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私の声を奪った婚約者が、誰にも守られなくなる日  作者: 九葉(くずは)


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第6話 偽りの声

 辺境に来て十日が過ぎた。


 朝の封印詠唱が日課になった。氷牙獣の封印地まで馬で片道半刻。雪原を渡る風は相変わらず冷たいが、石柱の前に立つと不思議と気持ちが凪ぐ。


 今朝も詠唱を終え、声紋石が澄んだ音を返した。封印、安定。地鳴りは初日以来起きていない。


 石柱のあいだを抜けると、小さな人影が雪の上に並んでいた。領民の子供たちが三人、頬を赤くして私を待っている。


「歌のお姉さま、今日もありがとうございます!」


 最初に声をかけてきたのは、到着の日に手を振ってくれた子だった。あれから毎朝、封印地の近くまで来ては、詠唱が終わるのを待っている。親に止められないのだろうかと案じたが、エルザによれば、大人たちも「歌のお姉さまが来てから地揺れがなくなった」と喜んでいるらしい。


「歌のお姉さま、声がきれいですね」


 別の子が言った。鼻の頭が赤い。


「ありがとう。寒いのに、毎朝来なくて大丈夫?」


「だって、お姉さまの歌を聴くと温かくなるんです」


 温かい。私の声が。


 王都では一度も言われなかった言葉だ。喉の奥に鉄の味を残しながら、誰にも聞かれない広間で歌い続けた十年間、一度も。


「——ありがとう。明日も歌うわ」


 子供たちが笑って走っていく。雪を蹴る小さな足音が、白い野原に散っていった。



   ◇



 屋敷に戻ると、ヴォルフガングが執務室で待っていた。


 この人は無駄な前置きをしない。私が席に着くと、机の上に一通の書面を置いた。


「目を通してもらえますか」


 手に取る。辺境公爵領の公印が押された公文書だった。


『声紋術師リーゼロッテ・フォン・クラーレンバッハの詠唱記録を、ノルトヴァルト辺境公爵領の公的守護記録として保管する。記録は声紋石により行い、領主府の記録庫に正本を置く。』


「あなたの声を、この地の守りとして正式に記録したい」


 ヴォルフガングの声は、いつもと同じ低く落ち着いた調子だった。


「記録は二部作成します。一部は領主府の記録庫に。もう一部はあなたの手元に。詠唱の日時、封印の状態、異常の有無を併記し、公印を押します」


「公的記録、ですか」


「ええ。あなたの仕事を、紙の上でも残しておきたい。声紋術師の業務が、正しく記録に残るように」


 書面を読み返した。文面は事務的で、飾り気がない。この人らしい。


 けれど、その事務的な文面の意味が、胸に沁みた。


 王都では、報告書を読んでもらえなかった。声紋術師の業務がどれだけ重要かを、書面にまとめて届けても、書斎の机に積まれたまま埃を被った。


 この人は、記録を残すと言っている。公印を押して。公的な文書として。


「——ありがとうございます。ぜひ、お願いいたします」


「では、今日の分から始めましょう。声紋石の記録方法を教えていただけますか。保管の手順を、記録官にも共有したい」


 私は頷き、声紋石を取り出した。記録の方法を説明する。ヴォルフガングは口を挟まず最後まで聞き、要点を自分の手で書き留めた。


 その筆跡は招聘状と同じ、飾り気のない実務的な字だった。


 説明を終え、ふと気づいた。執務室の窓際に、小さな机が一つ増えている。椅子と、筆記具と、声紋石を置くための布が敷かれた台。


「あの机は」


「あなたの作業用に置きました。記録の整理や、封印の楽譜を参照する際に使ってください」


 何でもないことのように言った。視線は手元の書類に落ちている。


 誰かが、私の仕事のために場所を作ってくれたのは——いつ以来だろう。公爵邸では、私の作業場は自室の片隅だった。誰かが用意してくれたものではなく、自分で確保した小さな空間。


「……ありがとうございます」


「仕事に必要なものがあれば、遠慮なく言ってください」


 それだけだった。それだけのことが、こんなにも満ちる。


 窓際の机に座り、声紋石を台の上に置いた。布の感触が柔らかい。声紋石を傷つけないよう選ばれた素材だと分かる。


 この人は、声紋石の扱い方を知っている。



   ◇



 ——声が、出ない。


 いいえ、声は出ている。出ているのに、この石が反応しない。


 ナターシャは詠唱の間の中央に立ち、声紋石を握りしめていた。冷たい。何度声をかけても、水晶は温まらない。光も灯らない。


 十日が経った。毎朝ここに立ち、声を上げている。引き継ぎ文書は読めなかった。あの意味不明な線と点の羅列は、何度眺めても図形にしか見えない。


 だから、自分なりにやっている。声を出す。高い音、低い音、長い音、短い音。どれかが当たるはず。声紋魔法とは声を出すことなのだから。


 声紋石が——鳴った。


 音が返ってきた。初めて。


 だが、おかしい。リーゼロッテの記録で聞いた澄んだ音とは違う。濁っている。硝子の器に砂利を入れて振ったような、濁った、歪んだ音。


 ナターシャは声紋石を耳から離した。


 ——慣れの問題だわ。最初はこんなものよ。あの女だって、十年もかけたのだから。


 封印の楽譜を広げた。線と点。何を意味するのか分からない。けれど、音の高さと長さくらいは推測できる。たぶん、この線が旋律で、この点が区切りで——


 たぶん。


 条約封印の更新期限が迫っていた。ディートリヒ様から「そろそろだろう」と言われている。どうにかしなければ。ディートリヒ様に、私にはできないとは言えない。


 楽譜の記号を見よう見まねで声に変えた。高い音。低い音。長く伸ばす。止める。


 声紋石が再び鳴った。


 濁った音。さっきよりもひどい。歪んでいる。割れた鐘のような、聞いていて不安になる音。


 ナターシャは声紋石を机に置いた。手が震える。袖口で隠した。


 ——大丈夫。大丈夫よ。声紋石の音が少し濁っているだけ。封印が壊れたわけではないもの。


 詠唱の間を出た。廊下に、使用人の噂話が漂っている。


「——交易路の魔獣封じが弱くなったって、商人が言っていたそうですよ」


「まさか。あの道は声紋術師が——」


「でも、先日も馬車が引き返したって」


 ナターシャは足を速めた。聞こえない。聞こえなかった。


 自室に戻り、鏡の前に立つ。顔色が悪い。目の下に翳りがある。


 ディートリヒ様には笑顔を見せなければ。困った顔を見せたら、心配をかけてしまう。あの方は、私が微笑んでいれば安心するのだから。


 鏡の中の自分に、微笑みを作った。頬が引きつる。


 ——慣れれば大丈夫。慣れれば。


 詠唱の間では、声紋石が机の上に置かれたままだった。水晶の中に、濁った音の記録がひとつ、暗く沈んでいる。



   ◇



 辺境の夜は早い。


 夕食の後、私は窓際の机で声紋石の記録を整理していた。今日の封印詠唱の記録、封印地の状態、気温と風の強さ。ヴォルフガングの提案どおり、公的記録として残すための書式に合わせて書き直す。


 ペンを置き、窓の外を見た。雪が月明かりに青白く光っている。静かだ。王都の夜とは違う種類の静けさ。馬車も社交の喧噪もない代わりに、雪と風と、遠くの獣の声だけがある。


 ふと、王都のことを考えた。


 条約封印の更新期限は、もうすぐのはずだ。私が管理していた頃は、更新の二週間前から準備を始めていた。楽譜を確認し、声の調子を整え、当日に万全の状態で臨めるよう体調まで管理した。


 今は——誰がやっているのだろう。


 ナターシャ様が引き継いだと、ディートリヒ様は言っていた。彼女が本当に声紋魔法を使えるのなら、問題はない。使えるのなら。


 ——もう、私が案ずることではない。


 声紋石を布に包み、台の上に戻した。柔らかい布の感触が指に残る。


 この地で、この記録を積み重ねていく。一日ずつ。私の声を必要とする人たちのために。


 ペンを取り、記録の最後に一行を加えた。


『封印状態:安定。地鳴りなし。領民より異常報告なし。』


 書き終えて、灯りを落とした。


 王都の声紋石が今どんな音を返しているか、私は知らない。知る術もない。


 ただ、この辺境の声紋石は今日も澄んだ音を返した。それだけが、確かなことだった。


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― 新着の感想 ―
声紋術師かいないって…国内に何箇所封印があるかわからないが重要な封印の術者の後継者を全く育てない王族や貴族は全く仕事をしてないってことなんですね 八年持った封印にも毎日術を施さなければならないってなん…
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