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私の声を奪った婚約者が、誰にも守られなくなる日  作者: 九葉(くずは)


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第4話 清々した

 最後の詠唱を終えたとき、詠唱の間に朝の光が差していた。


 いつもと同じ石柱。同じ天井。同じ冷えた空気。ただ、今朝だけは窓からの光が少し赤い。夜明けが早い季節になったのだと、今さら気づいた。


 声紋石が澄んだ音を返す。結界、正常。封印、安定。交易路の封じ、異常なし。


 この音を聞くのも、これが最後だ。


 記録を刻み終え、声紋石を布に包んだ。懐にしまう。いつもより丁寧に、少しだけ時間をかけて。


 詠唱の間を出る前に、振り返った。


 十年通った場所だった。冬は足元から凍えが這い上がり、夏は石の壁が湿気を帯びた。蝋燭の灯りだけで歌った日もある。熱を出しても休まなかった日もある。


 ——ありがとう、とは思わなかった。思えなかった。ただ、長かった、とだけ。


 扉を閉めた。靴音が廊下に響き、やがて消えた。



   ◇



 馬車は王都の南門を出た。


 石畳が土の道に変わり、車輪の音が柔らかくなる。窓の外を流れる景色が、商店街から麦畑に、麦畑から林に変わっていく。


 向かいの席でエルザが荷物の位置を直している。大きな荷はない。衣装が数着と、日用品と、書物が少し。それから声紋石と、封印の楽譜と、引き継ぎ文書の控え。十年暮らした公爵邸から持ち出すものが、これだけに収まることに驚くべきなのか、当然と思うべきなのか。


「お嬢様。お水をどうぞ」


「ありがとう」


 革の水筒から一口飲んだ。冷たい水が喉を通る。今朝の詠唱の鉄の味は、もう消えていた。


 林の木漏れ日が窓から差し込み、膝の上に光の斑を落としている。


 黙っていてくれ、と彼は言った。


 何度も。何度も。


 私は黙った。報告を短くし、声を小さくし、足音を殺し、存在を薄くした。それが正しいと思っていた。婚約者に煩いと思われないこと。公爵家で波風を立てないこと。


 けれど。


 黙らないことが、私の守り方だった。


 声を上げること。詠唱すること。結界の異常を報告し、封印の更新を進言し、交易路の危険を知らせること。私の声は、黙るためにあったのではない。


 もう黙ります。お望みどおりに。


 ——ただし、あの人の前でだけ。


 馬車が揺れ、窓の外に丘が見えた。丘の向こうは知らない土地だ。辺境までは、まだ何日もかかる。


「エルザ」


「はい」


「辺境は、寒いそうよ」


「存じております。厚手の外套を二着、荷に入れてございます」


「……さすがね」


「十年も支度をしておりますから」


 エルザの声に、かすかな笑みが混じっていた。私もつられて、少しだけ口元が緩んだ。


 馬車が丘を越える。王都の尖塔が、後ろの窓から小さくなっていく。


 振り返らなかった。



   ◇



 ——清々した。


 リーゼが出て行った翌朝、僕はそう思った。


 屋敷が静かだ。朝から結界の報告だの、封印の期限だのと押しかけてくることもない。書斎の机に積まれていた報告書の束も消えた。あの几帳面すぎる字で書かれた書面を見なくて済むのは、正直ほっとする。


「ディートリヒ様、おはようございます」


 ナターシャが朝の挨拶に来た。桃色の頬、潤んだ瞳、控えめな微笑み。こういう女性が傍にいるべきなのだ。声を張り上げて報告する女ではなく。


「おはよう、ナターシャ。今日から、この屋敷は君の好きにしていい」


「まあ……よろしいのですか?」


「もちろん。それと、声紋術師の件だが——引き継ぎは済んでいるはずだ。やれるな?」


 ナターシャは一瞬だけ目を伏せ、それから微笑んだ。


「ええ。お任せください。私、声紋魔法は使えますもの」


 頼もしい、と思った。リーゼが何年もかけてやっていた仕事を、彼女ならもっと優雅にこなしてくれるだろう。そもそも、声を出すだけの仕事がそこまで難しいはずがない。


「よし、頼んだよ。困ったことがあれば、言ってくれ」


「はい、ディートリヒ様」


 ナターシャが部屋を出ていく。白百合の香りが残る。


 僕は窓を開けた。朝の空気が書斎に流れ込む。


 清々した。本当に、清々した。



   ◇



 詠唱の間は、思ったより広かった。


 ナターシャは扉を開け、石柱に囲まれた空間を見回した。天井が高い。壁に窓がある。朝の光が斜めに差し込んでいる。


 ——ここで、あの女は毎朝歌っていたのね。


 机の上に、引き継ぎ文書が置かれていた。厚い束。ナターシャは最初のページを開いた。


 線と点の羅列が並んでいる。


 旋律の記号のようなものが、細かく、正確に記されている。だが、どれが何を意味するのか分からない。ページをめくっても、めくっても、同じような記号が続く。文章で書かれた部分はごくわずかで、それも「以下の詠唱を、声紋魔法の基本音階に従い——」と、前提知識がなければ読めない説明ばかりだった。


 冒頭の一文が目に入る。


『本文書は、後任の声紋術師が声紋魔法の素養を持つことを前提に記述する』


 ナターシャは引き継ぎ文書を閉じた。


 机の端に声紋石が置かれていた。予備のものだろうか。リーゼロッテが持ち出さなかった一つ。手に取ると、冷たい。水晶の中に何の光もない。


 どう使うのかしら。


 声を出せばいいのだ。声紋魔法とは、声を出すことだとディートリヒ様がおっしゃっていた。


 息を吸い、声を出した。


 詠唱の間に、ナターシャの声が響いた。


 声紋石は——何も返さなかった。冷たいまま。暗いまま。ナターシャの声を、ただ通り過ぎさせただけだった。


 もう一度。今度は少し高い声で。


 沈黙。


 ナターシャは声紋石を机に戻した。指先が震えるのを、袖口で隠した。


 ——慣れの問題だわ。最初はこんなものよ。あの女だって、最初は上手くできなかったはず。


 大丈夫。慣れれば、きっと。


 詠唱の間を出るとき、背後で窓硝子が微かに鳴った。風のせいだと思った。



   ◇



 その夜。


 王宮の衛兵は、巡回の途中で足を止めた。


 結界の光が——揺らいだ。


 王宮の外壁に沿って淡く発光する結界は、日没から夜明けまで一定の明るさを保つ。それが常だった。十年、一度も途切れたことがない。


 けれど今、光が瞬いた。蝋燭の炎が風に煽られるように、ほんの一瞬、暗くなり、すぐに戻った。


 衛兵は目をこすった。見間違いだろうか。結界の光はもう元に戻っている。


 報告するほどのことだろうか。一瞬のことだ。気のせいかもしれない。


 衛兵は巡回を続けた。靴音が石畳に響き、夜の王宮に消えていく。


 結界の光は、もう揺らがなかった。


 ——まだ。

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