第十六話 惚れた?
『今日、なんで大学休んだの?』
メッセージを送ってしまってから、五代は我に返った。
講義が終わった後、久世鞠子にななのことを確認した。どうも『のっぴきならない事情ができたので休む』と連絡があったらしい。「あの子、五代さんに連絡してないんですか?」と鞠子から言われてしまい、五代は黙るしかなかった。
のっぴきならない事情って何だ。
朝食の席でも、五代が出勤するときも、ななは特に何も言っていなかった。五代の講義が今日あることは、知っているはずなのに。
しかし、客観的に見るとおかしなことをしているかもしれない。別に、五代は彼女の親でもなんでもない。五代が出勤した後に、何か事情ができたのかもしれない。責めるようなニュアンスのメッセージを送るのは筋違いではないだろうか。
五代はスマホを操作して、送ったばかりの未読メッセージを削除した。
講師控室に寄ってから、大学を出る。できれば今日中に片付けてしまいたい実験があった。もうすぐ大学のテスト期間に入るので、試験問題も作らねばならない。余計なことをしている暇はない。
研究所に戻ると、上司の長谷川と鮫島が来客スペースで話し込んでいた。おそらく話題は例の男女の解剖結果についてだろう。
自席に荷物を置き、白衣を羽織る。煙草の匂いがした。今夜は必ず持ち帰って洗わなければ。
ちょうど藍田が解剖当番から戻ってきたところだった。髪が濡れている。彼はぐったりした様子で自席に座って、
「五代、今日飲みに行かない?」
と言ってきた。
藍田が結婚してからは一度もなかったお誘いだった。
「奥さんと子供は?」
結婚指輪を外して、指輪ケースに入れる。
「実家」
藍田は短く言うと、ため息をついた。
なるほど。こちらはこちらで、何やらのっぴきならない事情があるらしい。
五代は指輪ケースを机に置くと、資料を挟んだバインダーを胸に抱えた。今夜の夕食当番は自分ではない。ななのことだ、どうせ店屋物を買ってくるか、ケータリングを頼むことはわかっていた。
「いいよ。久々に飲もう。店、選んどいて」
返事をして、研究棟に向かう。手早くななにメッセージを送った。
『飲みに行くので、今夜の夕食はいりません』
返事は、退勤時間間際になってから返ってきた。テディベアが「既読」と書かれた看板を手に掲げたスタンプだった。
***
藍田が選んだのは、以前、彼と飲みに行ったことのある店だ。小ざっぱりとした印象の、和食創作料理が出る居酒屋だった。
「久々だなあ」
暖簾をくぐると、木でできたカウンターや、掘りごたつがあるテーブル席が目に入った。
テーブル席は満席だった。カウンターで並んで座ると、藍田はわくわくした顔でメニューを開く。
「生ビール。五代は?」
「ハイボール」
一杯目を選んで、乾杯する。適当に選んだ料理を摘まみながら、当たり障りのない話をした。
「……でさあ、ぱぱぁーって両手を広げながら笑うのよ。天使だよ天使、俺の天使ッ!」
三杯目の日本酒を飲むころには、藍田はかなりできあがっていた。
カウンターの上に置かれた彼のスマホには、そろそろ二歳になるらしい娘の笑顔が映っている。でれでれした顔で、藍田はスマホを操作して娘の写真を次々にお披露目していった。彼が娘についてどんどん話していくものだから、名前を始めとして誕生日から足のサイズまで全部覚えてしまった。
これが親馬鹿というものか。五代はお猪口を口に運びながら、酔っぱらっている藍田を見た。
「それで、どうして実家に?」
これはこれで面白いが、そろそろ離脱したくなってきて、五代は核心を尋ねた。
藍田ははっとした顔をしてから、がくりとうつむいた。
「なんか急に嫁が『お母さんと電話で話してたら実家に帰りたくなった』って言ってきてさ。娘を連れて帰省中なんだ」
はああ、と深いため息が彼から漏れた。
「さみしい……俺の天使が……」
まったく深刻な話ではなかった。
五代はカウンター越しに日本酒のお代わりを注文した。ついでに出汁巻も注文して、空になった皿を店員に渡して引いてもらう。
「五代んとこはどうなの? 奥さんとうまくいってんの?」
そう言う藍田の視線は、五代の結婚指輪を見ていた。
「……まあ。普通かな」
お猪口に視線を落とす。
ななは、どう見ても普通に当てはまらない女ではあるが、関係性は普通だと言える。契約上、今まで問題があったことはなかった。
「ていうか奥さん、五代の女遍歴知ってんの?」
「まあ、ある程度は」
「喧嘩にならないの?」
「なんとも思ってないみたいだよ、すごくマイペース」
お代わりの日本酒が、カウンターの向こうから差し出される。五代は徳利を傾けて、藍田のお猪口に注いだ。
「強者だな。ああ、もしかしてそういうとこに惚れたの?」
その言葉に、五代は動きを止めた。
——惚れた?
ゆっくり徳利を置く。何か胸の奥に、奇妙なものを刺し込まれたような感覚がした。
とりあえず、ここはうなずいておくべきなのだろう。
「そうだね」
「やっぱりそうか。昨日だって、あの五代が奥さんのためにって急に早退するんだもんなー」
出汁巻がやってきた。二人の間に皿を置いて、五代は無言でそれを口に運んだ。
藍田はお猪口の日本酒を一気飲みすると、カウンターに放置していたスマホを手に取った。「五代」と肩を寄せると、屈託ない笑顔の娘の写真を、再び自慢するように見せてくる。
「子供はいいぞ。おまえも子供ができたらわかる。とりわけ娘は可愛い! 天使ッ!」
だいぶ酒が回っている。また同じ話が繰り返されそうだった。
愛娘の話を何往復もしてから、藍田は酔いつぶれた。
会計を済ませてからタクシーを呼んで、彼の住所を運転手に告げ送り出す。家にさえ辿り着けば、あとは何とでもなるだろう。
腕時計を確認すると、時刻は十時を回っていた。
ここまで車で来たので、帰りは代行を頼まなければならない。五代はスマホを取り出した。
メッセージの通知が残っていた。ななからだった。二時間前。
『何時に帰ってきますか? 話がしたいです』




