第十八話 断る理由はなかった
ゆったりとしたジャズが流れている。先程「夜の空気に溶け込むような一曲を」と誰かがリクエストしていたので、それだろうか。
天井から柔らかくスポットライトが差し込んで、カウンターの上に置いたウイスキーのグラスを淡く照らし出していた。
それに、ふっと誰かの影が映り込んだ。
「お兄さん。煙草吸う?」
隣に女が座った。ショートヘアの黒髪。毛先に行くほど紫色にグラデーションしている。火のついた煙草を咥えた唇は真っ赤だ。黒くタイトなノースリーブのワンピースを着ている。裾は短く、露出した太ももの片方が、隣席の座面に乗っていた。その手は差し出すように、煙草のパッケージを握っている。
そこから一本だけ伸びる煙草を見て、五代はうっすらと笑みを浮かべた。
「お言葉に甘えて、一本いただくよ」
顔を向けて指先ではさみ取ると、女は次にライターを持って、五代の口元に近づけた。炎が点って、煙草に火がつく。
「お兄さん、かっこいいね。一人?」
五代は煙を吸い込んで、静かに吐き出した。バーテンダーが無言で灰皿をカウンターに置く。
「見ての通り、一人」
「へえ」
女は、さっとこちらの手元を確認するように目を走らせた。
「指輪。奥さんいるんだ」
「今のところは」
「何それ」
女は笑うと、隣の席にきちんと腰掛けて、上半身だけを寄せてきた。
「ねえ、まだ時間ある?」
その手が腕に触れてくる。髪と揃えたかのような、先に向かって黒から紫にグラデーションしたネイルが目に入る。
「良かったら場所変えて、飲み直さない?」
赤い口紅が艶めかしく弧を描いている。断る理由はなかった。
***
例の男女の遺体は、一応の解決を見せた。
鮫島の話によると、昨年の秋に、男は崎田南と居酒屋で出会った。崎田南はあくまで遊びだと割り切っていたようで、しつこく迫る男を拒絶したが、男は諦めきれなかった。男遊びを繰り返す女に並々ならぬ執着を見せ、酒に薬を混ぜてホテルに連れ込み強制性交。しかし飲ませる量が多かったのか、女は最中に死亡した。男は証拠の隠滅などに走ったようだ。トイレの下水管から崎田南の身分証などが発見されている。最終的に男も彼女の隣で死を選んだ。
愛ゆえにか、絶望ゆえにか、それは五代の知るところではない。
「奥さん、悲しんだりしない?」
ナミと名乗った女は、ベッドに腰かけて、背中を向けたまま聞いてきた。その手を背中に回して、ブラのホックをかけたところだった。
「それ聞く? きみから誘ってきたくせに」
五代は笑って、ベッドのサイドテーブルに置かれた煙草のパッケージに手を伸ばす。一本取り出して口にくわえ、自分で火をつけた。
「修羅場はごめんだもの。五代さんだってそうでしょ?」
下着姿の女は、床に落ちた服を拾った。
五代は「たしかにね」と答えて、煙を吐き出す。甘くしびれるような風味が広がった。なかなかいい趣味をしている、と赤い煙草のパッケージを見つめる。
女は服を着ると、化粧を直しに洗面台に向かった。やがてホテルに入った時と同じ真っ赤な唇になって戻ってくると、女は五代のいるベッドに腰かけた。五代の口から、半分ほどの長さになった煙草を奪って吸うと、煙を吐き出して笑いかける。
「ねえ、また会える?」
吸い口に赤い口紅がついていた。
「運がよければ、会えるかもね」
「楽しみにしておくわ」
女は吸いかけの煙草を五代の口に戻して、バッグを肩にかける。財布からホテル代の半額に当たるお札を出すと、サイドテーブルにある灰皿の下にはさんだ。赤い煙草のパッケージを一度つかんだが、すぐにサイドテーブルに戻す。
「それ、あとちょっとだし、あげるわ。じゃあね」
女がいなくなり、部屋の扉が閉まった。
五代はゆっくりと口元の煙草を抜き取る。口紅がついたそれを灰皿に押し付けて、火を消した。
簡単にシャワーを浴びて着替える。金銭を回収する。女が残していった赤い煙草のパッケージは、中身ごとゴミ箱に捨てた。
ハンガーにかけた上着を取る。内ポケットから数時間放置していたスマホを取り出して確認すると、メッセージの通知があった。
『すき焼き。キーマカレー。ビーフシチュー。ボンゴレロッソ』
ななとのメッセージ履歴。ほとんどが事務連絡とスタンプで埋まっている中で、最新メッセージに料理名が何の脈絡もなく並んでいた。五代の夕食当番のときに作ってもらいたいリストだ。
わずかに目が細くなる。腹の底に重い石が落ちたような、何とも言えない現象。空腹感にも似た——。
五代はスタンプ一覧の使用履歴から、一番頻度高く使っているものを押した。「了解」のスタンプが表示される。スマホの画面を暗くして、内ポケットに滑らせた。
時刻は、日付が変わったところだった。彼女はもうとっくに寝ているだろう。外泊したところで、何も言われないのはわかっていた。
部屋には、甘い煙草の香りが充満していた。五代は部屋を出た。重い扉がガチャンと音を立てて閉まった。
運転代行サービスを、呼ばなければいけない。
***
大学の講義用の資料を忘れてきたことに気づいて、五代は自宅に戻った。
すでにテスト勉強期間に入っていて、通常の講義はない。今のうちに後期用の準備を進めておきたかった。
マンションのエントランスに入ると、ポストが目に入る。自宅の部屋番号のポストの投函口に、分厚い茶封筒が挟まっていた。引っかかって入らなかったのだろう。
五代はポストの暗証番号を打ち込んで開き、それを取り出した。五代が取り寄せた学会資料だ。ついでに他の郵便物を回収しようと手を伸ばして、それが見えた。
宅配サービスなどのチラシの間に紛れた、白い封筒。
見覚えがある。
一瞬、それに触れることを躊躇する。
周囲を確認して人気がないことを確かめると、慎重に取り出した。切手、宛名、形状、糊付け、状態はすべて一致。
息を吐いて封筒の口を開けると、一枚目は写真ではなかった。白い紙に、赤い文字で殴り書きされている。
『五代先生と別れろ』
以前見たものと同じだ。中身を取り出した。赤い文字が書かれたものを裏返す。
心臓がひとつ大きく音を立てた。
夜の繁華街を背景に、五代が写っていた。
女と肩を並べてホテルに入っていく写真だった。ノースリーブのワンピースを着た黒髪の女だ。髪色が、毛先に向かって紫色にグラデーションしている。一週間ほど前に寝た女に間違いない。
いつの間に撮られたのか。
他の写真を確認する。途中までは、ななの盗撮写真だった。焼きそば、オムライス、ソフトクリーム。大学構内、駅前、喫茶店。食べているものも、写っている場所もさまざまだ。
途中から、五代の写真が入った。ショットバーのカウンターや居酒屋で酒を飲む五代。隣の女と親密な距離で寄り添う背中。女と一緒にバーを出て行く五代。腕を絡める女、それを許して微笑む男。ホテルに入る場面で終わる。
なんだこれは。
写真を封筒の中に戻すと、五代はしばらくそれをじっと見た。鞄の中に入れる。わずかに、ななの怒った顔がよぎったが——鞄の奥にそれを仕舞い込む。
エレベーターで自宅のある階に上がる。鍵を開けて入ると、モザイクタイルの上に見覚えのない靴があった。女物だ。扉を締めずに奥の廊下を見やる。掃除機が廊下に出ていた。
「あら、五代様」
脱衣所から、茶髪の女性が顔を見せた。西山さんだった。そういえば、今日は彼女が週に一度来てくれる日だったか。
「こんにちは、西山さん。いつもありがとうございます」
五代は挨拶した。忘れ物を取りに来ただけだと説明して、家に上がる。
目当ての資料を鞄に入れリビングに戻ると、西山さんが大きなテレビの拭き掃除をしていた。
「仕事に戻ります。後はよろしくお願いします」
声をかけてから、玄関に急いだ。靴を履いて、オートロックを解除する。
「五代様」
扉を開ける直前、西山さんの声がかかった。
振り向くと、廊下の真ん中で彼女が立っていた。掃除道具は置いてきたのか、何も持っていない。両手を体の前で組み、まっすぐ立っている。
西山さんの顔は、真っ白だった。首から下とわずかに色が違う。ファンデーションの色かもしれない。ななが美魔女だと評していたが、確かに彼女はひ孫がいる年齢にはとても見えない。
「お急ぎのところ申し訳ありません。一点、確認したいことがございまして。……ななお嬢様のことなのですが」




