第十五話 暑い
どん、と背中に衝撃が来て、五代は夢から覚めた。
部屋は暗い。カーテンの隙間から漏れる光も見えない。真夜中。
枕の位置を調整して、もう一度目をつむる。
しかし、腰にドスっと何かが突き刺さった。痛い。
五代はそれをつかんだ。足だ。
身を起こして振り返る。ベッドの真ん中で寝ているはずのアンディが、ずいぶんとこちら側にやってきていた。アンディを押しつぶすように、ななが大きく手を広げて寝ている。大の字。なんて寝相だ。子供か。
ななに掛けてあったブランケットが、彼女の足元にくしゃくしゃになって寄っている。寝ているうちに暑くなって蹴ったのか。
五代は手を伸ばして、ななの額に触れてみる。あっても微熱といったところだった。高熱で蹴ったというわけではないらしい。ブランケットを引き寄せて一度折りたたみ、腹の上に掛けてやった。
仰向けになって目を閉じる。肩にアンディのもこもこした毛が当たっている。なながアンディごと五代のスペースを占領してきていて、普段より余裕がない。
暑い。彼女のために、今夜は冷房の温度設定を少し高めにしていた。そりゃ暑い。それにしてもこのアンディに夏でもベタベタとくっついて、ななは暑くないのだろうか。
体の力を抜いてみたが、一度覚醒してしまったことや、とにかくアンディと触れあっている肩が暑くて、五代はベッドで眠るのを諦めた。スマホとブランケットを持ってリビングに行く。
電気をつけると、壁一面のテレビの黒い画面に自身の姿が映し出された。ソファにスマホとブランケットを置いて、キッチンに入る。水を一杯飲むと、少し意識が明瞭になった。
シンクに寄りかかって、ぼうっと部屋を眺める。リビングの時計は、三時四十分を指し示していた。キッチンカウンターの上にある卓上カレンダーが目に入る。ななは「全部スマホ管理でよくないですか?」というタイプなので、これを使うのは五代だけだった。西山さんが来る日に印が入っている。直近だと明日の午前中だった。
夫婦の暮らしぶりは、彼女を通じてななの父親に連絡がいっているらしい。ずいぶんと過干渉である。
とはいえ、ななが相手だとそれも仕方ないのかもしれない、と五代は思った。成人しているとはいえ、まだ十九だ。考え方も行動も、子供から抜け出せていない。
コップを洗って手を拭くと、リビングのソファに横になって、電気を消した。
それから一時間くらい眠れず、寝返りを繰り返していた。外が白み始めたくらいで、ようやくウトウトして——何かに上から押しつぶされて目が覚めた。
アンディの黒々とした目がこちらを覗き込んでいた。
「あ」
アンディの向こうから、ななの声。
「なんだ。五代さん、そこにいたんですか。てっきり外泊したのかと。おはようございます」
五代は顔をしかめると身を起こした。頭痛がする。寝不足だ。
アンディは、まるで抱き着くような姿勢で上に乗っていた。さすがにぬいぐるみに迫られたのは初めてである。
視線を上げると、カーテンを開けるななの背中が目に入った。朝の日差しが目に入って、こめかみを抑えた。時計を見ると、六時を少し過ぎたところだ。
「……ななちゃん、動けるようになったの。熱は?」
アンディをソファの中央に座らせてやる。ななは、カーテンをタッセルで結んでから振り返った。
「下がりました。大丈夫です。よくあることなので」
「……よくある?」
「食べすぎると調子を崩すんです。天ぷらそばを食べた時点で少し限界は見えていたんですけど、どうしても普通のあんみつより、抹茶アイスつきのあんみつが食べたかったんですよね」
あわよくば抹茶かき氷も食べたかった——ななは、けろっとした顔でそう言った。
「昨日は五代さんが来てくれて助かりました。あのまま鞠子にかかりつけ医を呼ばれていたら、また食べすぎましたねってお説教されたに違いないので」
五代は口を開きかけて、結局黙った。もう二度と、体調不良だと聞いても迎えに行くまいと誓う。かかりつけ医に回せばいい。そもそも自分は臨床医ではないのだ。
重い体を引きずってトイレを済ませ、洗面所で顔を洗う。昨夜のうちに風呂場に干しておいた洗濯物を取り込むと、手早く畳んでリビングに戻った。テレビが朝のニュースを流している。なながアンディの隣に寄り添っていた。
「ななちゃん。顔洗って、着替えてきなさい。今日、大学あるでしょ」
「朝ご飯食べたらやります。トーストと半熟のスクランブルエッグがいいです。あとカプチーノ」
「ななちゃん。僕はきみのお母さんじゃないんだけど」
そう言ってから、五代は失敗したと思った。ななには、母親がいないのだ。
ななは不思議な顔をした。
「何を当たり前のことを言ってるんですか? 五代さんは夫ですよ。大変、便利な。あ、トーストにはブルーベリージャム塗ってください」
「……」
五代は、エスプレッソマシンの電源を入れた。ベーカリーで買ってきたトーストを切る。卵と牛乳、バターとブルーベリージャムを冷蔵庫から取り出した。
ななは、ソファで朝のニュースを見ている。
五代はボウルに卵を割りながら、理解不能な何かが胸の内に沸き立つのを他人事のように感じていた。くすぐったいような、居心地が悪いような、苛つくような——分類できない感覚だ。今まで自分をヒモとして飼ってきた女性たちや、割り切った関係にあった数々の女性たちには感じたことのないもの。まったく度し難い何か。
フライパンにバターを入れてから、トースターに切ったトーストを放り込んだ。バターの香ばしい香りがキッチンに広がっていく。換気扇をつけた。
***
出勤すると、上司の長谷川が昨日行った解剖についての所見がメール経由で送られていた。いったんは五代に回ってきた仕事だったので、気を遣ってくれたのだろう。
男——身元調査中。推定四十代。女——崎田南。二十九歳。死因はどちらも薬物による中毒死。薬物特定のため、追加検査中。
南というのは苗字ではなく名前だったらしい。女が先に死んでいる。男が死亡したのは女が死亡した六時間も後。
五代は自席の背もたれに寄りかかると、現場のホテルの一室を思い出した。薬物中毒というのであれば、通常は容器や包装など何らかの痕跡が部屋に残っていてもよさそうだが、そんなものは見当たらなかった。嘔吐した形跡もなかった。薬物に関しては既に警察が回収していた可能性があるが、鮫島であればその事実を先に言うだろう。妙な事件だ。
鮫島にはメールで、南と春日の関係について連絡はしていたが、それが事件に繋がっているのかどうかも未知数である。
ともあれ、事件の調査をするのは警察の仕事だった。
五代はメールを閉じると、業務に取り掛かった。本日は解剖当番ではない。研究を進められそうだった。
昼食をコンビニのサンドイッチで済ませると、五代は研究所を出た。午後から、N大学の講師の仕事が入っている。
恩師からこの仕事をお願いされたときは、一度断った。教鞭を執る自分を想像できなかったし、何よりも女子学生とのトラブルが懸念されたからだ。二回目の打診を受けて仕方なく受諾したが、今でも向いているとは思っていない。代わりが見つかれば辞めるつもりだった。
左手の薬指を見る。プラチナの結婚指輪。契約とはいえ、これをしてからは周囲は少し落ち着いたような気がする。ななは色恋を求めてこないし、仕事は順調で楽になった。結婚して正解だったというべきだろう。
講師控室で出席簿を受け取ってから、大講義室へ向かう。
部屋に入るのと同時に、チャイムが鳴った。女子で埋まった前の席。レジュメを配る際に頬を赤く染める彼女たち、上がる黄色い声。いつも通りのルーティン。
顔を上げて、後ろ側の端の席を見た。
ななと鞠子が隣り合って座り、ななが回ってきたレジュメを確認している——いつもなら。
五代は眉をわずかに寄せた。
久世鞠子の姿があった。普段通り髪の毛先を巻いた姿。横にいるはずのななは、いない。
五代は教卓に戻ると、黒板に白いチョークで、本日行う予定の授業内容の単語を書いた。
『制度としての死』
指についたチョークを払うと、五代は学生たちの方を向いた。
「本日は、死は法律とどう出会うかという話をします」
レジュメを手に、淡々と授業を進めていく。講師も三年目であるから、内容も手順もすべて頭の中に入っている。前方に詰めている女子学生の中には、昨年もいた顔がちらほら混ざっているが、知ったことではない。時間の使い方は人それぞれである。
講義を進めて三十分経っても、ななは現れなかった。もしかしたら大学を休んだのかもしれない。
盗撮写真のことがよぎる。大学構内、講義中でもおかまいなく隠し撮りされていた。
板書をする手に、じわりと汗がにじむ。大講義室は広いので、空調が十分に効いているとは言いがたい。
暑い。




