第5話 守りの歌
雪を見たのは、馬車の窓越しだった。
丘陵を越えたあたりから空が低くなり、灰色の雲が稜線にかかった。そこから先は、道の両脇に白が混じり始め、やがて地面そのものが白く覆われた。夏の手前だというのに、辺境の風は骨まで冷える。
「お嬢様、外套を」
エルザが膝に厚手の布をかけてくれた。王都では使う機会のなかった冬仕様のものだ。
車輪が轍にはまり、馬車が揺れた。窓の外に、集落が見える。石と木で組まれた質素な家々。煙突から細い煙が上がっている。
辺境公爵領ノルトヴァルト。北方の端に位置し、万年雪を戴く山脈を背負った土地。王都からは馬車で七日。招聘状に書かれていた地名が、今、窓の向こうに実体を持って広がっている。
馬車が止まった。
扉を開けると、冷気が頬を叩いた。息が白い。足元の雪を踏むと、乾いた音がした。王都の雪とは質が違う。粒が細かく、硬い。
「ようこそ、クラーレンバッハ嬢」
声は低く、短かった。
ヴォルフガング・フォン・ノルトヴァルト。辺境公爵。
想像していたのとは違った。辺境の領主というから、無骨な大男を思い描いていた。実際は、背は高いが線は細い。黒髪を後ろに束ね、冬の外套を纏った立ち姿に無駄がない。三十手前と聞いていたが、目元に刻まれた影はもう少し年嵩に見える。北の風と責任が、この人を削ったのだろう。
「長旅をお疲れでしょう。部屋と食事の支度はしてあります」
「ご配慮ありがとうございます」
「ただ——」
彼は一度、言葉を切った。雪を踏む靴音が止まる。
「お疲れのところ申し訳ないが、一つだけ見ていただきたい場所があります。今日のうちに」
灰色の瞳が、まっすぐに私を見ていた。社交辞令の目ではない。切迫を抑えた、実務の目だ。
「ご案内ください」
◇
馬に乗り換え、雪原を北へ進んだ。
ヴォルフガングは前を行き、私はその後ろに付いた。エルザは屋敷に残した。護衛の騎士が二人、少し離れて従っている。
雪原の果てに、黒い岩壁が見えた。山脈の裾野に露出した岩盤が、不自然に割れている。その裂け目の周囲に、古い紋様が刻まれた石柱が並んでいた。
封印地。
馬を降りた瞬間、足元が震えた。
地鳴り。低く、重い、地の底から這い上がってくるような振動。雪の表面に細かな波紋が走る。
「——これが、氷牙獣の封印です」
ヴォルフガングの声が、風に混じって届いた。
「古代種の魔獣で、この地に千年以上封じられています。封印は代々の声紋術師が維持してきましたが、先代が亡くなってからもう八年。封印が弱まり、地鳴りの頻度が増しています」
岩壁の裂け目から、冷気とは別の——もっと古い、もっと重い空気が漏れ出ている。私の喉が本能的に反応した。声紋魔法を使う者だけが感じ取る、封印の軋み。
「毎年冬になると地鳴りがひどくなる。昨冬は、裂け目が三寸ほど広がりました」
ヴォルフガングは岩壁を見つめたまま続けた。
「王宮に支援を要請しましたが、声紋術師は王都の結界維持に忙しいとの返答でした。——あなたが王都にいらした頃の話です」
そうだろう。私は毎朝、王宮結界と条約封印の維持に声を費やしていた。辺境の封印に回す余力は、確かになかった。
「この地には、あなたの声が必要です」
飾りのない言葉だった。懇願でもなく、命令でもなく。ただ、事実として。
私は声紋石を懐から取り出した。布を解くと、水晶が北の光を受けてかすかに輝いた。
「やれますか」
「試してみます」
封印地の石柱の中央に立った。足元の雪を踏み固め、声紋石を左手に乗せる。
地鳴りが脚を伝って腹の底まで響いている。封印の楽譜はここにはない。だが、師匠が残した音階の体系は頭の中にある。古代種の封印に使う詠唱は、王宮結界の維持とは旋律が異なる。もっと低く、もっと長く、地の底に届かせるように。
息を整えた。
冷たい空気が喉を通る。
——歌う。
声が出た瞬間、雪原の空気が変わった。
私の声は石柱に当たり、岩壁に反射し、裂け目の奥へ沈んでいった。旋律が封印の紋様をなぞるように広がる。古い術式が声を認識し、千年分の封印が私の音を受け入れる。
地鳴りが——弱まった。
もう一節。声を低く沈め、封印の軋みを繕う音を重ねる。喉の奥に鉄の味が滲んだ。構わない。この味は知っている。十年、毎朝感じてきた味だ。
最後の一音が消えた。
沈黙。
雪原に、風の音だけが残った。地鳴りは止まっている。岩壁の裂け目から漏れていた古い空気も、今は穏やかだ。
声紋石が、澄んだ音を返した。封印、正常。
膝が少し震えた。久しぶりに全力の詠唱を行った。息が白く、長く伸びる。
後ろで、靴が雪を踏む音がした。
振り返ると、ヴォルフガングが立っていた。灰色の瞳が、さっきまでとは違う色をしていた。何と呼べばいいのか分からない。驚き、というには静かすぎる。畏れ、というには温かすぎる。
彼は一歩だけ近づいた。手に、革の水筒を持っていた。
「飲んでください。喉に負担がかかるでしょう」
受け取ると、水筒は温かかった。白湯だった。この寒さの中、湯を用意していたのだ。詠唱の後に喉を温める必要があることを、この人は知っていた。
一口含む。喉の奥の鉄の味が、少しだけ和らいだ。
「——これが」
ヴォルフガングは雪原を見渡した。地鳴りの止んだ、静かな白い大地を。
「これが、王国を守っていた声か」
それだけだった。
賞賛ではなかった。感嘆でもなかった。ただ、声紋魔法というものが何であるかを初めて正しく聴いた人間の、偽りのない実感だった。
私の目が熱くなった。
泣いたわけではない。冷たい風のせいだと、自分に言い聞かせた。
◇
屋敷に戻る道で、すれ違った領民の女性が足を止めた。
「あなた様が——歌ってくださったのですか?」
地鳴りが止まったことに、もう気づいたらしい。
「はい」
「ありがとうございます。冬の間、ずっと怖かったのです。家が揺れるたびに、子供たちが泣いて」
女性の隣に、幼い子が二人いた。一人が私を見上げて、小さく手を振った。
「お姉さまの歌、すごかったね」
歌。
耳障りだと言われた声を、この子は歌と呼んだ。
「……ありがとうございます」
それだけ返すのが精一杯だった。
馬上で、ヴォルフガングは何も言わなかった。ただ、少しだけ馬の歩みを緩めてくれていた。
◇
屋敷に戻ると、エルザが部屋を整えてくれていた。暖炉に火が入り、窓際の机に筆記具が揃えてある。
「お嬢様、お帰りなさいませ。——お顔の色がよろしいですね」
「そう?」
「はい。王都にいらした頃より」
声紋石を机の上に置いた。今日の封印詠唱の記録がまだ光を帯びている。
この地で、記録を積み重ねていくのだ。声紋石に、一日ずつ。
窓の外で、雪がちらつき始めた。辺境の夏は短いという。冬は長く、厳しい。
けれど、今日この地で声を上げたとき——誰も、うるさいとは言わなかった。
辺境の民は、私の詠唱を「守りの歌」と呼んだ。
私の声を、歌と呼んでくれた人は、これが初めてだった。




