第8話 白い封筒
白い封筒は、昼の便で届いた。
辺境への郵便は週に二度。雪道を越えてくる伝令の馬が、領主府の正門に到着するのを、窓際の机から見ていた。いつもの商会からの書簡や、領内の報告書に混じって、一通だけ違う紙質のものがある。
厚い封筒。白い。王宮魔法省の封蝋が押されている。
ヴォルフガングの執事が、私宛の書簡として持ってきた。差出人は王宮魔法省記録管理室。あの白髪の老官吏がいる部署だ。
封蝋を割る。指先に、蝋の破片が散った。
中身は二枚。
一枚目は、公式の帰還要請書。
『声紋術師リーゼロッテ・フォン・クラーレンバッハ殿。条約封印の状態に関し、確認すべき事項が生じたため、王宮魔法省への出頭を求める。詳細は別紙の通り。至急のご対応を願う。』
二枚目が、その「別紙」だった。
『条約封印の定期検査において、異常な詠唱痕が検出された。痕跡は直近の更新時に混入したものと推定される。声紋魔法の専門的な照合が必要であり、前任術師の知見を求める。』
異常な詠唱痕。
書面を机の上に置いた。指先が冷たい。暖炉の火はついているのに。
条約封印に異常が出た。それは、更新時の詠唱が正しく行われなかったことを意味する。封印の楽譜を正しく読み、正しい音階で、正しい長さで詠唱しなければ、封印は安定しない。誤った詠唱を重ねれば、封印は安定しないどころか——汚染される。
ナターシャ様が、封印の楽譜を読めないことは知っていた。引き継ぎ文書に記した記法は、声紋魔法の素養がなければ解読できない。素養のない人間が見よう見まねで詠唱すれば、封印にどんな影響が出るか。
分かっていた。分かっていて、私は去った。
——いいえ。
息を吸った。冷たい空気が肺を満たす。
私は正当な手続きを踏んで辞任した。引き継ぎ文書を残した。後任の選定は公爵家の判断だ。声紋魔法の素養がない人間を任命したのは、私ではない。
それでも。
封筒の白さが、目に残る。
◇
ヴォルフガングに書簡を見せたのは、午後の打ち合わせの席だった。
彼は二枚の書面を読み、机の上に静かに戻した。表情は変わらない。ただ、顎の線がわずかに引き締まった。
「帰還要請か」
「はい」
「どうしますか」
問い方が、この人らしかった。「帰るのですか」ではなく、「どうしますか」。判断を私に委ねている。
「帰還はお断りします。王宮への出頭は——証人としてなら応じますが、声紋術師として復帰するつもりはありません」
「理由を聞いても?」
「私はもう、あの場所の声紋術師ではありません。辞任届を提出し、受理されています。帰還要請に応じる法的義務はないはずです」
ヴォルフガングは頷いた。
「ただ——」
声紋石を取り出した。布を解くと、水晶が暖炉の光を受けて淡く輝く。中には、辺境に来てからの詠唱記録がすべて刻まれている。
「この声紋石には、私が王都で行っていた正規の詠唱記録も残っています。王宮の声紋石には、後任が行った詠唱の記録が残っているはずです。両方を照合すれば、条約封印の異常がどこから来たのか、明らかになります」
「声紋石の記録を、証拠として提出するということですか」
「はい。私の記録を提供します。あとは王宮の判断です」
ヴォルフガングはしばらく黙っていた。暖炉の薪が崩れる音だけが、執務室に響く。
「クラーレンバッハ嬢。一つ、提案があります」
「はい」
「声紋石の記録を、辺境公爵として王宮に正式に上奏します。私の名で、公的な文書として。あなた個人の訴えではなく、領主府からの証拠提出という形にすれば、法的な重みが変わる」
私は彼を見た。灰色の瞳は揺れていない。
「——なぜ、そこまで」
「あなたはこの地の声紋術師です。あなたの記録を守ることは、この領地の守りを守ることと同じです」
事務的な理由。けれど、その声の奥にある温度を、聞き間違えてはいないと思う。
「……ありがとうございます。お願いします」
◇
部屋に戻ると、エルザが荷物の整理をしていた。
「お嬢様、お帰りなさいませ。王宮からのお手紙、拝見しました」
「見たの?」
「封筒の封蝋を見れば分かります。——それで、お嬢様。一つ、ご報告がございます」
エルザは棚の奥から、紐で束ねた紙の束を取り出した。
引き継ぎ文書の控え。
「これは——」
「出立の際にお預かりしたものです。お嬢様が魔法省に提出された引き継ぎ文書と同一の内容の、写しでございます」
私は束を受け取った。厚い。あのとき書いた、十年分の業務の記録。声紋魔法の記法で記された詠唱手順。結界維持の注意点。条約封印の更新履歴。すべてが、ここにある。
「エルザ。これを、声紋石の記録と一緒に王宮へ届けましょう」
「かしこまりました」
「もし——もし、公爵家が『引き継ぎが不十分だった』と主張した場合に、これがあれば」
エルザは小さく頷いた。
「嘘が、通らなくなります」
控えの束を机の上に置いた。声紋石の隣に。白い封筒の隣に。
証拠が揃っていく。声紋石の正規記録。引き継ぎ文書の控え。辞任届の写し。ディートリヒ様の署名入り婚約辞退書面。
私が集めたわけではない。すべて、正当な手続きの中で残ったものだ。私の仕事の痕跡。きちんとやってきた、ということの記録。
それが今、証拠になろうとしている。
◇
夜、眠れなかった。
外套を羽織り、屋敷を出た。雪が止んだ夜は、空が広い。星が近い。王都では見えなかった数の星が、辺境の空を覆っている。
門の前に、人影があった。
ヴォルフガングだった。外套の襟を立て、雪原の向こうを見ている。
「——眠れませんか」
彼が先に声をかけた。振り返らずに。
「はい。少しだけ」
「私もです」
並んで立った。雪原に、二人分の息が白く上がる。
しばらく、どちらも話さなかった。風が雪の表面を撫で、細かい粉雪が低く舞っている。月が薄い雲の向こうにかかり、雪原を青白く染めている。
「クラーレンバッハ嬢」
「はい」
「あなたは、帰りたいですか」
王都に、という意味だと分かった。
考えた。王都の街並み。王宮の詠唱の間。あの冷たい石柱。公爵邸の廊下に漂う白百合の香り。報告書を積み上げた書斎。読まれない書面。耳障りだと言われた声。
それから、今立っている場所を見た。雪と星と、静かな風。背後に暖炉の灯る屋敷。朝になれば封印地で声を上げ、子供たちが「歌のお姉さま」と手を振る。窓際の机に声紋石を置き、記録を整理し、向かいの席でこの人が黙って書類を読んでいる。
「——いいえ」
声が、思ったより静かに出た。
「ここにいたいと、初めて思っています」
ヴォルフガングは黙っていた。雪を踏む音もしない。
それから、半歩だけ距離が縮まった気がした。外套の袖が触れるか触れないかの距離。
「……そうですか」
それだけ。けれど、その短い返事に宿った温度を、冬の空気が運んでくれた。
辺境の空に、白い鳥が一羽飛んだ。夜行性の鳥だろう。月明かりの中を、音もなく南へ向かっていく。
王都に届く記録は、私の声と、あの人が選んだ偽りの声。
どちらが本物か——判じるのは、王宮の仕事だ。




