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私の声を奪った婚約者が、誰にも守られなくなる日  作者: 九葉(くずは)


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第7話 大したことない

 朝食の席に、執事が報告を持ってきた。


「旦那様、南街道の商会から申し入れがございまして」


「ああ、何だ」


「交易路の安全が確保されていないため、当面の荷運びを見合わせたいとのことです。昨日も馬車が一台、魔獣の気配を感じて引き返したそうで」


 僕はパンにバターを塗る手を止めなかった。


「魔獣の気配? 交易路には封じがかけてあるだろう。大げさな商人だな」


「はい。ただ、同様の申し入れが三件ほど」


「三件?」


 さすがに手が止まった。執事の顔は平静だが、眉の下に影がある。


「物価にも影響が出始めております。南街道からの穀物と織物が滞り、市場の値が先週より一割ほど——」


「分かった、分かった。一時的なものだ。封じが弱まっているなら、ナターシャに強化を頼む。そう伝えておいてくれ」


 執事は一拍置いてから頷いた。何か言いたげな間だったが、僕は気にしなかった。


 交易路の魔獣封じ。リーゼが毎月やっていたらしい、あの仕事だ。声を出して、魔獣を眠らせるとか何とか。正直、詳しい仕組みは知らない。知る必要もないと思っていた。必要なのは結果だ。道が安全で、商人が荷を運び、物価が安定していればいい。


 ナターシャに任せれば済む話だ。



   ◇



 午後、王宮から使者が来た。


 書斎で受け取った書簡には、王宮魔法省の印が押されていた。中身は事務的な要請——結界の状態報告書の提出を求める内容だった。


『近日、王宮結界に軽微な変動が観測されたため、声紋術師の交代に伴う状態報告を求める。書式は別紙の通り。提出期限は十日以内。』


 結界の変動。軽微な、と書いてある。軽微だ。大したことではない。


 問題は、この報告書を誰が書くかだ。僕には結界の仕組みが分からない。声紋魔法の専門用語など、聞いたこともない単語ばかりだ。リーゼがいた頃はすべて彼女が処理していた。報告書も、記録も、王宮への提出も。


 ——ナターシャに頼めばいい。


 彼女を呼んだ。桃色の頬、潤んだ瞳。この顔を見ると、何となく大丈夫な気がする。


「ナターシャ、王宮から結界の報告書を求められた。書いてくれるか」


「報告書、ですか?」


「ああ。結界の状態がどうとか、声紋なんとかの記録がどうとか、そういうやつだ。書式はこれだ。適当に書いておいてくれ」


 書簡と別紙を渡した。ナターシャは受け取り、目を通した。その指先がわずかに強張ったのを、僕は見落とした。


「……はい。お任せください」


「頼んだよ」


 ナターシャが出ていった。白百合の香り。


 これで片付く。



   ◇



 ナターシャが報告書を持ってきたのは、三日後だった。


 僕は一応目を通した。一応、というのは、書かれている内容の半分も理解できなかったからだ。声紋石の状態、結界維持の詠唱記録、封印の更新状況——専門用語が並んでいる。


 ただ、最後の一行だけは読めた。


『結界の状態は安定しており、異常は認められない。声紋術師の交代に伴う影響は軽微である。』


 よし。問題なしだ。


「ご苦労。これで王宮に出しておく」


「はい……あの、ディートリヒ様」


「何だ?」


「報告書の内容なのですが、少し自信がなくて……もし専門の方に確認していただけたら——」


「必要ない。形式が整っていればいい。王宮だって、一字一句読むわけじゃないだろう」


 ナターシャは微笑んだ。いつもの、控えめな微笑みだった。ただ、唇の端がわずかに引きつっていたのを、僕は見なかった。


 報告書は翌日、王宮に届けられた。


 その報告書の中で「声紋共鳴率」の数値が物理的にありえない値であること、「封印維持周期」の単位が日と月で混同されていること、声紋術師の資格登録番号の欄にナターシャの名前がないこと——


 そのすべてに、僕は気づかなかった。



   ◇



 父からの書簡が届いたのは、夕食の後だった。


 ハインリヒ・フォン・シュテルンハイム。現公爵。普段は領地にいて、王都の屋敷にはめったに書簡を寄越さない。用があれば執事を通じて伝言する人だ。それが、自筆の書簡。


 封蝋を割った。父の筆跡は、いつも通り硬い。


『声紋術師の件。現状を報告せよ。クラーレンバッハ嬢の辞任に伴い、後任は誰か。王宮への報告は済んだか。不備があれば即座に連絡せよ。』


 短い。だが、父が自筆でこの件に触れてきたこと自体が、何かを意味しているのだろう。


 返事を書いた。


『ナターシャ・レーヴェンシュタインが後任を務めております。声紋魔法の素養があり、引き継ぎも完了しています。王宮への報告も提出済みです。問題ありません。』


 ——問題ありません。


 ペンを置いた。嘘は書いていない。ナターシャは声紋魔法が使えると言った。引き継ぎ文書はリーゼが残した。報告書も出した。何も問題はないはずだ。


 父からの返事は、翌日届いた。


 封蝋を割る。中には一行だけ。


『承知した。』


 それだけだった。


 承知した。同意でも賛成でも安堵でもなく、ただ「承知した」。父がこの言い方をするとき、それは——


 いや、考えすぎだ。父は昔からそういう人だ。言葉が少ないだけだ。


 書簡を引き出しにしまった。窓の外で、王宮結界の光が淡く揺れている。気のせいだろう。



   ◇



 辺境の執務室は、暖炉の火が静かに爆ぜている。


 机の上に、領地の地図が広げられていた。封印地を中心に、交易路、集落、山脈、河川が細かく書き込まれている。その地図の上で、ヴォルフガングと私は安全計画の打ち合わせをしていた。


「氷牙獣の封印が安定したことで、周辺の小型魔獣の活動も抑えられています。この領域の巡回頻度は下げられるかもしれません」


「根拠は」


「声紋石の記録です。封印詠唱の後、周辺の魔力濃度が下がっています。小型魔獣は魔力の濃い場所に集まる性質がありますから、封印が安定すれば自然と遠ざかるはずです」


 ヴォルフガングは地図から顔を上げ、私を見た。


「巡回を減らした分の人員を、南側の峠道に回すことは可能ですか」


「ええ。封印の安定が続くなら、それが効率的です」


「では、そのように」


 短い言葉で方針が決まった。


 王都では、こうはいかなかった。ディートリヒ様に進言しても、「分かった分かった」と聞き流されるか、「それは君の仕事だろう」と丸投げされるかのどちらかだった。議論にならなかった。声紋魔法の専門知識がなければ判断できない事柄を、私一人に任せきりにして、結果だけを当然のように享受していた。


 ヴォルフガングは違う。


 分からないことは質問する。根拠を求める。判断材料が揃ったら、迷わず決める。そして決めたことには、自分の名で責任を取る。


 地図を挟んで向かい合う。暖炉の火が、彼の横顔に陰影を落としている。


「クラーレンバッハ嬢」


「はい」


「南側の峠道の件、明日の巡回に同行してもらえますか。魔力濃度の実測を、あなたの声紋石で行いたい」


「もちろんです」


 ——こういう会話を、したかった。


 自分の知識を必要とされ、意見を聞かれ、それが判断に反映される。同じ机の上の同じ地図を見て、同じ問題について考える。


 こんなに当たり前のことが、十年間なかった。


 暖炉の火が一つ爆ぜた。ヴォルフガングが地図を丸め、棚に戻す。その背中に、何か言いかけて、やめた。


 まだ、言葉にするには早い。


 けれど——この場所は、温かい。雪に閉ざされた北の果てなのに、この執務室の空気だけは、いつも温かい。

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