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私の声を奪った婚約者が、誰にも守られなくなる日  作者: 九葉(くずは)


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第9話 誰にも守られなくなる日

 王宮裁判の広間は、詠唱の間と同じ石造りだった。


 高い天井。石柱の列。窓から差す光。けれど、詠唱の間には誰もいなかった。ここには人がいる。多すぎるほどに。


 左右の傍聴席に貴族たちが並んでいる。正面の高座には国王陛下。その傍らに宰相と魔法省の長官。広間の中央に、被告席と証人席が向かい合っている。


 被告席に、ディートリヒ様がいた。


 久しぶりに見る顔だった。数ヶ月ぶり。頬が少し痩けている。目の下に翳がある。けれど、背筋は伸ばしている。まだ自分が正しい側にいると、信じている顔だった。


 その隣に、ナターシャ様。俯いている。白百合の髪飾りはない。


 傍聴席の最前列に、ハインリヒ公爵。腕を組み、息子の背中を見つめている。その表情からは何も読めない。


 私は証人席に着いた。懐に声紋石がある。布越しに、水晶の重さを感じる。


 ヴォルフガングは傍聴席にいた。辺境公爵として、証拠提出者として。灰色の瞳が、一度だけ私を見た。頷きはしなかった。ただ、いた。それだけで十分だった。



   ◇



 裁判長を兼ねる宰相が、書面を読み上げた。


「本件は、王国と隣国リューネブルクの不可侵条約に関わる封印の異常について審理するものである」


 続いて、隣国からの外交抗議文が読み上げられた。


『条約封印の定期検査において、封印面に不正な詠唱痕が検出された。当該痕跡は条約の法的効力に疑義を生じさせるものであり、速やかな原因究明と責任の所在の明示を求める。』


 広間に低いざわめきが走った。条約の法的効力に疑義。それは、隣国との不可侵条約が揺らぐことを意味する。


 宰相が広間を見渡した。


「まず、条約封印の異常について、魔法省の調査結果を報告する」


 魔法省の長官が立ち上がった。


「条約封印の更新記録を声紋石にて照合した結果、前任術師リーゼロッテ・フォン・クラーレンバッハの詠唱記録と、後任として登録された詠唱記録のあいだに、著しい差異が認められました。まず、前任術師の記録を再生いたします」


 声紋石が、法廷の中央に置かれた。


 私が王都で使っていた声紋石とは別の、王宮保管用の記録石。私の詠唱記録が残っているもの。


 再生が始まった。


 澄んだ音が広間に響いた。石柱に当たり、天井に跳ね、空間を満たしていく。旋律は正確で、音の一つひとつが揺らぎなく重なる。条約封印を維持するために、何年も繰り返してきた音。


 広間が静まった。咳払い一つ聞こえない。


 音が消えた。余韻が石の壁に吸い込まれていく。


「続いて、後任の詠唱記録を再生いたします」


 二つ目の記録が流れた。


 ——濁っていた。


 音が歪んでいる。旋律の骨格はかろうじて似ているが、音階が違う。長さが違う。間の取り方が違う。硝子に砂利を入れて振ったような、不安定な、聞いていて喉の奥が痛くなるような音。


 広間のざわめきが、今度は大きかった。


 二つの音を聴き比べれば、声紋魔法の知識がなくても分かる。片方は正しく、片方は壊れている。


 長官が続けた。


「後任の詠唱記録には、封印の楽譜の音階から大幅に逸脱した箇所が複数確認されました。この逸脱が、条約封印面への不正な詠唱痕として残留したものと結論づけます。なお——」


 長官の目がナターシャ様に向いた。


「王宮魔法省の登録記録を確認したところ、後任として届け出られたナターシャ・レーヴェンシュタイン嬢は、声紋魔法の素養検査を受けた記録がありません。資格登録も存在しません」



   ◇



 ディートリヒ様が立ち上がった。


「待ってくれ。これは引き継ぎの問題だ。前任者が十分な引き継ぎをしなかったから——」


 宰相が手を上げ、発言を制した。


「本法廷には、辺境公爵ヴォルフガング・フォン・ノルトヴァルトより、証拠として提出された文書があります。読み上げます」


 引き継ぎ文書の控えが広げられた。


「声紋術師リーゼロッテ・フォン・クラーレンバッハが辞任に際して王宮魔法省に提出した引き継ぎ文書の写しです。詠唱手順、封印の楽譜の保管場所、結界維持の注意事項、条約封印の更新履歴が記載されています。文書は魔法省の受理印つきであり、提出日はクラーレンバッハ嬢の辞任届と同日です」


 ディートリヒ様の顔から、血の気が引いた。


「さらに、同文書の冒頭に以下の記載があります。『本文書は、後任の声紋術師が声紋魔法の素養を持つことを前提に記述する』——引き継ぎの不備ではなく、後任の選定の問題であったことが、この一文で明らかです」


「そ、それは——リーゼが勝手に出て行ったんだ。私は引き止めた。彼女が——」


 宰相がもう一枚の書面を持ち上げた。


「シュテルンハイム公爵家より提出された、声紋術師の辞任届です。末尾に署名があります。——ディートリヒ・フォン・シュテルンハイム殿。これは、あなたの署名ですね」


 広間が、しん、と冷えた。


 ディートリヒ様は口を開き、閉じた。それを二度繰り返した。



   ◇



 ナターシャ様が泣き始めた。


 小さな嗚咽。肩が震えている。俯いた顔から涙がこぼれ、被告席の木肌に染みを作る。


「わ、私は——ディートリヒ様が、お前でもできると——おっしゃったから——」


 声が震えている。あの控えめな、揺れる語尾。けれど今は、それが言い訳の調子を帯びていた。


「私、声紋魔法のことなんて分からなかった。でもディートリヒ様が、声を出すだけの仕事だと——誰でもできると——」


 ディートリヒ様がナターシャ様を見た。目が見開かれている。


「ナターシャ、何を——」


「だって! ディートリヒ様が任せるとおっしゃったのです。私はお言葉に従っただけで——」


 泣き声が広間に響いた。傍聴席のどこかで、小さな吐息が漏れた。同情ではない。呆れに近い音だった。


 ディートリヒ様がナターシャ様に向かって何か言おうとした。そのとき、傍聴席から声が上がった。


 ハインリヒ公爵が立ち上がっていた。


 広間が静まった。現公爵が発言するという重み。灰色の髪に刻まれた皺。硬い顎。息子に向ける目は、怒りとも悲しみともつかない、冷えた色をしていた。


「——息子の弁護は、いたしません」


 短い。けれど、それで十分だった。


 ディートリヒ様が父を見た。色を失った顔で。唇が動く。音にならない。


 傍聴席の貴族たちが目を伏せる。ハインリヒ公爵の言葉は、公爵家がディートリヒ様を見放したという宣言に等しい。


 広間の空気が変わった。ディートリヒ様の周りから、目に見えない壁が消えていく。公爵家の名が守ってくれる、という壁が。


 ——誰にも守られなくなる日。


 その言葉が、不意に浮かんだ。



   ◇



 ディートリヒ様が叫んだ。


「声紋術師を呼び戻してくれ! 今すぐに! 彼女がいれば——彼女が戻れば、封印は直せるはずだ!」


 声が広間に跳ね返った。石柱に当たり、天井に散り、惨めな反響になって消えた。


 宰相が私を見た。


「証人、クラーレンバッハ嬢。何か申し述べることは」


 私は立ち上がった。


 広間の視線が集まる。国王陛下の目。宰相の目。貴族たちの目。ディートリヒ様の、すがるような目。


 声紋石が懐の中で、微かに温かい。


 私は息を吸った。冷たい石の広間の空気。詠唱の間と同じ空気。十年、この空気の中で声を上げてきた。


 ディートリヒ様を見た。


 この人に、何度「黙っていてくれ」と言われただろう。報告のたびに。進言のたびに。朝の挨拶のたびに。私の声は耳障りだと。うるさいと。口うるさいだけの女だと。


 ——もう、怒ってはいない。


 ただ、終わったのだと。それだけを、伝える。


「——黙っていてくれ、とおっしゃったのは、あなたでしたね」


 静かに言った。声は震えなかった。


 ディートリヒ様の顔が、凍った。


 広間が沈黙した。声紋石の再生が終わった後よりも深い、完全な沈黙。


 国王陛下が口を開いた。


「シュテルンハイム公爵家嫡男ディートリヒ・フォン・シュテルンハイム。王国唯一の声紋術師を不当に遠ざけ、資格なき者に国家の封印維持を委ね、条約の法的効力を危うくした責は重い。爵位継承権を剥奪し、シュテルンハイム公爵家を王宮の監察下に置く」


 判決が読み上げられる間、ディートリヒ様は何も言わなかった。言えなかったのだろう。


 広間を出るとき、背後から声が聞こえた気がした。


 私の名を呼ぶ声。掠れた、細い声。


 振り返らなかった。


 法廷の扉が閉まり、廊下に出た。石畳に自分の靴音だけが響く。


 彼の声は、もう届かなかった。


 ——ああ、やっと、静かだ。


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