表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
私の声を奪った婚約者が、誰にも守られなくなる日  作者: 九葉(くずは)


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

5/10

第5話 守りの歌

 雪を見たのは、馬車の窓越しだった。


 丘陵を越えたあたりから空が低くなり、灰色の雲が稜線にかかった。そこから先は、道の両脇に白が混じり始め、やがて地面そのものが白く覆われた。夏の手前だというのに、辺境の風は骨まで冷える。


「お嬢様、外套を」


 エルザが膝に厚手の布をかけてくれた。王都では使う機会のなかった冬仕様のものだ。


 車輪が轍にはまり、馬車が揺れた。窓の外に、集落が見える。石と木で組まれた質素な家々。煙突から細い煙が上がっている。


 辺境公爵領ノルトヴァルト。北方の端に位置し、万年雪を戴く山脈を背負った土地。王都からは馬車で七日。招聘状に書かれていた地名が、今、窓の向こうに実体を持って広がっている。


 馬車が止まった。


 扉を開けると、冷気が頬を叩いた。息が白い。足元の雪を踏むと、乾いた音がした。王都の雪とは質が違う。粒が細かく、硬い。


「ようこそ、クラーレンバッハ嬢」


 声は低く、短かった。


 ヴォルフガング・フォン・ノルトヴァルト。辺境公爵。


 想像していたのとは違った。辺境の領主というから、無骨な大男を思い描いていた。実際は、背は高いが線は細い。黒髪を後ろに束ね、冬の外套を纏った立ち姿に無駄がない。三十手前と聞いていたが、目元に刻まれた影はもう少し年嵩に見える。北の風と責任が、この人を削ったのだろう。


「長旅をお疲れでしょう。部屋と食事の支度はしてあります」


「ご配慮ありがとうございます」


「ただ——」


 彼は一度、言葉を切った。雪を踏む靴音が止まる。


「お疲れのところ申し訳ないが、一つだけ見ていただきたい場所があります。今日のうちに」


 灰色の瞳が、まっすぐに私を見ていた。社交辞令の目ではない。切迫を抑えた、実務の目だ。


「ご案内ください」



   ◇



 馬に乗り換え、雪原を北へ進んだ。


 ヴォルフガングは前を行き、私はその後ろに付いた。エルザは屋敷に残した。護衛の騎士が二人、少し離れて従っている。


 雪原の果てに、黒い岩壁が見えた。山脈の裾野に露出した岩盤が、不自然に割れている。その裂け目の周囲に、古い紋様が刻まれた石柱が並んでいた。


 封印地。


 馬を降りた瞬間、足元が震えた。


 地鳴り。低く、重い、地の底から這い上がってくるような振動。雪の表面に細かな波紋が走る。


「——これが、氷牙獣の封印です」


 ヴォルフガングの声が、風に混じって届いた。


「古代種の魔獣で、この地に千年以上封じられています。封印は代々の声紋術師が維持してきましたが、先代が亡くなってからもう八年。封印が弱まり、地鳴りの頻度が増しています」


 岩壁の裂け目から、冷気とは別の——もっと古い、もっと重い空気が漏れ出ている。私の喉が本能的に反応した。声紋魔法を使う者だけが感じ取る、封印の軋み。


「毎年冬になると地鳴りがひどくなる。昨冬は、裂け目が三寸ほど広がりました」


 ヴォルフガングは岩壁を見つめたまま続けた。


「王宮に支援を要請しましたが、声紋術師は王都の結界維持に忙しいとの返答でした。——あなたが王都にいらした頃の話です」


 そうだろう。私は毎朝、王宮結界と条約封印の維持に声を費やしていた。辺境の封印に回す余力は、確かになかった。


「この地には、あなたの声が必要です」


 飾りのない言葉だった。懇願でもなく、命令でもなく。ただ、事実として。


 私は声紋石を懐から取り出した。布を解くと、水晶が北の光を受けてかすかに輝いた。


「やれますか」


「試してみます」


 封印地の石柱の中央に立った。足元の雪を踏み固め、声紋石を左手に乗せる。


 地鳴りが脚を伝って腹の底まで響いている。封印の楽譜はここにはない。だが、師匠が残した音階の体系は頭の中にある。古代種の封印に使う詠唱は、王宮結界の維持とは旋律が異なる。もっと低く、もっと長く、地の底に届かせるように。


 息を整えた。


 冷たい空気が喉を通る。


 ——歌う。


 声が出た瞬間、雪原の空気が変わった。


 私の声は石柱に当たり、岩壁に反射し、裂け目の奥へ沈んでいった。旋律が封印の紋様をなぞるように広がる。古い術式が声を認識し、千年分の封印が私の音を受け入れる。


 地鳴りが——弱まった。


 もう一節。声を低く沈め、封印の軋みを繕う音を重ねる。喉の奥に鉄の味が滲んだ。構わない。この味は知っている。十年、毎朝感じてきた味だ。


 最後の一音が消えた。


 沈黙。


 雪原に、風の音だけが残った。地鳴りは止まっている。岩壁の裂け目から漏れていた古い空気も、今は穏やかだ。


 声紋石が、澄んだ音を返した。封印、正常。


 膝が少し震えた。久しぶりに全力の詠唱を行った。息が白く、長く伸びる。


 後ろで、靴が雪を踏む音がした。


 振り返ると、ヴォルフガングが立っていた。灰色の瞳が、さっきまでとは違う色をしていた。何と呼べばいいのか分からない。驚き、というには静かすぎる。畏れ、というには温かすぎる。


 彼は一歩だけ近づいた。手に、革の水筒を持っていた。


「飲んでください。喉に負担がかかるでしょう」


 受け取ると、水筒は温かかった。白湯だった。この寒さの中、湯を用意していたのだ。詠唱の後に喉を温める必要があることを、この人は知っていた。


 一口含む。喉の奥の鉄の味が、少しだけ和らいだ。


「——これが」


 ヴォルフガングは雪原を見渡した。地鳴りの止んだ、静かな白い大地を。


「これが、王国を守っていた声か」


 それだけだった。


 賞賛ではなかった。感嘆でもなかった。ただ、声紋魔法というものが何であるかを初めて正しく聴いた人間の、偽りのない実感だった。


 私の目が熱くなった。


 泣いたわけではない。冷たい風のせいだと、自分に言い聞かせた。



   ◇



 屋敷に戻る道で、すれ違った領民の女性が足を止めた。


「あなた様が——歌ってくださったのですか?」


 地鳴りが止まったことに、もう気づいたらしい。


「はい」


「ありがとうございます。冬の間、ずっと怖かったのです。家が揺れるたびに、子供たちが泣いて」


 女性の隣に、幼い子が二人いた。一人が私を見上げて、小さく手を振った。


「お姉さまの歌、すごかったね」


 歌。


 耳障りだと言われた声を、この子は歌と呼んだ。


「……ありがとうございます」


 それだけ返すのが精一杯だった。


 馬上で、ヴォルフガングは何も言わなかった。ただ、少しだけ馬の歩みを緩めてくれていた。



   ◇



 屋敷に戻ると、エルザが部屋を整えてくれていた。暖炉に火が入り、窓際の机に筆記具が揃えてある。


「お嬢様、お帰りなさいませ。——お顔の色がよろしいですね」


「そう?」


「はい。王都にいらした頃より」


 声紋石を机の上に置いた。今日の封印詠唱の記録がまだ光を帯びている。


 この地で、記録を積み重ねていくのだ。声紋石に、一日ずつ。


 窓の外で、雪がちらつき始めた。辺境の夏は短いという。冬は長く、厳しい。


 けれど、今日この地で声を上げたとき——誰も、うるさいとは言わなかった。


 辺境の民は、私の詠唱を「守りの歌」と呼んだ。


 私の声を、歌と呼んでくれた人は、これが初めてだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
辺境では八年封印の更新が無くてもなんとか持ったなら王都は何年持つのかな? 辺境公爵は八年前迄にいた前任者の歌は聴いていなかったのかな?後継者がいなくなってからだけありがたがるなら王都の貴族と変わらない…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ