第十七話 ただの便利な夫
代行を使って帰宅したときには、十一時を過ぎていた。
玄関のモザイクタイルに、揃えられたスニーカーがある。五代は玄関ドアを閉めると、オートロックの施錠を待たずに自身で鍵を締めた。ドアチェーンをかけてから靴を脱ぐ。
リビングからは白い明かりが漏れている。『これから帰ります』とメッセージを送ったが、結局既読はつかなかった。
脱衣所の洗濯籠に白衣を放り込んでから、リビングに入る。テレビの大画面が映画を映していた。
「ななちゃん、ただいま」
声をかける。ななはソファの定位置にいた。既に入浴は済ませたらしい。パジャマ代わりのルームウェアを着ている。水色のショートパンツから伸びる足を折り曲げてソファに乗せ、こちらに背を向けてアンディに抱き着いている。
「ごめんね、遅くなって。話って何?」
ダイニングテーブルに鞄を置いて、五代はネクタイを緩める。ななは無言だった。
五代は片眉を上げると、首元から抜き取ったネクタイを椅子にかけ、ななに近づいた。
「ななちゃん?」
上から顔を覗き込むと、ななは目をつむっていた。規則正しく胸が上下している。眠っている。五代は息をついた。
普段ならそろそろ寝る時間だ。五代を待っている間に、寝入ってしまったのだろう。
五代はななの肩をゆすった。
「ななちゃん。寝るならベッドで寝て。ここで寝たらまた体調崩すよ」
声をかけたところで、テーブルに置かれたものに目が留まった。開かれたブルーレイのケース。中身は空だ。国際映画賞受賞を誇る紙が挟まっている。
その下に、見覚えのある白い封筒が姿を覗かせていた。
五代はななの肩から手を離し、それを手に取った。切手なし、宛名なし。形状一致。糊がついていないのも同じ。ソファの横に腰を落として中身を取り出すと、十数枚の写真が出てきた。
ななが写っていた。また盗撮だ。
学生食堂にいるなな。鞠子の前の席で、うどんをすすっている。前回も同じような写真があったが、服装が違う。別日に撮られたものらしい。その後も、様々なものを食べるななの写真が次々と続いた。順繰りに見ていき、その一枚で一瞬手が止まった。
久世貴仁と駅前の映画館に入るななの写真だ。ライトグリーンのパンツを履いている。
その次が、蕎麦屋の窓越しに写る、天ぷらそばを食べるななと貴仁。同じ構図で、抹茶ソフト付きあんみつを頬張るなな。
最後の一枚は、久世家から出てくる車の写真だった。五代の運転する車の隣で、ななが眠っている——。
すべて、昨日の出来事だ。
五代は目を細めた。黒板を爪で引っ掻く音を聞いたときのような不愉快さが、胸を占めた。
「あれ……、五代さん?」
ななが目覚めた。ソファの横にいる五代を寝ぼけ眼で見てくる。ふわ、とあくびをしながら、彼女は起き上がった。
「帰ってきてたんですね。返事がなかったから、今日はもう外泊するのかと」
ななは目をこすると、五代の顔を見てから首をかしげた。
「どうしたんですか、そんな怖い顔して」
五代は黙って、手の中の封筒と写真を掲げた。ななの目がぱちぱちと瞬いた。
「あ。それ——」
「どうして黙ってたの?」
ななは、ぽかんと口を開けたままだった。何を言われてるのかわからないといったふうの表情。
五代はそれを見て、なぜか無性に苛ついた。
「本棚に隠すようなことをして、何がしたかったの? ななちゃん一人で解決できるって思ってた?」
五代は思った以上に、自分の声が冷たく棘があることに気がついた。
酔っているせいだろうか。胸の奥から熱い何かが噴き出して、上手く栓ができない。
五代は深く息を吸った。違う。このように、酒に飲まれるべきではない。息を吐く。
写真をひとつにまとめた。貴仁と出かけているななの写真が、自身が運転する車の写真に隠れる。それを封筒に戻して、立ち上がる。
「あっ、ちょっとそれ、どこに持っていくんですか」
キッチンに戻る五代の背中に、ななが声をかけた。
五代は、ダイニングテーブルの上に置いた鞄に封筒を仕舞った。
「知り合いの刑事に渡すよ。全部調べてもらう」
「全部って……あっ、もしかして本棚の封筒、勝手に持ち出したの五代さんですね!? 返してください!」
「返してどうするの? ななちゃんが一人で解決するには、もう限度を超えてるよ」
明らかに盗撮はエスカレートしている。昨日の今日で、写真を投函してきているのだ。五代のマンションを燃やした女が関わっている可能性だってある。危険すぎる。
燃え上がるカーテンを背景に、幽鬼のように青白い顔をした女が、腹の前で包丁を握りしめている。あの冬の夜の光景を思い出して、五代は苦々しい思いに駆られた。
「しばらく家から出ないで。昼間は僕がいないから、お義父さんに頼んで人を寄越してもらおう。できるだけ一人にならないようにして——」
背中に衝撃があった。振り向くと、ななが険しい目つきでこちらを見上げてきていた。どうやら、平手で叩かれたらしい。
「絶対にいやです。なんなんですか、私を管理しないでください。五代さんには関係ないでしょう?」
関係ない?
先ほどまで胸を焼いていた熱さが、急激に冷えた。肌に触れたアルコールが揮発していくような感覚。
「関係なくは、ないでしょ。契約関係とはいえ、僕はきみの夫だ」
「契約以上のものなんて求めてないです」
ななはぴしゃりと言った。
「五代さんは、ただの便利な夫でいてくれさえすればいいんです。それ以上のことは求めてません。大学卒業するまでの関係なんですから」
五代は息を止めた。ただ頭が真っ白になった。
目を吊り上げたななが、五代の手から鞄を奪い取った。中を漁って封筒を見つけ出すと、鞄を放り出してさっと身をひるがえす。
「やっぱり五代さんはクズでした。せっかく相談したいことがあったのに……」
リビングに戻ったななは、リモコンをつかんで、流しっぱなしだった映画を切った。重いアンディをソファの外に押し出すと、ずるずると引きずって寝室に続く扉を開ける。
「もういいです。貴仁さんにでも相談します。今夜は私、アンディと二人で寝ますから、五代さんはソファで寝てください。おやすみなさい!」
バタン、と勢いよく扉が閉まった。
リビングが静まり返った。




