第10話 この声を待つ人がいる朝は
裁判の翌日、王宮から使者が来た。
宿舎の窓から朝の光が差し込む中、使者は恭しく頭を下げ、一通の書簡を差し出した。国王陛下の私印が押された、正式な要請書。
『声紋術師リーゼロッテ・フォン・クラーレンバッハ殿。王国は、あなたの声紋魔法を必要としております。王宮付き声紋術師として復帰いただきたく、以下の条件をもって要請いたします。』
条件は破格だった。待遇の改善。専用の研究室。王宮魔法省における正式な地位。声紋術師としての功績を公的に記録すること。
十年前に欲しかったものが、すべて並んでいる。
使者が私の返答を待っている。エルザが部屋の隅で、静かに立っていた。
書簡を閉じた。
「陛下のご厚意に深く感謝いたします。けれど、辞退させていただきます」
使者が顔を上げた。
「私の声は、私が届けたい場所に届けます。辺境にはまだ封じるべき魔獣がおります。あの地の民が、私の声を待っています」
使者は何か言いかけ、やめた。頭を下げ、書簡を持って退出していった。
扉が閉まる。
エルザが、小さく息を吐いた。
「お嬢様。よろしかったのですか」
「ええ」
「王宮付き声紋術師。十年前のお嬢様なら——」
「十年前の私なら、泣いて喜んだでしょうね」
窓の外を見た。王都の街並みが朝日に照らされている。尖塔の向こうに王宮が見える。あの中に、詠唱の間がある。十年通った場所。
もう、あそこに戻る自分を想像できなかった。
「帰りましょう、エルザ」
「どちらへ」
「辺境へ」
エルザは頷いた。荷物は最初から、ほとんどまとめていなかった。
◇
馬車は南門から王都を出た。来たときと同じ道を、今度は逆に辿る。
石畳が土に変わり、畑が林に変わっていく。窓の外の景色が、一つずつ王都から遠ざかる。
エルザが向かいの席で、旅の食糧を確認していた。
「お嬢様。一つ、王都で耳にしたことがございます」
「何かしら」
「シュテルンハイム家の件です。裁判の後、ディートリヒ様は公爵邸を離れ、郊外の別邸に移られたそうです。ナターシャ様との縁も切れ、社交界にはもうお顔を出されていないと」
馬車が揺れた。轍にはまったのだろう。
「そう」
それだけ答えた。
もっと何か感じるかと思っていた。溜飲が下がるとか、胸がすくとか。けれど、何もなかった。遠い場所の、もう関わりのない人の話を聞いたような、ただそれだけの感覚。
「夜会で笑っていた方々は、誰もお見舞いに行かれていないそうです」
「……そう」
あの夜会で、「口うるさいだけの女」と笑った人たち。追従笑いをした人たち。宰相家の令嬢だけが、黙って視線を落としてくれた、あの夜。
今、ディートリヒ様の周りに誰もいないのは——私が奪ったのではない。彼が、自分で手放したのだ。私の声を。私の仕事を。私の献身を。そして最後に、父の信頼を。
「エルザ」
「はい」
「辺境に着いたら、まず封印地に行くわ。留守の間の封印の状態を確認しないと」
「かしこまりました。到着は四日後の予定です」
馬車が丘を越えた。王都の尖塔が、後ろの窓から消えた。
今度も、振り返らなかった。
◇
辺境に着いたのは、薄く雪が舞う朝だった。
領主府の門が見えたとき、馬車の窓から人影が見えた。門の前に、一人。
ヴォルフガングが立っていた。
黒い外套に雪が積もっている。どれくらい前からいたのだろう。息が白い。北の風が外套の裾を揺らしている。
馬車が止まった。扉を開ける。冷たい空気が頬を叩く。雪を踏む乾いた音。
「お帰りなさい」
短い。いつも通りの、飾りのない声。
けれど、その一言の中にある温度を、私はもう聞き間違えない。
「——ただいま、戻りました」
声が少し震えた。寒さのせいだと、思うことにした。
◇
封印地の確認を終え、声紋石を記録した。留守の間も封印は安定していた。辺境に来てから積み重ねた詠唱の効果が、しっかりと残っている。
屋敷に戻ると、ヴォルフガングが執務室で待っていた。
いつもの席。いつもの机。窓際に置かれた私の作業机も、そのままだった。声紋石を置くための布が敷かれた台も。
「裁判の結果は聞いています。王宮の復帰要請は」
「お断りしました」
「……そうですか」
あの雪原の夜と同じ言葉。けれど今度は、その声がほんの少しだけ——緩んでいた。
ヴォルフガングが机の引き出しを開けた。
小さな箱を取り出し、私の前に置いた。木箱。簡素な造りだが、蓋の裏に辺境公爵家の紋が刻まれている。
「開けてください」
蓋を持ち上げた。
中に、声紋石が一つ。
新しい水晶だった。私が持っているものとは少し違う。透明度が高く、内部にかすかな青い光を帯びている。北方の鉱山でしか採れない、上質の声紋水晶。
「辺境の鉱山で、声紋魔法に適した水晶が見つかりました。加工は王都の職人に依頼し、あなたが使いやすいよう調整してあります」
手に取った。掌に収まる大きさ。私の手に合わせた重さ。温かい——いや、まだ温まっていないはずだ。新しい石だから。それなのに、温かいような気がした。
「あなたの声を、この地の守りとして刻んでほしい」
以前も聞いた言葉だった。公的記録の話をしたときの、あの事務的な声。
けれど今は、続きがあった。
「——あなたの声を、ずっとこの地で聴いていたい」
ヴォルフガングは私を見ていなかった。窓の外の雪原を見ている。耳の端が、わずかに赤い。北の風のせいだけでは、ないだろう。
声紋石を両手で包んだ。新しい水晶の角が、指に当たる。
ずっと。
この人は、「ずっと」と言った。事務的な提案ではなく、未来の話を。
私は——
十年、声を小さくしてきた。耳障りだと言われ、黙れと言われ、口うるさいと笑われ、それでも声を上げ続けた。それが義務だったから。責任だったから。
けれど今、この人の前では、義務でも責任でもない理由で声を上げたいと思う。
「——私も」
声が出た。掠れてはいなかった。今朝の詠唱で使い果たしたはずなのに、まだ声は残っていた。この一言のために、残っていたのかもしれない。
「私も、ここで歌いたいと思います」
ヴォルフガングが、ようやくこちらを見た。
灰色の瞳。あの最初の日、封印地で詠唱を聴いた後と同じ色。驚きでも畏れでもなく——名前をつけるなら、たぶん。
名前はまだ、つけなくていい。
新しい声紋石を台の上に置いた。古い声紋石の隣に。二つの水晶が、窓からの光を受けて並んでいる。
◇
翌朝、封印地に向かった。
雪原を馬で渡る。空は灰色で、雪がちらついている。けれど風は穏やかだ。
石柱の前に立ち、新しい声紋石を左手に乗せた。水晶がかすかに青い光を帯びている。
息を整える。冷たい空気が喉を通る。
声を上げた。
新しい声紋石が、澄んだ音を返した。初めての記録。この地で、この石に刻む、最初の一音。
詠唱を終え、封印地を出ると、今朝も子供たちが待っていた。
「歌のお姉さま、お帰りなさい!」
「ただいま」
手を振る。小さな手が振り返される。
その向こうに、馬上のヴォルフガングが見えた。少し離れた場所で、静かに待っている。朝の雪を肩に積もらせたまま。
誰も、うるさいとは言わない。
誰も、黙れとは言わない。
辺境の冬は長い。けれど、この声を待つ人がいる朝は、どんな季節も温かかった。




