第十九話 原因不明
——ななのこと?
玄関扉のノブから手を放すと、西山さんに向き直る。解除したロックが再びかかる音がした。
「なんでしょう?」
西山さんは、少しだけ逡巡したようだった。目を伏せ、床に視線が走る。ややして、彼女は目を上げて口を開いた。
「最近、ご様子がおかしいといったことはございませんか? なかなか夜が眠れなかったり、あるいは目覚めなかったりです」
五代は言葉に詰まった。
最近という言葉の定義にもよるが、ここ一、二週間という意味なのであれば、答えは「わからない」だ。夕食当番でない日の五代は、大体日付が変わった頃の帰宅だ。ななはもう寝室に引っ込んでいて、五代は彼女を起こさないようにソファで寝る。当番の日は早めに帰るが、やはりソファで寝る。あの日以来、寝室には着がえを取る以外で足を踏み入れない。食卓での余計な会話も減っている。彼女の睡眠状態など把握しているわけがなかった。
しかし、顔を合わせている限りでは、ななが何か不調に襲われているとは思えなかった。相変わらず料理名をメッセージで送ってきて、それを食べることを至上としている。
「……そういったことは、なかったと思いますが」
「そう、ですか」
西山さんは、納得していない様子だった。
「何か気になることがありましたか」
「いえ。お変わりないならいいのです。ただもし、お嬢様に接触しようとする人物がいた場合、会わせないでいただけますか」
鞄の中に仕舞い込んだ白封筒がよぎる。
関係があるのかどうかは、まだわからない。しかし、西山さんの口調は特定の誰かを指しているように聞こえる。五代は問うていた。
「それは、誰ですか?」
やや間があった。彼女はしばらく自身に着けたエプロンを見ていたが、やむを得ずといったふうに顔を上げた。
「ななお嬢様の、お母様です。天道咲。映画好きの五代様なら、もちろん名前はご存知でしょう?」
「——ええ」
一瞬止まりそうになったが、何とかすぐに反応する。そういえばそういう設定だった。
ななの顔を思い浮かべる。
天道咲。日本を代表する女優である。演技力の高さで有名な実力派女優であることは知っていたが、まさかななの母親だったとは。
「咲様は、根っからの女優です。お嬢様に無茶な要求をしてくることがあるのです」
「無茶な要求?」
「役作りのために、犯罪めいたことをお嬢様にさせることがあります。旦那様との離婚も、それが原因です」
「なるほど」
西山さんの表情は苦々しい。できれば言いたくなかった、という雰囲気があった。彼女はななの世話を長年してきたというから、娘のように心配しているのかもしれない。いや、彼女の年齢を考えれば、ななは孫の年齢だろうか。
「わかりました。注意してみます」
五代はそれだけを言った。約束はしなかった。
しかし、西山さんは安堵した顔で息をついた。
「ありがとうございます。五代様は、これから大学の講義ですか?」
「もうテスト準備期間で講義はないので、後期の授業の準備ですね」
「さようでございますか。お気をつけていってらっしゃいませ」
西山さんに見送られて、家を出た。
なぜだろう。言葉にできない何かが喉に引っかかった。
***
仕事を終えてから、買い物をして帰る。
今夜のメニューはボンゴレロッソである。
エレベーターに乗りながら、大学講師控室で調べたななの母親のことを思い出す。
天道咲。本名、天道咲子。出身地や年齢、出演作や演技についての評価は大量に出てきたが、私生活についてはほとんど書かれていなかった。デビューしたての頃の写真は、少しななに似ていた。
ななはもう帰っていた。玄関のモザイクタイルに、規則正しくスニーカーが揃えられている。ドアを閉めて、鍵とチェーンをかけた。
リビングに入ると、ななはいつものように、アンディにもたれて映画を見ていた。テンガロンハットを身に着けた男二人が映っている。今夜の映画は西部劇か。
「ただいま」
挨拶をして、キッチンに入る。冷蔵庫に食材を詰め込み、ネクタイを緩めて抜いた。
ななからの返事はない。最近——あの行き違いがあった夜以降、ずっとそうだった。意図的に無視しているのかと思っていたが……。
五代は唇を歪めた後、ななに近づいた。もっと早く気がつくべきだった。
「ななちゃん」
声をかけて近づく。ソファの横に膝をついて、肩に触れる。アンディにもたれた体を押して仰向けにすると、ぐっすりと眠る顔があった。
あの夜もそうだった。
ななは、声をかけて揺すっても起きなかった。その後普通に覚醒した上、写真のことに気を取られて深く考えていなかった。西山さんに言われて、ようやく気がついた。
五代は、ななの頬を少し強めに叩いた。反応せず。
目を細める。少なくとも、普通に眠っている状態ではない。
強い刺激を与えても起きない場合に考えられるのは、何らかの原因による意識障害だ。急性アルコール中毒、一酸化炭素中毒、脳や心臓の急病、低血糖——原因が脳裏に次々と浮かんでいく。
自発呼吸の有無と脈拍を確認した。静かだが、呼吸はある。脈拍も落ち着いている。酒の匂いはしない。
五代は立ち上がって、リビングのゴミ箱をひっくり返した。ティッシュ、チラシ、何度注意してもプラ用のゴミ箱に入れないお菓子の袋が出てきた。すべて確認する。ティッシュは開いて中身まで見る。何も発見できなかった。その後、寝室に移る。ベッド脇のゴミ箱には、丸めたティッシュがひとつだけ。それを拾って開く。
「あった」
五代は思わず舌打ちした。
ティッシュの中に、ヒートシール——錠剤やカプセルが入っているプラスチックとアルミでできたシート——が見つかった。一錠分。印刷された薬剤名と規格を見て、超短時間作用型の睡眠導入剤ということがわかった。服用後一、二時間がピークだ。
念のため他の部屋にあるゴミ箱も全部確認したが、見つかったのはその一錠のみだった。一錠だけなら、オーバードーズの可能性は低い。
もしかしたら西山さんは、これを掃除の最中に見つけていたのか。
リビングに戻ると、西部劇はガンマンの二人が決闘をするシーンに移り変わっていた。ななは微動だにせず、アンディにもたれて眠っている。五代はななの足が乗った方のソファに腰かけると、息をついた。
「何をやっているんだ、僕は……」
言葉がこぼれる。
最近、全然まともな判断ができていない。
原因不明——否。
五代はゆっくりと眠るななの顔を見た。
「……ななちゃん」
五代は恐る恐る手を伸ばした。少し乱れた前髪を、そっと整えてやる。
「きみ、僕に何をしたの……」
吐息が漏れた。
ななの返事はなかった。




