


 ななは、視線を上げて考えた。


「この間言ってたよね、ショコラ味のカヌレが食べたいって。デザートにそれも作るよ。どう?」


 大変だ。追い打ちをかけられている!


 ななはぐっと奥歯を噛みしめた。耐えきれず、やむなく五代を見る。


「……夕食当番二回分。カヌレはプレーン味も欲しいです。食べ比べたいので」

「交渉成立」


 五代は笑って、続けて言った。


「この間大学を休んだ日があったね。僕の講義があった日だ。あの日、天道咲に会った?」


 まじめな声色に、ななはため息をつくしかなかった。


「……イエスです」

「何を話したの?」


 そこまで答える義務はなかった。しかし、いつにもなく五代がしつこい。また夕食を交渉材料にされるかもしれない。


「別に普通ですよ。近況報告くらいです。……あ、でも、結婚したことは話しました」

「なんて言っていた?」


 ななは先日の母親のセリフを思い浮かべて、なるべく記憶にある通りに言った。


「『ななも結婚できる年になったのね。最近、世間でサレ妻っていうのが流行っているらしいわ。よかったらサレ妻になる気はない? 演技の参考にしたいの』」

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